この家のこと
「ここ、前に私が住んでました」
すぐには信じられなかった。
けれど、物置の扉の癖を知っていたことや、庭を見回す様子を思い返すと、作り話とも思えない。
「……清一さんに電話する」
俺がスマホを取り出すと、紬は敷居の前で立ち止まったまま、家の中には入らなかった。自分の家だったと言う割に、勝手に入ろうとはしない。
二度目の呼び出しで清一さんが出た。
『何だ』
「倉田紬って子、知ってます?」
少し間があった。
『……紬? 今どこにいる』
「俺の家の玄関です」
『は?』
「俺が聞きたいです」
『澄江のところからか』
「たぶん。本人は近くに住んでると言ってます」
『待ってろ。澄江に電話する』
通話が切れた。
「知ってた?」
紬に聞くと、彼女は頷いた。
「清一おじいちゃんは知ってます」
「おじいちゃん?」
「お父さんがそう呼んでたから」
清一さんのひ孫、ということになるらしい。俺との関係もどこかで繋がっているのだろうが、家系図を考えるのは諦めた。
その時、再びスマホが鳴った。
『紬、しばらくそっちに置いとけ。澄江が迎えに行く』
「この子が前にここに住んでたって、本当ですか」
『本当だ。拓真が転勤になるまで、紬が五歳くらいまで住んでた』
「この家を借りてたってことですか」
『そうだ。戻ってくるとは思わなかった』
「戻ってくる?」
清一さんは少し黙った。
『拓真が倒れた』
「病気ですか」
『足に力が入らなくなって入院してる。今すぐどうこうじゃないが、しばらく動けん』
紬の表情が曇った。
「それで、こっちに?」
『そうだ。母親とは離婚してる。今どこにいるかは分からん』
外で車の音がした。
「澄江さんが来たみたいです」
『なら詳しい話は澄江に聞け』
「最初からそうしてくださいよ」
『今度説明する』
「信用していいんですか」
『知らん』
通話が切れた。
「紬!」
外から声が飛んできた。
門から入ってきたのは、近所の三浦澄江さんだった。普段は穏やかな人だが、今は明らかに怒っている。
「どこへ行ったかと思ったでしょう!」
「……ごめんなさい」
「何も言わずにいなくなったら心配するでしょう」
叱りながらも、声には安堵が混じっていた。
「ごめんなさいね、晃司くん。この子が勝手に来ちゃって」
「俺は大丈夫です。それより、少し話を聞いてもいいですか」
澄江さんは頷いた。
「立ち話も何だから、中で話してもいい?」
「どうぞ」
三人で居間へ移り、麦茶を出す。
「拓真さんは、転勤の多い会社に勤めていてね。結婚してから、この家を清一おじさんに借りて暮らしてたの。紬が五歳になる頃まで」
「その後、何度も引っ越したんですか」
紬が答えた。
「三回。小学校に入ってから」
「幼稚園の時にも一回あったから、もっとね」
「拓真さんが倒れたのは?」
「六月に入ってすぐ。風邪みたいな症状から、急に足に力が入らなくなって。ギラン・バレー症候群っていう病気らしいわ」
「治るんですか」
「回復する人は多いそうだけど、時間がかかるって」
紬の手がコップを強く握った。
「お父さん、ちゃんと話せてるからね」
「分かってる」
「紬」
「分かってるって」
強い声に、澄江さんは口を閉じた。
「今は澄江さんのところに?」
「とりあえずね。学校も、こっちへ転校する手続きをしてるところ」
「また転校か」
俺が呟くと、紬は目を伏せた。
「……慣れてます」
「それで、今日はどうしてここへ?」
紬はしばらく黙ってから答えた。
「見たかっただけ」
「何を?」
「家」
窓の外を見ながら、紬は続けた。
「お父さんとお母さんと三人で住んでたのは、ここだけだから」
部屋が静かになった。
俺にとっては、東京の部屋を出るために買った格安の中古住宅だ。
けれど紬にとっては、両親がまだ一緒だった頃の家で、何度引っ越しても忘れられなかった場所なのだろう。
「……そっか」
それしか言えなかった。
やがて紬が立ち上がる。
「帰ります。今日はごめんなさい」
「家を見に来ただけだろ。謝らなくていい」
「でも」
「また見たくなったら来ればいい。ただし、澄江さんには言ってから」
「……いいんですか」
「勝手に入らなければな」
「入りません」
澄江さんが笑った。
「晃司くん、もう保護者みたいね」
「やめてくださいよ」
二人を見送る。
門の前で、紬が一度だけ振り返った。俺ではなく、家を見ていた。
玄関を閉めると、家は急に静かになった。
「……元住人、か」
俺は二階へ上がった。
段ボールを置いている六畳ほどの洋室。紬はここが自分の部屋だったとは言っていない。
だが、何となく扉を開けた。
壁際の柱に、薄い鉛筆の跡が残っている。
しゃがんで見ると、そこにはこう書かれていた。
『つむぎ 4さい』
その横に小さな線。さらに上には、
『5さい』
「……ここかよ」
俺が二か月前から段ボールを置いていた部屋。
そこにも、本当に紬が暮らしていた跡が残っていた。
窓の外では、澄江さんの車が門の向こうへ曲がっていく。
俺はもう一度、柱の文字を見た。
「聞いてないって、清一さん」
今度は、その言葉の意味が少し違っていた。




