二人分
土曜日の午前中、俺はスーパーのカートを押しながら卵売り場の前で足を止めた。
六個入りと十個入りが並んでいる。
以前なら迷わず六個だった。一人暮らしなら、それで十分だ。
「……十個でいいか」
カゴへ入れる。
牛乳もいつもの一本ではなく二本。冷凍食品をいくつか。アイス。せんべい。チョコ。豚肉。鶏肉。野菜。
ピーマンを手に取ったところで、少し考えた。
「これは一袋でいいな」
増やす必要はない。
会計を済ませて家へ戻る。
袋を台所へ運び、冷蔵庫へ詰めているところでインターホンが鳴った。
時計を見る。十一時前。土曜日。
大体予想はつく。
「はいはい」
玄関を開ける。
「ただいま」
「おかえり」
紬は今日はランドセルではなく、小さなリュックを背負っていた。
「澄江さんには?」
「言ってあります」
「昼は?」
「どっちでもいいって」
「何が?」
「こうじさんのところで食べても、帰って食べても」
「俺に丸投げじゃん」
「嫌なら帰る」
「まだ何も言ってないだろ」
紬は靴を脱いで上がる。
「何してたの?」
「買い物」
「スーパー?」
「そう」
紬はそのまま台所を覗いた。
買ってきたものはまだ半分ほど袋に残っている。
「あ」
「何?」
「アイス」
「目ざといな」
「これ好き」
「そうなの?」
「この前食べたやつ」
「ああ」
無意識に同じものを選んでいたらしい。
紬が袋から箱を出す。
「食べていい?」
「昼前だぞ」
「一個だけ」
「その言葉、覚えたな」
「こうじさんが言うから」
「飯食えなくなるから後」
「けち」
「はいはい」
アイスを冷凍庫へ入れる。
紬はその横で袋の中を覗いていた。
「卵いっぱい」
「十個入りだからな」
「いつもこれ?」
「前は六個」
「なんで増えたの?」
「そっちの方が安かったから」
「ほんと?」
「多分」
「見て買ってないの?」
「細かいところは覚えてない」
紬がじっと俺を見る。
「何」
「牛乳も二本」
「飲むから」
「こうじさんそんなに飲む?」
「飲む時は飲む」
「アイスも私が好きなやつ」
「俺も食べる」
「チョコもある」
「俺も食べる」
「このおせんべい」
「俺も――」
「これ私しか食べてないよ」
止まった。
紬が袋から小袋のせんべいを持ち上げる。
確かに。
俺は買っただけで、一度も食べていない。
「……来客用」
「またそれ」
「便利だな、この言葉」
「私、来客なの?」
「一応」
「ただいまって言ってるのに?」
今度は返事に詰まった。
紬自身も言ってから少し照れたのか、せんべいを袋へ戻した。
「別にどっちでもいいけど」
「じゃあ聞くなよ」
「こうじさんが変なこと言うから」
「人ん家の買い物チェックする方がおかしいだろ」
「だっていっぱいあるから」
残っていた食材を冷蔵庫へ入れる。
紬も横から手伝い始めた。
「それ野菜室」
「分かってる」
「肉は上」
「分かってる」
「それ冷凍」
「分かってるって」
「もう完全に場所覚えてるな」
「何回も来てるから」
「まあな」
最後にピーマンを渡す。
「これはいらない」
「冷蔵庫には必要です」
「なくても困らない」
「俺が困る」
「こうじさん好きなの?」
「普通」
「じゃあいらないじゃん」
「お前に言われたくない」
野菜室へ押し込む。
「で、昼どうする?」
「食べてもいい?」
「親子丼?」
紬がすぐこちらを見る。
「作るの?」
「材料あるし」
「玉ねぎ小さく?」
「覚えてるよ」
「じゃあ食べる」
「即決だな」
昼までまだ少し時間があったので、紬は二階へ上がった。
俺は買ってきたものを片付け終え、居間で少し休む。
以前なら土曜日の昼は適当だった。カップ麺でも、冷凍パスタでも、面倒ならコンビニへ行ってもいい。誰に文句を言われることもない。
今も別に言われるわけではない。
それなのに、冷蔵庫には二人で食べられるものが入っている。
紬が来るかもしれないから。
そう考えて買った。
少なくとも、せんべいは完全にそうだ。
「……まあ、食べるならいいか」
食べ物なのだから、食べる人がいれば無駄にはならない。
十一時半を過ぎた頃、二階へ声を掛ける。
「紬、飯作るぞ」
「手伝う!」
すぐに降りてきた。
「今日は包丁使っていい?」
「玉ねぎなら」
「やった」
「何でそんなに喜ぶんだよ」
「できるって言ってたのにやらせてくれなかったから」
「怪我するなよ」
「しない」
「指切るな」
「分かってる」
「猫の手」
「知ってるってば」
「うるさい?」
「うるさい」
「じゃあ黙る」
「それはそれで見てて」
「注文多いな」
玉ねぎを半分渡す。
紬は包丁を持つと、思っていたより慣れた手つきで切り始めた。
「普通に使えるじゃん」
「言ったでしょ」
「拓真さんに教わった?」
「うん。ご飯作る時手伝ってたから」
「へえ」
「お父さん帰るの遅い日は、先にお米炊いたりしてた」
「一人で?」
「炊飯器押すだけだよ」
「そうだけど」
「味噌汁作ったこともある」
「十一歳にして俺よりちゃんとしてる可能性あるな」
「こうじさんが適当すぎるんじゃない?」
「否定できない」
紬が切った玉ねぎを見る。
「大きさどう?」
「この前より小さい」
「でしょ」
「合格」
「なんでこうじさんが採点するの」
「家主だから」
「関係ないじゃん」
鶏肉は俺が切る。
フライパンで玉ねぎと一緒に煮て、卵を溶く。
「卵何個?」
「三つ」
「多くない?」
「二人分ならこんなもんだろ」
「前は?」
「二つだったかな」
「増えた」
「二人だからな」
そう答えると、紬が少し黙った。
「何?」
「別に」
「卵入れるぞ」
「私やる」
「じゃあ半分くらい入れて」
溶き卵の入った器を渡す。
紬が慎重に回し入れる。
「全部入れないの?」
「少し待って残り入れる」
「なんで?」
「半熟っぽくなる」
「へえ」
「多分」
「多分なんだ」
「料理は雰囲気でやってるから」
「お父さんと全然違う」
「だから比較するなって」
二人分の親子丼を作って食卓へ運ぶ。
「いただきます」
「いただきます」
紬が一口食べる。
「どう?」
「玉ねぎ小さい」
「そこ?」
「おいしい」
「ならよし」
紬は以前より少し早いペースで食べていた。
最初に一緒に食事をした頃は、何となくこちらの様子を見ながら食べていた気がする。
今は普通に食べている。
「卵焼き」
「ん?」
「今度作るって言ったやつ」
「覚えてたの?」
「約束って聞いたら、そのうちって言った」
「約束してないじゃん」
「でも作る?」
「まあ、そのうちな」
「またそれ」
「明日の朝とか」
何気なく言う。
紬が箸を止めた。
「明日の朝?」
「あ」
俺も止まった。
当然だが、紬は今日は帰る。
明日の朝ここにはいない。
「いや、俺が自分で作るって意味」
「そっか」
「何その顔」
「別に」
紬はまた食べ始めた。
少しだけ気まずい。
考えてみれば、ここで夕飯を食べる回数は増えたが、紬が泊まったことは一度もない。
夜になれば澄江さんが迎えに来る。
朝になれば、俺は一人だ。
そこはまだ明確に分かれている。
昼食を終える。
紬は自分の丼を持って台所へ行った。
「今日私洗う」
「じゃあ俺拭く」
「うん」
もう自然に役割が決まる。
洗い物をしながら紬が聞いた。
「こうじさん」
「何」
「私が来なかったら、このせんべいどうするの?」
「食うよ」
「ほんと?」
「賞味期限近づいたら」
「じゃあ私用じゃん」
「来客用」
「だから私来客なの?」
「そこまだ引っ張る?」
「だって」
紬が皿を洗いながら少し考える。
「来客って、帰る人でしょ」
「客は普通帰るだろ」
「私も帰るけど」
「じゃあ客じゃん」
「でも、ただいまって言う」
「……そうだな」
「どっち?」
「知らん」
「ずるい」
「難しいこと聞くなよ」
「難しくない」
「俺には難しい」
紬はしばらく黙って皿を洗った。
俺も何となく考える。
紬はこの家に住んでいない。
住所も、今の生活拠点も澄江さんの家だ。
だから客だと言えば客だ。
ただ、普通の客なら、置きっぱなしの机も、決まった宿題の場所もできない。
冷蔵庫の中身まで把握して、アイスの数を交渉したりもしない。
「じゃあ」
紬が言った。
「何?」
「来客じゃなくていい?」
「何になるんだよ」
「知らない」
「自分から言っといて」
「でも来客は違う気がする」
「……まあ」
少し考える。
「じゃあ紬でいいんじゃない?」
「何それ」
「分類する必要ないだろ。紬が来てる。それで」
紬がこちらを見る。
「それでいいの?」
「何が?」
「来ても」
「今さら?」
「……うん」
「澄江さんに言って、俺が仕事中なら邪魔しない。それ守るなら別に」
「晩ごはんも?」
「毎日は知らん」
「アイスは?」
「一個」
「二個」
「それは今後も一個」
紬が笑った。
「じゃあ来る」
「はいはい」
皿を受け取って拭く。
それで話は終わった。
終わったはずだった。
午後三時過ぎ。
紬は二階で本を読んでいた。
俺は居間でテレビを見ていたが、インターホンが鳴ったので玄関へ向かう。
澄江さんだった。
「あれ、どうしました?」
「ちょっと出掛けるついでに寄ったの。紬いる?」
「二階です」
「やっぱり」
澄江さんが笑う。
「最近、休みの日までこっちね」
「午前中からいますよ」
「お昼も?」
「親子丼食べました」
「あら。ごめんなさいね」
「だから大丈夫ですって」
「でも食費も掛かるでしょう」
「十一歳が一人増えたくらいですよ」
「そういうわけにはいかないわよ」
澄江さんがバッグから財布を出そうとしたので止める。
「いや、本当にいいです」
「晃司くん」
「飯食わせるたびに精算する方が面倒ですよ」
「でもねえ」
「それに」
一度台所を見る。
「最近は少し多めに買ってるんで」
言ってから、自分で気づいた。
澄江さんも気づいたらしい。
「あら」
「いや、別に大した意味じゃないですよ」
「何も言ってないわよ」
「その顔が言ってるんですよ」
澄江さんが笑う。
「そう」
「何ですか」
「ううん」
妙に納得した顔をしている。
「紬ー。澄江さん来たぞ」
二階へ声を掛ける。
足音がして、紬が降りてきた。
「澄江おばちゃん」
「迎えじゃないわよ。ちょっと寄っただけ」
「まだ帰らなくていい?」
「晃司くんがいいなら」
二人で俺を見る。
「何で俺に聞くんですか」
「今いる家の人だから」
澄江さんが当然のように言う。
少しだけ引っかかった。
今いる家の人。
「夕方までならいいですよ」
「じゃあいる」
「即答」
「本読んでる途中だから」
澄江さんはそんな紬を見て笑った。
「じゃあ夕方迎えに来るから」
「一人で帰れるよ」
「ついでだから」
「大丈夫なのに」
「迎えに来たいの」
紬が黙る。
澄江さんは紬の頭を軽く撫でた。
「たまには大人にやらせなさい」
「……うん」
「じゃあ晃司くん、もう少しお願いね」
「はい」
澄江さんを見送る。
玄関を閉めると、横に紬がいた。
「何?」
「迎え、来たいんだって」
「そうみたいだな」
「一人で帰れるのに」
「知ってるんじゃない?」
「何を?」
「一人で帰れること」
「じゃあなんで?」
「迎えに来たいからって言ってただろ」
「……分かんない」
「そのうち分かるんじゃない」
「こうじさん分かる?」
「少しだけ」
「何で?」
「俺も最近、お前が来るかどうか気にするようになったから」
言ってから、少し直接的すぎたかと思った。
紬は目を丸くした。
「気にするの?」
「まあ、夕方になって来なかったら今日は来ないのか、くらいは」
「……ふーん」
「何その顔」
「別に」
紬は少しだけ笑っていた。
「二階戻る」
「はいよ」
階段を上がりかけて、途中で振り返る。
「こうじさん」
「何?」
「今日の晩ごはんは?」
「帰るんだろ」
「聞いただけ」
「まだ決めてない」
「卵焼きは?」
「昼に卵三つ使っただろ」
「十個あるじゃん」
「何で数えてんだよ」
「見たから」
「明日以降」
「そのうち?」
「そのうち」
「忘れないで」
紬は二階へ上がっていった。
俺は台所へ戻る。
冷蔵庫を開ける。
卵は七個。
牛乳は二本。
アイスは、もう一つ減っていた。
「……一個って言ったよな?」
二階へ向かって声を上げる。
「一個しか食べてない!」
「ならいい!」
返事をして、冷蔵庫を閉める。
二人分。
まだ、いつもではない。
でも最近は、一人分だけを考える方が少し減っていた。




