第23話 難しい言葉を百個並べるよりも
この恋をもう一度最初から始めよう。
そう心の中で誓った翠。
とか、格好いい言い回しをしたけれど、それはそれ、これはこれ。
「──なッ、何故だ! 折角だから泊っていけばいいではないか! 布団は新品っ! 風呂も広くて泳げるっ! 背中も流したいッ! 最高の宿泊施設だ! お金は要らない! 払っても良い!」
「何度も言わせるなっての! 着替えがないし、俺は毎日パンツを変えないと落ち着かないんだって。金払うってなんだよ」
夕飯を食べ終わった今。
そろそろ帰ると言った隼人を相手に翠が駄々をこねていた。
しれーっと背中も流したいと言うただの願望を口にしているが、夕食前の一連のやり取りと違って今は押し倒したりしないで冷静そのもの。
帰宅すると言い出した隼人の背後に回って、背中から彼に抱き着いてお願いしているだけ。淑女そのものである。
(我が師にして我が母は仰られた、女子高生の肉体は余すところなく武器である、と。背後から抱き着くか、正面から抱き着くか。いずれにせよ、とりあえず乳をぶつけていれば男子の攻略は可能だと)
娘に何教えとんねんとは思う。
だが、完全に不正解とも言い難いのが悲しい所。
性愛とて立派な愛。
なので、そこを刺激する事で異性を意識させると言うのは、中高生なら難しいかもしれないが大人の男女になれば誰でもやっている駆け引きの一つ。
無論、多用すると安い女、軽い女、チャラい男、ナンパ野郎になってしまうので注意が必要。
「着替えも下着も兄の物を使えば良い!」
「イヤに決まってんだろ! 着替えはともかく他人の下着なんて使いたくないわ! てか、なんなんだよ。子供じゃないんだから我儘言うのは辞めろっての」
「う、うむぅ……宿泊施設として、活用してみては、どうだろうか」
しかし、背中から抱き着いて攻撃をしているにもかかわらず、隼人に対する効果はいま一つ。我儘と言われてしまったので、仕方なく背中から離れた翠は首をひねる。
(……おかしい。失恋によって傷ついた男子の心は寂しさを埋める為に女を求めるのではないのか? 我が肉体は男子垂涎もののはずだ。食べ放題だぞ? どうなっているんだ? おかしい)
おかしいのは翠の頭なのだが、実際問題どうして効果が今一つなのかと言えば、それは彼女が今着ている服のせい。着物だからに他ならない。
着物を美しく着る為に丁寧に胸を潰した上に、ボインを隠す為にタオルを胸の下にあてて帯を巻いたりと、きっちり補正して出来るだけ直線になるように大変綺麗に着物を着ている翠。
しかしそれが仇となっていた。
今の翠には攻撃力が足りていなかった。
仮に制服で同じ事をやっていたら隼人も照れていたかもしれない。だが、今は胸が当たっていると言うよりも帯が当たっていると言う感覚や、どちらかと言うと顔が近い事の方に多少の照れを感じている様子。
「風呂入って泊る意味がわかんねえよ。そもそも家そんなに遠くもねえし。宿泊施設ってのがもうおかしいだろ」
「ま、まあ、そうだが」
「ただ、料理は本当に美味しかったから、それは本当に感謝してるって。マジで美味かった。書道だけじゃなくて料理も上手なんだな、館花」
「あっ、うんっ! 書道と同じで、料理も小さい頃から頑張っていたんだっ!」
「なるほどな。俺はどっちも館花には勝てそうにないから、尊敬するよ。つっても、料理は全然やった事ないから勝負以前の問題だろうけど」
「ああ、なら、じゃあ、教えるよ! 料理!」
「え? あー、んー、まあ、そこは機会があればって感じでいいかな。食べるのは好きだけど、作る方はちょっとな? はは!」
「なるほど。いや、うん。全然問題ない。作るのは私に任せてくれたらいい。またいつでも食べに来てくれ!」
「いやいや、そうもいかないだろ。今回は有り難く御馳走になったけど、こんなのはこれきりだ。なんか別の形でお礼は返すから」
「え? いや! お礼なんて不要だ!」
「でも、美味しいモノ食ったら元気出たよ。ありがとな、館花」
「あ、えっと、はいっ!」
隼人のすぐ隣で姿勢を正して立つ翠。
好きな人に初めて手料理を食べて貰う。
その味を褒められる。
この瞬間は、男女に限らず如何ともし難い喜びがあるもの。
どうにかして隼人を引き止めたいと思う気持ちも、その喜びの前に霞んでしまうようで、お礼を言われるとただ嬉しくなって頷いてしまう。
「さて。そんじゃあ、先生とおじさんに挨拶だけして帰るかな」
「あ、ああ、うん。その、引き止めてしまって、すまない」
「何謝ってんだよ。夕食御馳走になったのはこっちなんだから、謝られても困るって」
「そ、そうか。うん、わかった」
困ったように笑う隼人が歩き始めると、これ以上は我儘を言わないようにと、母と父の所まで彼を案内してから玄関までお見送りをする翠。
黒川乃愛と言う強大な障壁が消失した今。
ようやく手を伸ばす事が許された恋。
触れる事が許されるようになった気持ち。
そんな気持ちを一切隠す必要が無くなった解放感は心地良くて、未来を夢見る事が許された幸福は今までに感じた事が無い甘美な温かさがある。
(……また、料理を食べてはくれないだろうか)
だから、それをもっと感じていたいと思うのは至極当然の事。
また笑顔を見せて欲しい。
また喜んで欲しい。
また褒めて欲しい。
その考えるのは普通の話。
「それじゃあ、今日は大変美味しい料理をありがとうございました、館花翠さん」
「ぅ、うんっ。お口にあったなら、とても⋯⋯とても嬉しい」
「合った合った、めちゃくちゃ美味かったよ。それじゃあ、また次は月曜日の部活で、おやすみ」
「おやすみなさい、先輩」
玄関を抜けて門の前まで移動すれば、後はお別れの時間。
楽しいと感じていた時間はそれが幸せであればある程に、終わる瞬間の寂しさが増してしまうのが世の常。背中を向けて暗い道の中に溶けていく好きな人の姿が、その寂しさを加速させてしまったのか。
「──まっ」
これ以上は嫌われないように。
我儘を言わないように。
そう思って我慢していた翠の口からは勝手に言葉が飛び出してしまった。
「うーん? どうした?」
そうして、聞こえるか聞こえないかの、翠の小さな声を拾い上げた隼人が振り返ったものだから、もう少し甘えたくなってしまうのはどうしようもなくて。
「ま……また」
「また?」
「あっ、また、あの……。め、迷惑でなければ、私の料理を、食べてく欲しい……です」
最初からそう言えば良かった言葉。
最後の最後の瞬間に何とかギリギリ言えた言葉。
「別に俺は迷惑なんて思ってないけど、単純に大変だろ?」
「全然大変じゃない! です! いや、だから、食べてくれる人が居ると、嬉しくて、ですね」
「そうなのか? ん……じゃあ、館花が大変じゃないって言うなら、俺もまた館花の料理は食べたいかな。めっちゃ美味かったしな。金取れるぜー、あの出来はー、ははは!」
「あ──ああ! うん! じゃっ、じゃあ、また! また作るから! また食べて欲しいです!」
「はいよー。とりあえずまた今度なー」
「はい!」
満面の笑みを浮かべた翠。
綺麗と言うよりも可愛い笑顔。
子供の頃、まだ翠と仲が良かった頃に何度か見た事のある満面の笑みを見た隼人は、肩を軽く上下して笑うとヒラヒラと手を振りながら帰路に就いた。
学年が違う。年齢が違う。
それは確かに障害かもしれない。
年下に見られたくない。
対等に見られたい。
女として見られたい。
そう思って、どうにかして大人になろうとしている翠ではあるが──。
(なんで晩飯を食べる事になったのか全然わからなかったけど、作った料理食べて欲しいなら最初からそう言えっての。いきなり食え食え言われたら何か裏があるかと思うじゃん、こっちだって)
夕飯を食べていけだとか。
泊っていけだとか。
風呂に入れだとか。
そんな命令口調の言い回しを百個千個と並べるくらいなら、ただ一言、元気になって欲しいと言う言葉や、作った料理を食べて欲しいと言う、素直な言葉を並べた方が百億倍は相手の心に響く。
(年下なんだから、なんか言いたい事あるなら遠慮しなくていいのに。なんか、めんどくさい性格してるよな、館花って)
年下には年下の。
後輩には後輩の戦い方がある。
素直な後輩。可愛い後輩。
元気な後輩にお願いをされて嫌な顔をする先輩はあんまりいない。時々いるけど、あんまり居ない。
年下は年下と言うだけで強い。
それだけで可愛がられる一つの才能。
翠が後輩と言う強力な武器を自覚する日が来れば、戦況は大きく変わるのかもしれない。
簡単な言葉を1つ口にした方が意外と伝わるようになってるのよね、世の中って。




