第2話:初コンボ
指先まで、力が満ちていく。
ルフェルトから吸い取ったステータスが、資産が、奔流のように私の中に注ぎ込まれる。全身の細胞にエネルギーが満ちていく——大量の経験値を獲得して一気にレベルが跳ね上がるような高揚感だ。
(——これが、《契約破棄の代償》……!)
ルフェルトの顔色が変わったのは、その直後だった。
「な——」
瞳が見開かれる。ルフェルトの顔から、目に見えて血の気が引いていった。膝が僅かに揺れ、隣のエレナが慌てて彼の腕を支える。
「ルフェルト様……?」
「力が……抜けて……」
ルフェルトが私を見た。何が起きたのか分かっていない目だ。
当然だ。こんなスキルの存在を知っている人間は、転生者である私しかいないのだから。
「一体、何をした……?」
私はもう一度、ゆっくりと微笑んだ。
「何って——婚約破棄の慰謝料を頂いただけですわ」
広間が静まり返った。周囲の貴族たちが息を呑む。ルフェルトが何か言い返そうとしたが、力の入らない体で精一杯に立っているのがやっとだった。私はまっすぐ背筋を伸ばし、一礼して踵を返す。
大広間の扉が閉まる瞬間、出口近くに立っていた——あの格の高い紋章の男たちの鋭い視線を感じた。
(……何者かしらね?)
◇◇◇
ルフェルトから吸収した資産で真っ先にしたことは、ドレスの新調だった。仕立て屋で上質な絹を選び、夜会用の一着を仕立てさせた。男爵令嬢の予算では手が届かなかった高価な生地だ。
——元カレのお金で綺麗になるのって、最高じゃない?
その新しいドレスを纏い、私は社交界の夜会に出席していた。婚約破棄された直後の令嬢が夜会に出席するなんて、普通ならありえない行動だ。だが私には、状況を確認しておく必要がある。
大広間に足を踏み入れた瞬間、空気が変わったのが分かった。
視線が集まる。すれ違う貴族たちが、ちらちらとこちらを見ている。同情、好奇心、そして少し驚いたような目。
ルフェルトから吸い取った魅力と名声が、私の中に馴染んでいる。顔の造りは変わっていない。でも纏う空気が気品を帯びるようになり、周囲の目が変わったのが分かる。
給仕からシャンパンのグラスを受け取り、一口含む。前世ではめったに飲めなかったような上物だ。
(次はアクセサリーでも買おうかしら。いい宝石が手に入ったら、このドレスにも映えるし……)
買い物リストが止まらない。自然と口元が緩む。——異世界の悪役令嬢ライフ、悪くない。
夜会は穏やかに進んでいた。——ある人物が広間に現れるまでは。
「あ、あれは……」
入口近くでざわめきが起きた。私はグラスを傾けながら、視線だけをそちらに向ける。
ルフェルト・フォン・クロイツが、広間に入ってきたのだ。
先日の断罪シーンでは威張り散らしていた男が、明らかにやつれていた。髪は艶を失い、瞳は落ち着きなく左右を窺っている。それでもここに来たのは、社交界から消えたら終わりだと分かっているからだろう。貴族の世界では、姿を見せなくなった時点で負けを認めたことになる。
(その判断は正しいけど、もう手遅れね)
《スクラップ&ビルド》はとっくに仕事を始めていた。まるで用済みのカードをゲームから除外するかのように、不都合な過去が勝手に露呈してルフェルトを追い詰めていく。婚約中からエレナと密会を重ねていたこと。私に濡れ衣を着せるべく、息のかかった者に証言を偽造させていたこと。それらの噂が、この一週間で社交界に充分すぎるほど浸透していた。
ルフェルトが広間を横切ろうとする。するとルフェルトの友人だったはずの令息たちが、さっと目を逸らして別の方向へ歩き出した。ルフェルトの足が止まる。別の方向を向く。今度は令嬢のグループが、扇で口元を隠しながらひそひそと囁き合っている。
誰も、彼に声をかけない。
一週間前、あれほど彼の側に立っていた人間たちが、一人残らず距離を取っている。
ルフェルトの表情が強張っていく。焦りが苛立ちに変わり、苛立ちが怒りに変わりかけた瞬間——広間の反対側で、声が響いた。
「ヴェルン嬢……!」
声の主は、断罪の場で証人を務めた青年——マティ男爵子息だった。まっすぐ私の方へ歩いてくる。顔は青白く、声は震えている。だが、その目には覚悟があった。
広間中の視線が、マティと私に集まる。
「ヴェルン嬢、あの日は——本当に、申し訳ありませんでした」
マティは深く頭を下げた。
「私はクロイツ子爵に命じられて、嘘の証言をしました。ヴェルン嬢がエレナ嬢に嫌がらせをしたという話は、すべて——」
「おい、黙れ!」
ルフェルトの怒声が広間に響いた。だが遅い。広間中が静まり返り、全員の視線がルフェルトに集中していた。
マティは震える唇で続けた。
「すべて、クロイツ子爵がでっち上げたものです。ヴェルン嬢は何もしていません」
長い沈黙が流れた。
ルフェルトの顔が赤くなり、白くなり、もう一度赤くなった。何か言い返そうとして——結局、何も言えなかった。踵を返し、逃げるように広間を出ていく。扉が閉まった瞬間、堰を切ったようにざわめきが広がった。
「まあ、やっぱり」「あの方、本当にそんなことを……」「ヴェルン嬢がお気の毒に」
私はグラスの最後の一口を飲み干した。
完璧だ。後は、《スクラップ&ビルド》が格上の相手を引き寄せるのを待てば——
「……ヴェルン嬢」
不意に、背後から声をかけられた。同時に——チン、と頭の中で澄んだ音が鳴った。この音が《スクラップ&ビルド》の完了通知のようだ。
振り向くと、一人の男が立っていた。いつからそこにいたのだろう。先ほどの騒ぎの間、まったく気づかなかった。
癖のない明るい茶色の髪に、柔らかな橙色の瞳。背は高く、顔も整っているが、どこか控えめな佇まいだ。
「先ほどの……大変でしたね。お辛かったでしょう」
穏やかな声だった。ルフェルトのような高圧的な空気は微塵もない。心からこちらを心配しているような表情。
「ご心配いただき、ありがとうございますわ。……失礼ですが、お名前を伺ってもよろしいですか?」
男は首筋をそっと掻いて、照れたように目を伏せた。
「申し遅れました。レナード・フォン・エルツと申します」
「エルツ……伯爵家の?」
「ええ。今夜は父の代理で出席しているのですが……正直、こういう場は苦手で。一人で隅のほうにいたら、とんでもないものを見てしまいました」
そう言って苦笑する横顔は、社交界慣れしていない不器用さが滲んでいた。
「お恥ずかしいところをお見せしましたわ」
そう言って微笑んだ瞬間——体の内側が、カッと熱く灯った。
《悪役令嬢の宿命》、発動。初対面の相手に対して魅力が倍増する確変状態に突入だ。
纏う空気が変わったのが、自分でも分かる。華やかで、艶やかで、目を引かずにはいられない何か。レナードの目が一瞬見開かれ、声が上ずる。
「ヴェルン嬢、もしよろしければ……今度、お茶でもいかがですか。今夜のことで気が滅入っていらっしゃるなら、気晴らしになれば幸いです」
(……子爵の次は、伯爵か)
私は微笑んだ。令嬢らしく、控えめに。
「ぜひ、お願いいたしますわ」
ただし、この確変は永遠じゃない。タイマーが切れれば魅力は急落する。そのとき、この男がどうするかは——まあ、分かっているけれど。
馬車で屋敷に帰る道すがら、私は窓の外を流れる夜景を眺めながら、初勝利の余韻に浸った。興奮ではなく、確認。組み上げた戦略が、想定通りに回った。ルフェルトは社交界から退場し、私の手元には吸収した資産とステータスが残る。
(今のところ恐いくらい順調ね。さあ、第二回戦だ)




