東京じゃなくてもいい
三浦晃司、三十一歳。
東京に出てきて、もう十年以上になる。大学進学を機に実家を出て、そのまま東京で就職した。当時はただ、東京で暮らしてみたかった。テレビで見る場所が近くにあり、電車に乗れば大抵の場所へ行ける。夜になっても街は明るい。田舎から出てきた二十歳そこそこの男には、それだけで十分楽しかった。
就職してからもしばらくはそうだった。会社までは電車で三十分。仕事帰りに同僚と飲み、休日には適当に出掛ける。東京に住んでいること自体に、ちゃんと意味があった。
それが、いつからだったか。
会社がリモート勤務を導入した。最初は週二日。それが三日になり、転職先では完全リモートになった。通勤がなくなり、仕事帰りに飲みに行くことも減った。買い物はネットで済み、昼飯は近所のスーパーかコンビニ。人混みが嫌で、休日にわざわざ都心へ出ることも少なくなった。
そしてある朝、六畳少々の部屋でノートパソコンを開きながら、俺はふと思った。
「……俺、なんで東京に住んでるんだ?」
口に出してみると、ずいぶん今さらな疑問だった。
窓の向こうには隣のマンションの壁。ベッドと仕事机と小さな棚を置けば、部屋の大半が埋まる。家賃は高いし、駐車場なんて借りる気にもならない。スーパーも駅も近くて便利ではあるのだが、その便利さを最近はほとんど使っていなかった。
仕事は家から出ずにできる。友人と話すのもオンライン。出社は年に数回あるかどうか。
「これ、東京じゃなくても仕事できるよな……」
当たり前のことだった。今さら気づいたのかと言われればそれまでだが、だからといってすぐに引っ越そうとも思わなかった。東京での暮らしには慣れているし、仕事も安定している。
結婚しているわけでも、子どもがいるわけでもない。付き合っている相手もいない。そのうち結婚できればいいとは思うが、そのために今すぐ何かをしようというほど焦ってもいなかった。
一人で暮らすぶんには、何も困っていない。
狭いことを除けば。
だから、その疑問も数日後には頭の隅へ追いやられていた。
そんな頃、大叔父から電話が来た。
『晃司か』
「はい」
『今、仕事中か?』
「仕事中ですけど、電話くらいなら」
『家でやってんだろ』
「家でやってますけど、暇って意味じゃないですよ」
『似たようなもんだ』
「全然違いますけど」
電話の向こうで笑ったのは三浦清一。母方の祖母の兄で、俺にとっては大叔父にあたる。福島県いわき市に住み、昔からいくつもの土地を所有している人だった。
大地主と言うと大げさに聞こえるが、実際それなりに広い土地や家を持っている。子どもの頃、親に連れられて何度か会った記憶があり、昔から豪快な人だった。そして何より、話が唐突だった。
『お前、家いらんか』
「……はい?」
『家』
「聞こえてます」
『じゃあ話は早いな』
「何も早くないです」
思わず椅子の背から体を離した。
「家って、何の話ですか」
『空き家が一軒あるんだよ。置いといてもしょうがねえし、俺ももう管理が面倒でな。お前に売る』
「なんで俺なんですか」
『お前、東京で家買ったのか?』
「買ってないですけど」
『結婚は』
「してないです」
『彼女は』
「なんでそこまで報告しないといけないんですか」
『いねえんだろ』
「……まあ」
『仕事は家でできる』
「できますけど」
『じゃあ、ちょうどいい』
「何がですか」
清一さんの中では、すでに話が半分終わっているらしい。こっちはまだ始まってすらいない。
『土地ごと三百万でいい』
「三百万?」
思わず聞き返した。
『高いか?』
「いや……安すぎません?」
『古い家だぞ』
「どのくらい古いんですか」
『三十年以上』
「場所は?」
『いわき。海の方じゃねえ。少し内側だ』
「家の広さは?」
『部屋は余るくらいある』
「雑だなあ」
『庭もあるぞ』
「いらないなあ」
『物置もある』
「もっといらない」
『縁側もある』
「それはちょっといいな」
口にしてから、自分でも引っかかった。
縁側。今の部屋には当然そんなものはない。ベランダすら洗濯物を干すので精一杯だ。
『興味出ただろ』
「ちょっとだけ」
『じゃあ一回来い。見るだけ見ろ。いらんなら、いらんでいい』
そこまで言われると断る理由も薄かった。何より三百万。東京で家を買うことを考えれば、冗談のような値段だ。
「……ローンとかじゃなくて?」
『分けて払ってもいいぞ』
「いいんですか」
『月五万くらい入れろ。五年で終わる』
計算すると本当に三百万だった。今払っている家賃より安い。
「固定資産税とか修繕費は?」
『そりゃお前持ちだ』
「ですよね」
『だから安くしてんだよ。俺は管理から外れたい。お前は安く家が手に入る。ちょうどいいだろ』
ひどく雑だが、理屈は通っていた。
電話を切ったあと、仕事用モニターから目を逸らして部屋を見回した。六畳少々の部屋に、ベッド、机、棚、冷蔵庫。視線を動かせばすぐ壁にぶつかる。
「……三百万か」
その週末、俺はいわきへ向かった。
東京からいわき。これまでならそれだけで遠出という感覚だったが、実際に移動してみると思ったほどではない。必要なら東京にも戻れるし、会社に呼ばれても対応できる距離だ。
駅まで清一さんが車で迎えに来ていた。
「久しぶりだな」
「どうも」
「太ったか?」
「会うたびにそれ言いません?」
「前より腹が出てるぞ」
「三十一歳を捕まえて、最初に言うことじゃないでしょう」
「三十一なら、もう気をつけろ」
「はいはい」
清一さんは昔とあまり変わっていなかった。七十をとっくに越えているはずなのに声は大きく、歩くのも速い。
車で市街地を抜けると、住宅が少しずつ減り、代わりに畑や空き地が増えていった。とはいえ山奥というほどではなく、コンビニもスーパーもある。途中には学校も見えた。
「思ったより普通ですね」
「何だと思ってたんだ」
「もっと何もないのかと」
「失礼なやつだな」
「いや、地方に家が余ってるって話だったから」
「そりゃ、余るところには余る」
車が細い道へ入り、古い家と新しい住宅が混在する一角を抜ける。坂を少し上ったところで、清一さんが車を停めた。
「ここだ」
車を降り、家を見上げた。
「……でか」
第一声がそれだった。
古い。確かに古い。だが想像していたようなボロ屋ではなかった。二階建ての木造住宅で、屋根も外壁も多少年季は入っているが、今すぐどうこうなる様子ではない。
庭もある。しかも俺が想像していた「猫の額ほどの庭」ではなく、普通に木が植わっている。端には物置があり、家の横には車を置けそうなスペースもあった。
「これ、三百万?」
「お前に売るならな」
「事故物件じゃないですよね」
「人聞きの悪いことを言うな」
「いや、安すぎるから」
「築年数を考えろ。水回りは一度直してある」
「それで余計に安い理由が分からないんですけど」
「親戚価格だよ」
玄関を開けてもらうと、古い家特有の匂いがした。嫌な匂いではない。木と畳と、長く閉め切っていた空気が混ざった匂いだ。
廊下の先には和室と居間があり、その奥に台所がある。部屋を一つ見るたびに、今の東京の部屋が何個入るんだろうという考えが浮かんだ。
「広いな……」
「一人じゃ余るぞ」
「でしょうね」
居間の向こうには南向きの縁側があり、窓の外には庭が見えた。試しに腰を下ろしてみると、思った以上に居心地がいい。
「……いいな」
「気に入ったか」
「ちょっとだけ」
「さっきも言ってたな、それ」
二階にもいくつか部屋があった。六畳ほどの洋室、少し広い和室、それに納戸。今の俺には、どれも使い道が思いつかない。
「本当に一人で住む家じゃないな」
「家族ができたら、ちょうどいいだろ」
「できる予定ないですけど」
「作れ」
「無茶言うなあ」
窓を開けると、春先の冷たい風が入ってきた。東京の部屋で窓を開けた時とは違い、目の前に隣の壁がない。空が見え、遠くに家の屋根があり、その向こうに山が見える。
静かだった。
完全な無音ではない。車の音も、鳥の声も、どこかで何かを叩く音も聞こえる。ただ、人の気配に押されるような感覚がなかった。
「……東京に戻って考えてもいいですか」
「いいぞ」
「即決しろって言うかと思った」
「いらんもんを押しつけてもしょうがねえ」
「それを言われると、急に不安になるんですけど」
「俺にはいらん。お前にはいるかもしれん。それだけだ」
その日は家を一通り見て、東京へ戻った。
戻った瞬間、部屋が狭く感じた。いや、実際に狭いのだが、一度広い家を見たせいで、今まで普通だった机とベッドの距離が妙に近い。窓を開ければ壁。キッチンで二歩動けば冷蔵庫だ。
「……いや、今までこれで暮らしてたんだけどな」
そう思っても、翌日も、その次の日も、いわきの家が気になった。
三百万。月五万。固定資産税。修繕費。車も必要になる。今の生活より必ず安くなるとは限らないし、庭の手入れなんてしたこともない。地域付き合いが面倒かもしれない。
何より、東京を離れることになる。
大学時代から十年以上暮らしてきた場所だ。東京そのものが嫌いになったわけではない。
それでも金曜の夜、仕事を終えて冷蔵庫を開けた時、ろくなものが入っていないのを見てコンビニへ行こうと思った。
玄関まで三歩。エレベーター。外へ出れば人。駅前にも人。コンビニにも人。戻ってくれば六畳少々の部屋。
そこでまた、同じことを思った。
「俺、別に東京じゃなくてもいいんだよな」
その日のうちに清一さんへ電話した。
『決めたか』
「買います」
『そうか』
「全然驚かないですね」
『買うと思ってた』
「なんで」
『縁側に座った時の顔だな』
「そんな顔してました?」
『してた』
清一さんが少し笑った。
「あと、条件はちゃんと書面にしてくださいよ」
『細けえな』
「三百万の話を口約束で進めるな」
『分かった、分かった』
「登記もちゃんとしますからね」
『好きにしろ』
「好きにするんです」
それからは早かった。契約や登記を進め、引っ越しを決め、会社にも住所変更を伝えた。仕事については何の問題もなかった。
上司に報告すると、
『ネット環境さえ問題なければ、別にどこでもいいよ』
で終わった。
東京時代から付き合いのある同僚の山岸には、
『マジで地方行くの?』
と驚かれた。
『東京が嫌になった?』
「嫌いじゃないよ」
『じゃあ、何で?』
「家を買った」
『……は?』
「三百万で」
『事故物件?』
「お前もそれ言うのかよ」
そんなやり取りをしながら、四月の終わり。俺は東京の部屋を引き払った。
いわきの家へ荷物を運び入れても、家は広すぎてまるで埋まらなかった。居間、仕事部屋、寝室と決めても、まだ部屋が余る。二階の小さな洋室には、とりあえず開けていない段ボールを置いた。納戸はほぼ空で、物置に至っては何を入れるのかすら分からない。
庭では、早くも草が伸び始めていた。
「……管理してくれって、こういうことか」
清一さんの思惑をようやく理解した。
翌週にはホームセンターで草刈り道具を買い、中古車も用意した。東京にいた頃なら車を所有するなんて考えもしなかったが、こちらではスーパーまで車で十分ほどかかる。コンビニならもう少し近い。
不便と言えば不便だった。
だが、一か月もすると、それほど気にならなくなった。
朝起きてコーヒーを淹れ、仕事部屋でオンライン会議をする。昼になれば台所へ行き、夕方に仕事を終える。天気が良ければ縁側に座って庭を眺める。
最初の一週間は、むしろ静かすぎて落ち着かなかった。東京ではいつでも隣や上下に人がいたし、外へ出れば誰かがいた。ここでは夜になると、本当に人の気配が減る。
けれど、それにも慣れた。
清一さんが時々様子を見に来て、近所に住む親戚の澄江さんが野菜を持ってくる。名前も知らない近所の人に挨拶され、スーパーの場所を覚え、道を覚えた。
家にも少しずつ癖があることが分かった。
雨が強い日は二階の窓が少しうるさい。廊下の一か所だけ床が鳴る。台所の蛇口は少し強く締めないと水が止まりきらない。縁側は午後になると妙に暖かい。
そうしたことを一つずつ覚えていくうちに、六月に入る頃には、俺はもうこの場所を普通に「家」と呼ぶようになっていた。
「ただいま」
一人なのに、帰宅すると時々そんな言葉が口から出た。当然、返事はない。
それでいい。一人暮らしなのだから。
東京を離れたことを、今のところ後悔はしていなかった。広すぎる家にも慣れたし、仕事も順調。清一さんへの支払いも始まり、生活は思っていた以上に静かで、思っていた以上に快適だった。
だから俺は、いつしか当たり前のように思うようになっていた。
ここは俺の家だ、と。
その認識が、ほんの数週間後。
玄関先に立っていた十一歳の女の子によって、あっさり覆されることになるとは。
この時の俺は、まだ何も知らなかった。
第1話公開となりまさか。お付き合いいただき本当にありがとうございます。
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