第9話 怪物
──しばらく血の跡を追っていくと、徐々にあの匂いが強まってきた。
それすなわち、死した骸が放つ腐敗臭。
仕事柄いつも嗅いできた匂い。とんでもなく不快で、どうしようもない事実を伝えてくれる匂い。
カオナシの死体が、そこに転がっていた。
ソレには蝿が集っていて、生ゴミみたいな扱いのまま、なんの尊厳もなかった。
誰かも分からず、何者にも看取られる事なく死んだのだろう。死体の状態から、死んだ、または殺されたのはごく最近か。
「…………」
見たくない。今まで数々の死体を見てきたが、ここまで酷いのは初めてだ。
後ずさり、急いで元の道に戻ろうとする。
目を背けて、この場から逃げるために。カオナシの死体。尋常でない腐敗臭。二つのキーワードは、昨日エクスプローラーズを襲撃してきた奴らを想起させた。
ゾンビ、という。
「──ア"ァッ!!」
死体は起き上がり、後方に走る俺の背を追いかけ始めた。
◇◇
勘弁してくれ。もうあんな化け物と戦うのはゴメンだ。
奴らの弱点は分かっている。対処法も、単調な動きの予測も容易い。
けれど、倒すのにはとにかく苦労する。胸にあるはずのアザール鉱石は尋常でない硬度を誇り、常時義手に装填している切り札を使わなければ対処できなという厄介さ。
二度と戦いたくなかったし、仮にもう一度あったとしたら脱兎の如く逃走すると決めていた。
それ、なのに。
「速っ! 逃げ切れるかよこんな奴!」
叫び、ゾンビの突進をギリギリの所で避ける。
その勢いは凄まじく、壊すのに一苦労しそうな千年王国の機械が粉砕された程だった。
前震の産毛が総毛立つ。あんなモノを喰らったらひとたまりもないだろう。思わず、自身がバラバラになった光景を想像してしまう。
本当に死ぬ。
戦う以外に道はないと思わせてしまうほどの驚異だ。
だが、生憎とそんな訳にもいかない。
大前提としてここは地上なんMかも分からない地下である。そして、奴を倒すにはアザール鉱石を破壊しなくてはならない。
そのアザール鉱石を壊す唯一の手段はこの義手の機能のみ。
コレを使う事自体は問題ない。昨日整備したばかりだし、ちゃんと黒杭は込められている。
問題なのは使った後の事だ。
重量十五KG。長さ三十二CM。マッハ数一で放たれる杭なんてモノヲ使ってしまえばまず間違いなく天井が崩壊してしまう。
生き埋めはゴメンだ。かと言ってこのまま逃げ続けるのにも限界がある。
どうすればこの状況を打破できるのか。
誰か教えてくれ……!
「ッ!」
背後からの攻撃は留まることを知らず、関節の可動域を無視した打撃がこちらの背を掠めていた。
このままでは本当に死ぬ。
今ここで死ぬか後で死ぬか。たったそれだけの違いなのだ。文字通りこの手にある解決策を行使するべきか、迷う。
そうして、躊躇に躊躇を重ねて……
「離れろ!」
反転して前蹴りを喰らわした。
奴は地面を転がっていき、やがて洞窟の壁にぶち当たる。
「はっ……はっ……」
あの道からは随分と離れてしまったが、一本道なのでここからまっすぐ行けば元の道には戻れるらしい。
息を切らしながらも、それだけは把握していた。
僅かな可能性に縋って道に戻り、全力疾走して走り抜けるのもアリか。一瞬そう考えたが、すぐに取り消す。
あそこが例の地上に続く道だというのには情報が不足しているし、もし関係のない道だったら今度こそ終わりだ。
ならせめて、現状の改善を。
その場から走り出し、未だうずくまるゾンビの四肢を切り落とそうと剣を振り上げる。
やろうと思った理由は一つ。
エクスプローラーズの建物で同じ性質を持つゾンビと戦った時、手首が引きちぎれる寸前まで片手剣を突き刺した。その時、コイツの手首は再生しなかったのだ。
機関銃を撃たれて体中穴だらけになっても再生したコイツだが、どうやらそこまでの重傷を再生するのは相当時間がかかるものだと分かる。
なら、あの怪我を更に酷くさせれば。
コイツはしばらく身動きが取れないのではないか。
そう思い、剣をゾンビの右脚に振り下ろした。
流石に一撃では切断できず、その刃を食い込ませるのに留まる。
だが、二度、三度とやっていけばいつかは斬れるはず。
連続でやるのは危険なので、一度その場から大きく跳んで後退した。
すぐさま奴は起き上がり、両手をすごい勢いで突き出してくる。
身を屈めてそれを避け、右脚に再び一撃。剣が骨にまで達したのか、いい手応えが片手剣を持つ右手に感じた。左腕を大きく振り上げて思い切り振り下ろしたので、バックステップでまた避けていく。
もう少しで、斬れる。なんとなくそんな確信があった。
コイツの動きはもう見切っている。突進した時の気迫で相手を怯ませ、右か左かの拳が視覚外から飛んでくるのだ。
右肩か左肩か。どちらに拳が当たってもロクな事にならない。
ゾンビだからなのか、このパターンのみで攻撃してくるので、避けるのはそう難しくなかった。
そしてまた攻撃を避け、一撃。
今度こそ──今度こそ、右足を切り落とした!
その瞬間、前方に跳んで一気に駆け出した。
少しでも遠くへ。あの道には希望がある。そうだ。俺は地上に行って事態を報告しないといけない。それまでは、死ねない。
走る。走る。片手剣を腰の鞘に収めて、ガヴィルスさんから教わった歩法を用いて文字通りの全力疾走を敢行する。
「――は」
分かっていた。
鍛え上げた先読みの技術、洞察力、観察力。その全てを総動員して出していた、ある結論。
俺はアイツから逃げる事なんてできない。
ただ逃げ切れると自身を鼓舞して走っているだけ。
『敢行した』、だなんて。
分かりきっていた結果が、無意識に心の声として漏れただけの話。
「コード──」
故に、唱える。この状況を打破する魔法の言葉を。
後ろから四足歩行になったゾンビが追いかけてきている。
その様子はさながら獣の如く。
奴は自ら残りの腕を切り落とし、無理矢理走りやすくしていた。
「──ブラックパイル」
反転。
俺の目にはイノシシのように突進しようとしてくるゾンビの姿が写っている。
「イメージとしては、下から水をすくい上げるみたいな……左手は開きっぱなしで、真っ直ぐに奴の顔の中心を叩く!」
腰の捻りを入れて、肩、肘、手の順に伸ばしていく。
義手のたった一つの機能、それは、込められた黒杭をマッハ数一で飛ばすなんて素っ頓狂なモノだった。
掌にある程度の衝撃が伝われば、あとは勝手に黒杭が放たれる。だから、これからはただ当てることのみに集中すればいい。
狙いを違えるな。
覚悟は決めた。コレを放った影響で天井が崩れようとも、もう知った事か。
まずは現状の打破を。それからの事はその時に考えればいいのだ。
そして、掌が突進してくるゾンビの顔面に直撃する。衝撃が一瞬だけ伝わってくるが、それ以降の衝撃の方が余程大きかった。
掌から黒杭が放たれる。
爆発音に似た音が洞窟内に響き渡り、ソレはこの空間を震わせていく。
黒杭はゾンビの体を打ち砕き、そのまま胸のアザール鉱石を割り砕いた。
コイツの体から力が抜けていくように見えた、その直後。
やはりというべきか、切り札を放った影響が出てきてしまう。
黒杭は真っ直ぐに放たれたのではなく、やや下の角度に放たれた。
用は地面に突き刺さり、そのままはるか地底にまで行ってしまった訳だ。
音速で放たれた物体の影響は凄まじく、地面は割れて崩れていく。
俺も、どうやらここまでだったらしい。死した先にあるのは天国か地獄か、それとも意識が消滅するのか。ああ、できることなら生まれ変わりたいな。天国にも地獄にも行きたくないから、せめてまた記憶を失いたい。死後の世界には天国も地獄もなく、ただ転生だけをさせてくれればそれで満足だ。
生まれ変わって、今度は気高く正義感に溢れた立派な大人にならせてくれ、と。
最後に思ったのは、心の奥底からの願いと、初めて吐露した本音だった。




