chapter.5 鈍感
伊織が自分の部屋に帰ってきたのは、健太郎の部屋に向かってから三十分以上経ってからだった。
力一杯抱き締めてきた健太郎は、十も年上なのに、まるで子どもみたいだった。
飯と風呂と睡眠を忘れないよう念を押してきたのだが、隣で監視していないと壊れそうだった。
大丈夫だろうか。
考え事をしたまま部屋から出ようとしたところで、「わっ!」と誰かの驚く声。
「あれ、お兄ちゃんいたんだ」
ドアの真ん前に妹ののどかが立っている。
「……いたけど」
「うっそー! さっきお風呂って声を掛けに来たらもぬけの殻だったよ」
「まさか」
「あれれ? 何か、良い匂い」
鼻を突き出し匂いを確かめに来るのどかに、伊織は焦った。
――健太郎んちのアロマスティックの匂いか!
「き、気のせい気のせい!」
「何かお兄ちゃん、最近隠し事してるよね……?」
「は? してないし」
「怪し~! 今度優也君に聞いちゃお!」
「どうぞご勝手にぃ~」
無理矢理笑顔を作ってやり過ごしたが、危なかった。
バレるのも時間の問題かも知れないと思うと、寒くもないのにブルッと背中が震えるのだった。
*
翌朝早起きして待ち合わせの公園に向かうと、既に安樹星来が待機している。
爽やかに晴れ渡った空の下、安樹は薄手のパーカーとTシャツ、ショートパンツという軽装だった。朝の空気はまだひんやりと冷たいのに、堂々と生足を曝け出している。普段はこんな格好なのかと意外性に驚きつつ、伊織はおはようと安樹に声を掛けた。
「井上君はまだみたい」
「はは。一番近いヤツが一番遅く来るんだよ」
どうでもいい会話をしながら自転車止めのポールに腰を掛けて優也を待つ。
朝方の公園はひと気も少ない。小鳥の囀りが頭の上から聞こえてきたり、ジョギングをする人が目の前を通り過ぎたりと、いつも通りの土曜の朝といった感じだった。
喋りながらスマホの画面を確認すると、盛大に寝過ごした優也から詫びのメッセージが大量に送られてきていた。
「あと三十分は来ないんじゃないかな。安樹さん、ベンチで待とう」
自販機で飲み物を購入してからベンチの並ぶ一角に二人で座り、優也を待つ。
よく冷えたお茶をググッと飲み込んで、肩掛けのバッグにペットボトルを押し込んだところで、安樹はスッと自分のスマホを突き出してきた。
「見た?」
スマホにはXyの画面。
ポスト主はナイトスカイ・エンターテインメント代表取締役社長、岸文博。
《早速、エンジェルステラ本人を名乗る人物からのDMを数多くいただいています。
この中に本物がいるかも知れません。
近々直接お会いして話をすることになっています。
続報をお待ちください。》
日付は昨日の夜、丁度健太郎の部屋を訪ねていた頃。
既にインプレッションが七桁を超えている。
「その様子だと、全然知らなかったみたいね」
「昨日は色々あったから」
「ふぅん……」
安樹はスマホを引っ込めて、それからミネラルウォーターを少し口に含んだ。
「『この中に本物がいるかも』だって。何人くらい名乗り出たのかな」
「どうだろう。かなりの人数になってたりして」
「なってるかもね。一億だもん」
「上手くいけば……って、宝くじじゃないんだからさぁ。応募する方も何考えてんだか」
「名乗り出ないの?」
唐突な一言。
伊織はハハッと小さく笑う。
「そんなことしないよ。馬鹿馬鹿しい」
「馬鹿馬鹿しい? 一億円だよ?」
「お金がどうこうじゃないんだよ、安樹さん」
ベンチは丁度日陰になっていて、既に高くなりつつある日差しから体よく二人を守っている。公園には子どもが数人。遠くの遊具の方で遊ぶばかりで、伊織と安樹のそばに人影はない。
開放的で、涼やかで。
だからだろうか、普段は押し込めていた言葉が、ふと口を突く。
「何億積まれたって、名乗り出たりはしないと思うよ。僕も、健太郎も。正体を知られるなんていう最悪の結末は迎えたくない。僕らはただ純粋に、この世界を何とかしたいから戦ってるんだよ。――それに、幻滅するでしょ、本当のことを知ったらさ」
真面目に言ったつもりだった。
なのに安樹星来はフフッと笑いだしてしまう。
「あのさ。笑うことなくない?」
「ごめん、ちょっと円谷君が急に正義の味方みたいなこと言うから」
「正義の味方だけど」
「まぁ、そうなんだけど」
安樹は何故か嬉しそうに、ベンチから放り出した両足をプラプラさせている。
「まぁ、僕のことは置いといて……、安樹さんが僕らと一緒に行動してくれるなんて思ってなかったから、そっちの方が意外かな」
「そう?」
「ほら、僕と安樹さんの接点って、あの事件くらいでしょ。同じ学校の同じクラスなのは置いといて……。端から見ても訳が分からないと思うんだよ。僕もよく分かってないんだけど、安樹さんにとって、僕と一緒にいるメリットって?」
何気なしにそう尋ね、チラッと安樹の方を見ると、彼女は何故か顔を真っ赤にして背中を丸めている。
どうしたのと伊織が顔を覗き込むと、安樹は慌ててそっぽを向いた。
「べべべ別に、メリットなんか! ない、こともないけど。円谷君には関係なくない? ぐ、偶然眼福な状況を目撃したり? 胸きゅん……じゃなかった、胸を打たれるような場面に遭遇することもあるけど、そ、それはそれとして、君の秘密を知る数少ない人間として、できることはやりたいなっていう……いわゆる自己満足よ。悪い?」
照れ気味に言い返してくる安樹星来に、伊織は少し圧倒されて――
「いや、悪くない。ありがとう」
伊織が無意識に見せた自然体の笑顔が、安樹星来の荒んだ心をピンポイントでくすぐった。
彼女の恋心を更に焚き付けてしまったとは知らない伊織は、何故か隣で悶え肩を震わせる彼女に言うのだ。
「……大丈夫、安樹さん。ハーフパンツが寒いなら、僕の上着貸すよ?」
「え? 寒くない、寒くないから!」
大丈夫なら良いけどと、脱ぎかけた上着を着直す伊織に、安樹はますます身悶えするのだった。




