元住人
いわきに引っ越してから二か月ほど経った。
最初は広すぎると思っていた家にも、いつの間にか慣れていた。
朝は七時半頃に起きて、コーヒーを淹れる。八時半には仕事部屋へ入り、チャットを確認して、九時から仕事。昼は適当に作るか、近所のスーパーで買ってきたものを食べる。
東京にいた頃と仕事そのものはほとんど変わらない。
違うのは、窓の外だ。
モニターから顔を上げても、隣のマンションの壁がない。
庭が見える。
天気が良ければ鳥が来る。
たまに猫も通る。
最初は物珍しく眺めていたが、今ではそれも普通になった。
問題があるとすれば、庭だった。
「また伸びてんな……」
昼休み。
縁側から外を見て、ため息をつく。
先週刈ったばかりのはずなのに、もう草が目立ち始めている。
清一さんから家を譲ってもらう時、
『管理してくれ』
と言われた意味を、最近は嫌というほど理解していた。
家は、人が住んでいるだけでは維持できない。
庭もそうだし、排水口にも落ち葉が溜まる。物置には虫が入り、雨が続けば湿気も気になる。
東京の賃貸なら管理会社に任せていたことが、全部自分に返ってくる。
面倒ではある。
ただ、不思議と嫌ではなかった。
自分で手を入れた分だけ、少しずつ家が自分のものになっていく感覚がある。
「週末だな」
草刈りは土曜に回すことにして、昼飯を作る。
冷蔵庫には昨日買った豚肉とキャベツがあった。適当に炒めて、ご飯と一緒に食べる。
一人分なら料理もそんなに面倒ではない。
食べ終えて皿を洗っていると、スマホが鳴った。
山岸だった。
『生きてる?』
「平日の昼に送るメッセージじゃないだろ」
『地方移住二か月経過記念』
「何だそれ」
『虫とか大丈夫?』
「虫くらいいるよ」
『ムカデとか?』
「まだ見てない」
『絶対出るぞ』
「やめろ」
『一人で夜に出たら泣く?』
「三十一歳の男捕まえて何言ってんだ」
くだらないやり取りをして、仕事へ戻る。
午後も特に問題なく終わった。
五時半。
仕事用PCを閉じる。
東京にいた頃なら、ここから電車に乗って帰る時間だった。
今は椅子から立てば、もう家だ。
「……やっぱ楽だな」
誰に言うでもなく呟いた。
そのまま台所へ行こうとした時だった。
インターホンが鳴った。
「ん?」
宅配便だろうか。
何か頼んだ覚えはない。
澄江さんならインターホンを押す前に玄関まで来ることもあるし、清一さんならそもそも電話してくる。
モニターを見る。
誰も映っていなかった。
「……いたずら?」
この辺でそんなことをする子どもがいるのか。
少し待つ。
もう一度鳴った。
今度は画面の端に、頭らしきものが見えた。
「子ども?」
玄関へ向かう。
鍵を開け、扉を開いた。
そこに女の子が立っていた。
小学生くらいだろう。
背は低い。
肩にリュックを背負い、両手でその肩紐を握っている。
髪は少し長めで、服装もごく普通だった。
近所の子だろうか。
「……はい」
とりあえずそう言った。
女の子は俺を見上げた。
何も言わない。
「どうした?」
反応がない。
「誰かに用?」
女の子は俺ではなく、その向こうを見ていた。
玄関。
廊下。
俺の肩越しに、家の中を見ている。
「……あの」
ようやく口を開いた。
「はい」
「ここ……」
声が小さい。
「ここ?」
女の子は一度俺を見た。
それから、また家を見る。
「三浦さんの家ですか?」
「そうだけど」
正確には俺が買った家だ。
まだ清一さんへの支払いは残っているが、登記も済んでいる。
「三浦晃司だけど。誰?」
名前を言っても、女の子の表情はほとんど変わらなかった。
ただ、少しだけ困ったように眉を寄せた。
「……知らない」
「まあ、俺も君のこと知らないしな」
そこで会話が止まる。
どうしたものか。
迷子にしては落ち着きすぎている。
近所の家を間違えたのかとも思ったが、何度も家を確認している。
「家、間違えてない?」
「間違えてないです」
即答だった。
「誰か訪ねてきた?」
「違います」
「じゃあ何?」
少し直接的すぎたかもしれない。
女の子がまた黙った。
俺も困った。
子どもとどう話せばいいのか分からない。
仕事なら相手が何を求めているのか確認すればいいが、小学生相手に要件を整理してくださいとも言えない。
「とりあえず……暑くない?」
六月とはいえ、今日は少し蒸していた。
「大丈夫です」
「水とかいる?」
「大丈夫です」
全部大丈夫らしい。
「じゃあ、ここに何しに来たの?」
今度は少しゆっくり聞いた。
女の子は答えなかった。
代わりに、玄関の横へ少し移動した。
家の外壁を見ている。
次に庭。
門柱。
物置。
まるで何かを確認しているようだった。
「……あれ」
「ん?」
「あそこ、前からありました?」
女の子が指差したのは、庭に置いたホームセンターの物干し台だった。
「いや。俺が置いたけど」
「そうなんだ」
少しだけ納得したような顔をする。
「何で?」
「前はなかったから」
俺は黙った。
「……前?」
女の子が、しまったという顔をした。
ほんの一瞬だった。
「前って何?」
「……」
「この家、来たことあるの?」
女の子は答えない。
代わりに、家の横へ視線を移した。
「そこ、物置ですよね」
「そうだけど」
「扉、開けにくくないですか」
「……開けにくい」
少し持ち上げるようにしないと引っかかる。
清一さんからも聞いていなかったので、最初に開けた時は結構困った。
「下のところ、蹴ると開きます」
「蹴る?」
「軽く」
「何で知ってるの?」
また黙る。
さすがにおかしい。
「ちょっと待って」
俺は玄関から出た。
女の子が半歩下がる。
「別に怒ってないから」
「……はい」
「この家、知ってるんだよね?」
返事はない。
「誰かに連れてきてもらった?」
首を横に振る。
「一人で来た?」
今度は小さく頷いた。
「家は近い?」
少し間があって、
「今は」
と答えた。
「今は?」
「近いです」
ますます分からない。
俺は頭を掻いた。
「とりあえず名前教えてくれる?」
女の子は少し迷った。
それから、小さな声で言った。
「倉田、紬です」
「倉田紬」
「はい」
「何年生?」
「五年生」
十一歳くらいか。
「俺の親戚とか?」
「……たぶん」
「たぶん?」
本人もよく分かっていないらしい。
「お父さんかお母さんに、ここへ行けって言われた?」
その瞬間。
紬の表情が変わった。
ほんの少しだけ。
さっきまでの妙に落ち着いた顔から、何かを隠すような顔になった。
「……違います」
「そう」
これ以上聞くべきなのか分からない。
だが、小学生を玄関先に立たせたまま帰すのも気になる。
「近くの家まで送ろうか?」
「大丈夫です」
また大丈夫。
「君、そればっかりだな」
「……何がですか」
「大丈夫って」
紬は少し目を逸らした。
別に責めたつもりはなかったが、どうも言い方が難しい。
「まあいいや」
俺は庭の方を指した。
「せっかく来たんだし、家見てく?」
言ってから、自分でも変なことを言ったと思った。
知らない小学生を家に入れるのもどうなんだ。
ただ、この子が家を知っているのは明らかだった。
それに、俺一人で判断するより、清一さんか澄江さんに連絡した方がよさそうだ。
「知ってる家なんだろ?」
「……」
「嫌ならいいけど」
紬は家を見上げた。
二階の窓。
屋根。
縁側。
庭。
長いこと見ていた。
そして、
「見てもいいんですか」
と聞いた。
「俺の家だから、俺がいいって言えばいいんじゃない?」
そう答えると、紬は少しだけ変な顔をした。
怒ったようにも、悲しそうにも見えない。
ただ、納得はしていないらしい。
「何?」
「……いえ」
「言いたいことあるなら言っていいよ」
「本当に?」
「内容によるけど」
「じゃあ」
紬は玄関へ一歩近づいた。
そのまま中へ入ることはせず、敷居の前で止まる。
靴を脱ぐ場所を確認するように、足元を見た。
それから顔を上げて、俺を見た。
「ここ」
「うん」
少し間を置いて。
倉田紬は言った。
「私が住んでた家です」
「……は?」
それ以外の言葉が出てこなかった。
紬はもう一度、今度は少しだけはっきりと言った。
「ここ、前に私が住んでました」
俺は家を見た。
次に紬を見る。
もう一度、家を見る。
「……聞いてないんだけど」
誰に向けた言葉なのか、自分でも分からなかった。
ただ一つ分かったことがある。
清一さんに電話する必要がある。
かなり早急に。




