log88.仮想の結び目
10区管理庁舎への同行に、ヴォルカイドは快く応じた。応接室に案内された僕は、隣のヴォルカイドをちらりと見る。彼は、にこやかな表情を崩さず、愛想よくシヴィラに話しかけていた。シヴィラはそれに対してあたりさわりのない返事をするばかりだが、ときおり探るように、重たげな瞼の下で瞳が光る。そして、ついにヴォルカイドが本命の質問に切り込んだ。シヴィラが茶器を取り上げる。
「―残念ですが」
シヴィラは灰豆茶を一口飲んで卓に戻した。
「そのコードは私の手によるものではないですね」
ヴォルカイドがじっとシヴィラを見つめた。「失礼、あまりに魅力的だったもので」と平然と微笑む。シヴィラは反応せず、右手の人差し指で軽く卓を叩いた。
「ヴィルザード卿、あなたの名はフリッツの名簿にありませんでしたね」
「変だね。この装飾爪は彼から直接買ったのに」
「フリッツが売っている“爪”には2種類あったんです」
シヴィラは脇に避けてあった二つのケースを引き寄せた。彼女が最初のケースの蓋を親指で押し上げると、中から廃霊宝石でぎらぎらと飾り立てられた装飾爪が露わになった。
「これはあなたたちもよく知ってるはず。フリッツが貴石を剥ぎ取り、廃霊宝石に付け替えた違法な装飾爪。これは名簿に載る」
シヴィラはすぐにその蓋を閉じ、隣にあるもう一つのケースへ手を伸ばした。
「そしてこっちが“本命”」
パチン、と乾いた音がして二つ目のケースが開く。なかに収められていたのは、先ほどの派手なものとは対照的に、琥珀で飾られた一見すると普通の装飾爪だった。
だが、それを視界に入れた瞬間、僕の網膜の端でノアの走査線が激しく明滅した。
『マスター…微弱な生体波形を検知。死者から抽出された静止コードではありません。不規則な熱量を持った、生きた情報の脈動です』
僕が息を呑むのを、シヴィラは見逃さなかった。彼女は口元に微かな笑みを浮かべ、そのケースを僕のほうへと滑らせて寄せる。
「フリッツは“仮想爪”と呼んでいたかな」
促されるまま、僕はケースからその爪をそっと手に取った。指先に触れた瞬間、かすかな温みのような、生々しい「ノイズ」が伝わってくる。仮想爪。それは、今まさに11区のどこかで灰化病に侵され、肉体を崩壊させつつある人間を“波形元”とする、生体端末そのものだった。
「私も詳しくは知らない。ただ、フリッツは生前に言っていた。それを使うと“仮想波形”を通じてやりとりができるって」
僕がその爪をケースに戻すと、僕の脳内でノアが言葉を続けた。
『灰化病に侵された生体の波形は、情報の欠損とノイズを内包して動的に変化します。フリッツはそれを“仮想波形”と呼んでいたのでしょう』
「フリッツは特別な上客には、名簿に記名せず、この“仮想爪”のほうを直接手渡して売っていた。ヴィルザード卿、あなたのような特権階級の人たちの“絶対的な秘匿性”を守るためにね」
シヴィラがパチンと音を立てて、そのケースの蓋を閉めた。
11区管理庁舎に帰って炉心室に入ると、一気にこもった熱気が押し寄せた。しばらく空調の効いた10区の管理庁舎で過ごしたせいか、余計にまとわりつく熱がわずらわしく感じる。僕がコンソールの前に座ると、すぐノアのホログラムが像を結んだ。彼女だけはいつでも青い光を透かして涼しげだ。
「イレブンさん」
セイルがホログラム・ウィンドウから顔を上げた。彼は、シヴィラから提供された顧客リストとメルの顧客リスト、さらには10区・11区の管理台帳を照らし合わせ、名簿の整理と情報の統合を進めていたようだった。
「お帰りなさい。こちらの名簿、大体の整理が終わりました」
セイルが指先で空を払うと、僕と、僕の少し後ろに立っていたヴォルカイドの目の前に、青白い情報ウィンドウが滑るようにして展開された。
そこに並んでいたのは、僕たち末端の術師や市民には一生縁のないような、きらびやかな名前の羅列だった。CMRの高官、黒都エレボスの重鎮、さらには黒領ノクスの貴族たち。この世界のシステムを形作り、管理し、そしてその恩恵を享受している最上流の階層が、あの細工場で死んだフリッツの『上客』として名を連ねている。
「……」
僕は乾いた喉を上下させ、視線をコンソールの端の錆へと落とした。彼らがシステムを欺くために、11区の市民が灰化病に苦しむ人間を「万能の鍵」として消費している。その構造が、冷徹なテキストデータとして目の前に並んでいる。
「このリストの中で、気になる人物がいて―」
セイルがウィンドウの一部を指し示し、口を開きかけたその時だった。コンソール脇の通信機が甲高い音を立てて鳴った。
『マスター、警告。外部から強制的な最優先暗号通信が割り込んでいます。発信元―アルゼノン・カウス』
通信機を取ると同時に、スピーカーから、カウスのひどく穏やかな、しかし一切の感情を読ませない声が響いた。
『―やぁ、イレブン君。そちらの状況に変わりはありませんか』
「…カウス教授」
不意の通信に僕の身体が強張る。カウスは僕の返事を待つこともせず、世間話でもするかのように言葉を続けた。
『先日、君たちが捕縛したバルド・オストについてですが』
その言葉に、通信機を持つ僕の指先が、金属の冷たさを吸って硬く強張る。
『彼から得られた情報の裏が取れたので共有しておこうと思いまして』
カウスの声は淡々と言葉を紡ぐ。セイルも、ただ無言でこちらに視線をあてている。
『ノアの身体の一部を持つ者がいる』
その言葉に、僕のすぐ隣でホログラムとして佇んでいたノアが、ちいさく身震いするようにホログラムの輪郭を揺らした。その琥珀と青の双眸が、通信ウィンドウの波形を見つめる。
『相手はサザン・クラスターの企業の一員です。彼らはその潤沢な資本で、30年前に廃棄された12区のシステム残骸や、密輸された遺物を買い漁っている。どうやら、ノアのパーツを個人的なコレクション、あるいは研究材料として厳重に保管しているらしい。』
「サザン・クラスター…」
大陸南方の企業連合都市。その名が持つ圧倒的な規模と、ノアの一部がそこにあるという事実に、僕はやや圧されたまま、ただ通信機から流れる声に耳を傾けることしかできなかった。
「―ちょっといいかな、イレブン君」
不意に、背後から歌うような滑らかな声が響いた。
ハッとする間もなく、ヴォルカイドが僕の肩越しにすっと手を伸ばし、通信機をひょいと指先で取り上げてしまった。
「あ、ヴィルザード卿…!?」
慌てて振り返る僕を、ヴォルカイドは人差し指を唇に当てる仕草で制した。そして、通信機に向かって、酷く親しげに、楽しそうな声音で語りかけた。
「やぁ、ゼノ。久しぶりだね。君は相変わらずだ」
通信の向こうが一瞬、しんと静まり返る。
(ゼノ…? あ、アル“ゼノ”ン・カウス…!)
カウスのファーストネーム。それをこんなにも気安く呼ぶ人物を、僕は他に知らなかった。カウスとヴォルカイド―黒都の教授と、黒領の貴族であり医師。この二人が、かつてどのような繋がりを持っていたのか、僕には想像もつかない。
『…おや、カイ。君がなぜそこにいる。11区の泥水は、君の高貴な衣服にはいささか不釣り合いだと思うが』
カウスの声から、先ほどまでの機械的な退屈さが消え、わずかに皮肉めいた温度が混ざる。
「可愛い甥の様子を見にきてね。ついでに、君がこの哀れな子供たちにどんな無茶を強いているのか、観察させてもらっているのさ」
ヴォルカイドが通信のスピーカーを切る。これで僕たちにカウスの声は聞こえなくなった。だが、彼らの会話は続いている。二人は、11区の環境や、0区の共通の知り合いの噂話などを話しているようだ。カウスが何と答えているのか、ヴォルカイドの表情からは読み取れず、僕はただハラハラしながら、目の前の奇妙な「歓談」を見守るしかなかった。
「それじゃあ、またね、ゼノ。あまり彼らをいじめないでやってくれ」
ヴォルカイドはそう言って、一方的に通信を切った。デバイスをコンソールの上にカツン、と戻すと、彼は何事もなかったかのように微笑み、セイルの方へと視線を戻した。
「さて、セイル。君がさっき言っていた、気になることって何だい?」
セイルは一拍、呆気にとられたように瞬きをしていたが、すぐに表情を引き締め、手元のウィンドウを操作した。
「…はい。メルシア・クラークのリストにあったこの人物、サザン・クラスターの企業の上級役員についてです」
セイルは、一つのロゴマークを画面に拡大表示した。
「この企業のロゴが入った製品が、バルド・オストの潜伏先から複数発見されています。―バルド・オストが、11区の遺棄市民たちに横流ししていた燃料や防寒具のコンテナ。それらはすべて、この企業の物資だったんです」
―セントラル・コンダクト。
サザン・クラスターの全配管・輸送システムを掌握するその巨大企業の名がウィンドウに青白く明滅していた。
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