chapter.4 真っ暗な部屋
健太郎の部屋に転移するとき、伊織は玄関に座標をセットしていた。
いきなり部屋の中に飛ぶのは流石にどうだろうと、伊織なりに気遣った結果だった。いつもはスニーカーだが、今日は靴下。足元がひんやりする。
もうとっくに帰っているはずの時間だが、部屋の中は真っ暗で人の気配はない。
「あれ、いないのかな……」
上がり框を跨いで部屋に上がろうとしたところで最初の違和感。足に、靴が当たる。やはり帰宅しているようだ。
確かこの辺にスイッチがと玄関の照明を付けると、更に違和感。普段はきっちり揃えて脱いである革靴が、何故かひっくり返っている。
廊下にはジャケットが脱ぎ捨てられていた。リビングの扉は半開き。
「やっぱり帰ってんじゃん」
靴を揃え、ジャケットを拾い上げてリビングへと向かう。
「健太郎?」
声を掛けてみるが、反応はない。
どの部屋も真っ暗だ。
おかしいなと首を傾げてリビングの明かりを付け――伊織は「うわあっ!」と腰を抜かした。
「けけけ健太郎……!!」
ソファに、健太郎が座っていた。
明かりを付けても伊織が大声を上げても、微動だにしない。
肘を膝の上に置いて手を軽く組み、虚空を見つめたまま蝋人形のように固まっている。
時折瞬きをするのが見えて、それで初めて生きている人間なのだと判別出来る感じだった。
四つん這いになって恐る恐る健太郎のそばまで寄ってみるが、伊織の存在に気が付いていないのか、全く動く気配がない。
明らかに、様子がおかしい。
会社から帰ってきて、脱ぐもの脱いで、放り出すもの放り出して、ソファに座ったまま動かなくなった――そう、見えた。
リビングの床には健太郎の通勤用のリュックが放り投げてある。靴下も左右別々の方向に飛んでいる。ローテーブルの上にはスマホ。待ち受け画面は通知でいっぱいだった。
綺麗好きだったはずだ。なくなった奥さんとの思い出が詰まった大切な場所だからか、とても丁寧に暮らしているような印象があったのに。
「け、健太郎、大丈夫……?」
死んだような目。
何を見ているのか分からない、焦点の合っていない目。そして、表情のない顔。
更科の話を聞いて相当な衝撃を受けたに違いない。『彼は大人だ』と更科は言ったが、大人だから何を喋っても大丈夫というわけではないはずだ。
伊織は健太郎の真ん前に座って、ゆっくりと彼の顔に手を伸ばした。
どれほどあの事実が、健太郎の心を傷付けたのだろうと思うと、伊織の胸はギュッとなって、伸ばした手が震え――……
「伊織?」
突如発せられた健太郎の声に、伊織はまた驚いて「うわっ!」と大声を上げた。
後ろにひっくり返りそうになった衝撃でローテーブルの縁に背中を強打したらしく、伊織はそのままごろんと床にひっくり返ってしばらく悶えた。
「何やってんだよ。変なヤツ」
腰を屈めて伊織の顔を覗き込んでくる健太郎は、普段の健太郎だった。
「それはこっちの台詞! 何で真っ暗なところでボーッとしてんだよ! 心配したじゃないか!」
「心配? 伊織、俺のこと心配してくれんの? 嬉し~!!」
カラカラと笑う。それがまた妙に明るくて気持悪い。
よいしょと背中を擦りながら立ち上がり、伊織はもう一度健太郎の顔を見る。
大丈夫そうに見える。見えるが……何かが、おかしい。
「飯、食った?」
「飯? 飯……いや、帰ってきたばっかだから」
「んなわけないじゃん。今、夜の九時半過ぎてる。そらいろ生命、普段から残業少ないよね。こんな時間に帰宅するわけないの知ってるから」
「え、九時半? あれ……おかしいな。いつの間に時間が」
自覚症状はないらしい。
健太郎の中では、帰宅してから殆ど時間が進んでいない、ということだ。
「飯食って早く寝た方がいいよ。疲れてるんでしょ?」
「あ……うん。そうかも」
ハハハッと笑って誤魔化してくる健太郎に、伊織の胸はズキッと痛む。
「冷蔵庫、食べ物入ってるんだよね。何か出そうか」
「そんなん、自分でやるから。それこそ伊織だって、こんな時間にわざわざ来なくったって」
「LINK、何遍も送ったのに既読付かないからさ」
「そりゃ、まとめて返信することもあるだろ」
「いつもは秒で返してくるくせに」
「ハハ、確かに」
ふらっと立ち上がり、健太郎はキッチンへ向かう。足取りが、おかしい。フラフラしているような気がする。
冷蔵庫前で立ち止まり、中を開けようとして、健太郎は動きを止めた。
「健太郎?」
ドアに手を押し当てて動かなくなった健太郎の背中が、明らかに震えている。
駆け寄り、様子を見る。
さっきとは打って変わって荒い息。
「大丈夫? 健太ろ……」
――伊織には、何が起きたのか直ぐには理解出来なかった。
恐らくは振り向いた健太郎が自分を強く抱き締めている。
あまりの力強さに息苦しさを感じる。拒絶反応を示す時間がなかった。
抱え込むようにして抱き締められて、耳に、彼の激しい吐息が当たる。
「けんた……」
名前を呼ぶと、彼は益々力を入れて伊織を抱き締めた。
「このまま」
「えっ」
「このまま、このまま……」
伊織の首筋に、生温い液体がボタボタと零れてくる。
健太郎は泣いているのだ。声を殺して、震えて。
いつもとは違う一面を見せる健太郎に戸惑いながらも、伊織はどこかで安堵していた。
ゆっくりと彼の背中に手を回し軽く擦ると、健太郎は声を上げて泣き始めた。
広い背中は、大きさの割にとても弱々しい。
「落ち着くまで、いるから」
それからしばらくの間、キッチンで突っ立ったまま、伊織は健太郎の背中を擦り続けた。




