chapter.2 兆候
更科の表情は硬い。微動だにしない。
それが余計に滑稽で、伊織は反応を忘れてしまう。
「先にも述べたように、一般的には魔物化した瞬間に人格を失うとされてきたが、これが覆りつつある、という点が問題なのだ。今のところ数例の報告に過ぎないが、現地の言語でそう受け取れる単語を話したように聞こえただけかも知れない。もしそのような個体が現れれば、早急に対処しなければならない。――そしてもうひとつ」
ノートパソコンの画面を指し示しながら、更科は言葉を続けた。
「これはこれまで君達が倒したV2モンスターの細胞を培養し、放出されたV波を測定したグラフ。個体差はあるが、明らかに変化してきているのが分かる。ここ半月で顕著な増幅が見られる。塩基配列の変化も甚だしい。不安定だった結合が、より強固になり、V波の出力も安定してきている」
細胞の画像、元素記号と多角形の並んだ図、V波の変化を示したグラフ。
素人目にも複数並んだそれらが変化を示していることが分かる。
「……もし仮にだよ。予想も付かないような進化を始めているとしたら、どうだろう」
更科はそう言って、隣に座る伊織の方に向き直った。
「原因は分からない。気候の変化か、環境の変化か。他に何らかの外的要因があるのかどうか。V波の増幅は何かの予兆かも知れない。彼らが何らかの特殊能力を持ち始める可能性だって大いにある。この状態で、ナイトスカイに煽られた一般市民がエンジェルステラの真似事をして魔物の前にしゃしゃり出たらどうなると思う?」
「ど、どうって。それは」
「考えなくても分かること。それは絶対に避けなければならない」
伊織の額に、汗が伝った。
「健太郎にも、話したんですよね。あいつは何て」
「随分彼を気にするね。大丈夫、彼は大人だ」
「そりゃ、僕よりは大人だけど」
更科は少しだけ眉根を上げた。
緑川は執務机の向こうで黙ったまま二人の様子を見つめるばかりで、何も言わない。
モヤモヤが燻った。
「……事情は、分かりました。これまで以上に、色々、頑張ります」
なんと答えるのが正解だったのか、伊織には全く分からなかった。
*
午後からの外回り、健太郎は課長の円谷と一緒だった。
そらいろ生命では発売したばかりのV2特約をきっかけに、ライフスタイルの変化による保障の見直しを勧めている。健太郎は主たる募集人ではなく、特約の説明要員として班員と同行する日々を送っていた。
会社は“V2の被害者家族”としての健太郎を利用している。
がんの経験者が自らの体験を語るのと同じように、健太郎にも被害者家族としての体験を語って欲しいと。当然、必要とされることに異論はない。異論はないが、語る度に心を抉られていることなど、誰も知る由はないだろう。
がんとは違って、V2被害に寛解はない。時間は戻らない。
それでも自分の経験が誰かの役に立つならと自分を奮い立たせているだけなのだ。
「実は先日、近くでエンジェルステラの二人が戦っているところに遭遇して」
今日の顧客は若い夫婦で、親の代からそらいろ生命のお得意様だった。
リビングテーブルに資料を広げてのアフターフォローと新商品紹介。特約の話を健太郎が始めた矢先に妻の方が切り出してきた。まどかが可愛いとかなぎさが素敵とか言われるのは悪い気がしない。初めはふぅんと素知らぬ振りをして聞いていたのだが、次第に話はV2モンスターの件に変わる。
「万が一にも加害者にはならないと思うけど、被害者になってしまう可能性は大いにありそうだなって」
「いや、加害者にもなり得るだろ。今のところ原因不明なんだし」
妻の言葉を夫は直ぐに訂正した。ここまでもよくある流れだ。
「旦那様が仰る通り、可能性が全くないとは言い切れません。現に……」
と、そこまで言ったところで健太郎は自分の手が震えていることに気が付いた。
「実際、私の顧客の中にも、何人か……」
言葉が出なくなる。
震えが止まらず、全身が小刻みに揺れている。
「何人、か……」
「渚君?」
円谷が健太郎の異変に気付く。
真っ青な顔をして表情を強ばらせた健太郎の目から、ぼたぼたと涙が落ちている。
無自覚なのか、涙を拭う様子がない。
「すみません。何か様子が――大丈夫か、渚君」
「あ、いや、その……だ、大丈夫です。すみません、急に涙が」
「一旦外に出よう。――申し訳ありません。彼も大切な人をV2で失って」
客に何度も頭を下げながら、円谷は健太郎をマンションの部屋の外へと連れ出した。
オートロックの部屋のドアがバタンと閉まると、円谷は健太郎を通路の縁に座らせて、呼吸を整えるよう促した。
健太郎は次第に声を殺して泣き始め……震えながらごめんなさいごめんなさいと何度も円谷に頭を下げた。
二年前、事件に巻き込まれた健太郎のマンションを訪ねた時に円谷が見た光景とぴったり重なる。
怯え、震え、彼らしさを全く失ってしまったかのような、あの日々と。
「今日はもう止めよう。休憩した方が良いな。謝ってくる。荷物を取りに戻ったら、近くの喫茶店ね」
「はい……、すみません……」
頭を抱え込むようにして謝り続ける健太郎の背中を軽く擦って、円谷は再び顧客の元へと戻っていった。




