第5話:別格
馬車に乗り込むとすぐに、ラファエルが距離を詰めてきた。
向かいの席ではなく、隣に座る。肩が触れる距離。初対面だというのに、この男には遠慮という概念がないらしい。
(……グイグイ来るタイプ、か。まずは主導権を握らないと)
「改めて——ラファエル・ド・ベルフォンです。堅苦しいのは苦手なので、ラファエルで構いません」
「では、ベルフォン様と」
「ラファエルで、と言ったんですが」
笑いながら、こちらの顎に指先を添えた。軽く、でも逃がさない力加減で、顔を上げさせる。
「——驚いたな。噂以上の美しさだ」
碧眼が至近距離で私を映している。
心臓が、一拍だけ跳ねた。
(……っ)
反射的に——手を払った。
「……婚約者でもない殿方に、気安く触れられる謂われはございませんわ」
あえて冷たく言い放った。令嬢口調が完璧に嵌まった一撃。——並みの男なら、狼狽するか気を悪くするところだ。
ラファエルは一瞬だけ目を見開いて、それから——笑った。
「ああ、怒らせちゃった。ごめん。——でも、いいね。そういう子、好きだよ」
反省の色がまるでない。それどころか、さっきより明らかに目が輝いている。
(……うん、上手くいったわ。簡単に手に入る女だと思われない方が、この手のタイプは本気になるはず)
◇◇◇
三日後の夜会は、これまでのどれとも格が違った。
会場は王城にも近い貴賓館。通常であれば男爵令嬢ごときが足を踏み入れられる場所ではない。
ラファエルは迎えに来るなり、私の手を取って馬車に乗せた。当然のように隣に座り、道中ずっと楽しそうに話し続ける。
「今夜はちょっとお堅い連中も多いけど、僕がいるから大丈夫。——君には僕だけ見ていてもらえればいい」
(何その台詞。あんたは少女漫画の主人公かっ!)
広間に入った瞬間、空気が変わった。集まっている人間の格が、纏う空気が——レナードと通った夜会とはまるで別世界だ。
そして、その場の中心にいるのがラファエルだった。
赤い髪をきちんと撫でつけ、碧の瞳が柔らかく弧を描く。笑い方が上手い。声がよく通る。人の話を聞く時の相槌が絶妙で、周囲を一瞬で自分の空気に巻き込む。——まるで太陽みたいな男だった。
令嬢たちが扇の向こうでひそひそ囁いている。「素敵」「お隣の方はどなた」「羨ましいこと」——聞こえてるわよ。
ラファエルは要人に挨拶して回りながら、さりげなく私の腰に手を添えていた。まるで当たり前のように、ごく自然に。
「こちら、アリシア・フォン・ヴェルン嬢。——僕の大切な人です」
(大切な人、ときたか。初めての夜会でもう?)
大胆だ。でも、彼が言うと不思議とすんなり通る。周囲の貴族たちも特に訝しむ様子はない。
夜会が半ばを過ぎた頃、ラファエルがグラスを置いた。
「ちょっと抜け出そう。——いいところがあるんだ」
テラスへ出た。一歩外に出ただけで、広間の賑やかさと切り離される。眼下には貴賓館の庭園が広がり、池の水面に無数の灯りが映っている。
「綺麗でしょう。子供の頃、夜会に連れてこられるたびに抜け出してここに来ていたんだ。——大人たちの話はつまらなくてね」
笑った。先ほどの華やかな社交の顔ではなく、少し眉を下げた、子供っぽい笑い方。
「怒られたよ、毎回。でも全く懲りなかった」
(……この顔は)
ルフェルトのような見栄でもなく、レナードのようなぎこちなさでもない。自然で、裏がなくて、明るい。「普通にいい男」だと認めざるを得ない。
「ヴェルン嬢——いや、アリシア。アリシアと呼んでいい?」
「勝手に呼ぶくせに、一応許可を取るのですね」
「それはそうだよ。嫌がられたら悲しいから」
(嫌がられたら悲しい、って。そういうことを真顔で言うのがずるいわ、この人は)
「……お好きになさいませ」
「ありがとう。——アリシア」
名前を呼ぶ声が、やけに甘く響いた。月明かりのせいだろう。たぶん。
◇◇◇
それから二週間。ラファエルの攻勢は、凄まじかった。
翌日からさっそく贈り物が届き始めた。初日は深い紫のアメジストのイヤリング。二日目は繊細なレースのグローブ。三日目には仕立て屋が屋敷に来た——ラファエルが手配した、王都一の仕立て屋だ。
「次の夜会に着てきてほしくて。——君に似合う色を選んでみたけどどうかな?」
添えられた手紙にはそう書いてあった。
(……やりすぎでしょう)
呆れた。呆れたのだが——仕立て屋が持ってきたその生地は、確かに私好みの色だった。銀灰色の髪に映える、深い翡翠のような緑。
(偶然でしょう。……偶然よね?)
お茶に誘われれば、用意されているのは王都で一番予約の取れないサロンの特等席。馬車で遠出すれば、季節外れの花が咲き乱れる温室庭園に連れていかれる。すべてが大がかりで、華やかで、隙がない。
ある日、二人でテラスのお茶を楽しんでいた時のこと。
「アリシアは、甘いものは好き?」
「ええ、嫌いではありませんわ」
「よかった。——実は今日、パティシエを呼んでるんだ」
出てきたのは、王宮御用達のパティシエが目の前で作る焼きたてのミルフィーユだった。サクサクの生地に濃厚なクリーム、旬の果物。一口食べた瞬間——
「……おいしい」
思わず、素の声が出た。
ラファエルが嬉しそうに笑う。「その顔が見たかった」
(……くっ。この男、いちいちツボを押さえてくるのよね)
頭では分かっている。これは期間限定の蜜月だ。タイマーが切れれば終わる、いつもの繰り返し。
でも——認めたくないけれど、楽しかった。この男の隣では——ほんの少しだけ、素の自分が顔を出してしまう。
婚約の申し出は、二週間目の終わりに来た。
場所は、あの貴賓館のテラス。初めて二人で出た場所を選ぶあたり、抜かりがない。
「アリシア。——僕と婚約してください」
迷いのない声だった。こちらの手を取って、まっすぐに目を見て——それから、懐から小さな箱を取り出した。
蓋を開けると、優美な金細工の指輪が入っていた。中央には大粒のダイヤモンド。きらきらと、眩しいくらいに輝いている。
「君に似合うと思って。——どうかな」
(三度目の婚約——だけど)
今までと少し違う感覚が、胸の奥にある。自分でも意外だったけれど。
「——ええ、喜んで」
ラファエルが、花が咲くようにぱっと笑った。そのまま私の手を引いて、テラスの欄干に並んで立つ。眼下の庭園に無数の灯りが揺れている。
「……綺麗ですわね」
素直な感想だった。ラファエルの肩に、ほんの少しだけ体重を預ける。
(この人もどうせ同じよ。タイマーが切れれば、冷めて、離れていく。……分かってるわよ、そんなこと)
分かっている。分かっているのに——今夜だけは、この景色を楽しんでもいいかと思った。




