chapter.6 踏みとどまってる場合じゃない
カーテンを閉め切ったままの薄暗い部屋。シャワーで濡れた髪をタオルで拭き取りながら、健太郎はソファに身を預けていた。
人間らしくあるために、最低限のことだけは続けること――以前鬱状態で苦しんでいた時、上司の円谷良悟に言われた言葉。そして、その息子伊織にも似たような言葉を掛けられた。
しっかり寝る、朝昼晩何かを食べる、シャワーを浴びる、歯を磨く、定期的に着替える。家事はまとめてやってもいい、掃除は汚くなったと思ったらやる、買い物は冷蔵庫が空になる前に行く。気分がどん底まで落ち込むと、そんな当たり前のことさえ難しくなる。
髭を剃らないまま外に出た。剃るだけの気力がなかった。
しかし、シャワーは浴びた、歯は磨いた、昨日とは違う服を着た。頑張った結果だった。
一人になると余計なことばかり考えてしまい、伊織が訪ねてきた一瞬だけがとても鮮やかに色づいたまま記憶に残って、あとはモノクロの、音も動きもない時間だけが自分を支配しているような、変な感覚に囚われた。
《ステラ・ウォッチ》が震えなければ外には出なかった。
まどかを一人で戦わせるわけにはいかないと自分を奮い立たせて、やっとのことで向かったのだ。
結果として、まどかのピンチを救えたのは幸いだった。あと少し躊躇していたら、まどかの攻撃はV2モンスターと共にあの子どもに直撃していたかも知れない。もしくは、子どもを庇うために攻撃を逸らして、倒すのにもっと時間を要していたかも。
――ヴィンヴィンと、ソファの上に転がしたスマホが震える。
Xyの通知だ。
エンジェルステラのなぎさとして戦うようになってから、健太郎はネット上の書き込みをずっと監視し続けてきた。エンジェルステラ関連の書き込みをまとめたポストをしているアカウントを複数フォローし、通知を受け取っている。
戦闘のあとは大抵通知が来る。
スマホを拾い上げ、画面をスクロール。
戦うまどかを捉えた写真や映像が大量に流れてくる。
「顔付きが変わったな、まどか」
戸惑い、迷いながら戦っていた頃に比べると、動きにキレがある。ステラバトンの使い方もどんどん上手くなっている。
素直にまどかの成長が嬉しかった。
大量に保存したまどかの写真や映像がクラウドのストレージを圧迫し、遂には課金して容量を増やすことになった。
上司の息子、口先だけ、正義感だけの高校生に過ぎなかった円谷伊織が、間違いなく今の健太郎を支えている。支えているつもりだったのに、いつの間にか立場がひっくり返っていたのだ。
「踏みとどまってる場合じゃないな」
頭に被せたタオルを剥ぎ取り、健太郎はぎゅっと拳を握った。
立ち上がりカーテンを開けると、ローテーブルに広げっぱなしのノートの字が日の光に照らされてくっきりと見えてくる。
ヴィラン化ウイルス――V2とその被害、科学研究所エンジェリック・ラボとその研究員についてまとめたノート。
所長の緑川瑠璃絵が掻き集めたという研究員達に、目立った共通点はなかった。誰もが優秀で、気さくで、魔法少女好きで。だがそれだけではない、決定的な理由があって緑川にスカウトされたはず。
緑川自身にも不審な点が多かった。経歴不明――このご時世に、そんなことは有り得るのだろうか。
ノートの中央、“緑川”の字を何度も鉛筆で囲んだ跡。
“お前は誰だ”“偽名?”“正体を隠す理由”
謎で覆われた緑川瑠璃絵という女の本性、変異の兆しが見えるウイルス、一億円を吹っ掛けるナイトスカイ。
“偽アカウント”“一般人の犠牲”“融合体”“感染経路不明”
思考を整理するためにランダムに書かれた文字と、それを繋ぐ大量の線。
更科に突きつけられた事実に、健太郎は確かに打ちのめされた。
仮に魔物化した罹患者がある程度意識を保ったままだったとしたら、あの日の自分の行動はと苦しみ、嘆き、絶望に突き落とされた。
しかし、そうやって思い悩んでいる間にも、新たなV2モンスターが現れ、大勢の人々が危険に晒されている。
「覚悟を、決めるか。俺も」
テーブルの上に拡げた書類の中から一枚の名刺を拾い上げる。
「伊織には何て説明しよう。怒るだろうな、あいつ」
膨れっ面の伊織を想像して、健太郎は頬を緩ませた。
怒るだろうが理解はしてくれるはずだと根拠もなく考えながら、健太郎は名刺に書かれた番号に電話を掛けた。
相手が電話に出るまでの間、窓の外の景色を覗く。
青い空、いつもと変わらない街並みが眼下に広がっている。
この世界を守るためにも、無駄な犠牲を出さないためにも、エンジェルステラのなぎさとして、できることを。
「……もしもし。俺です。渚健太郎です。すみません、お休み中に。お話ししたいことがあって。いえ、俺一人です。二人っきりで。はい。大丈夫ですか。でしたらこちらから。じゃあ、夜に」




