log87.偽装の鍵
炉心室で形ばかりの報告書をまとめながら、僕は足元に伝わる心臓炉の拍動をぼんやりと追っていた。足の裏が押し上げられるたび、同時に胃の底の重い塊が喉元までせりあがるような気がする。
―瀝星廃液の異常燃焼。
それが出火の原因だった。多量の不純物まじりの廃液が、あの猛火を引き起こしたのだ。それまでは、正規品規格に近い瀝星燃料が供給されていた―バルド・オストによって。しかし、彼が僕たちに捕縛されたことにより、燃料の供給が完全に滞ってしまったのだ。そして、彼らは濁った廃液を炉にくべた。
『バルさんは、俺たちを助けてくれてたんだ』
あの廃棄配管層で、遺棄市民が呟いた言葉が、耳の奥で生々しく蘇る。11区の“日常”はあまりにも脆い。
「……」
僕の指先が、端末のコンソールの上でピタリと止まる。
チリ、と薄青い光条が走り、コンソールの脇にノアがホログラムの像を結んだ。彼女の琥珀と青の瞳が、僕の硬直した横顔を静かに見つめる。
『…手が止まっています。マスター』
彼女のいつもの透明な声が僕の思考の沈殿を遮った。
『まだ「出火原因の術式的因果関係」および「周辺汚染の予測値」の項目が未記入です。灰綿苔の残渣波形による炉心への干渉確率を「0.03%以下」と入力するのが適切です』
「ノア」
僕は彼女の指示を遮るように、低く呼びかけた。網膜の裏で明滅するログを見つめながら、ずっと喉に引っかかっていた疑問を口にする。
「…死体ではなく、生体の残滓を『装飾爪』にするメリットは、一体何なんだろう」
フリッツ・コールの細工場で見つかったのは、死者の残滓だった。だが、あの火事現場でヴォルカイドが見せたのは、今も生きている人間の、それも灰化病に侵されつつある生体由来の結晶だった。死体由来以上に拒絶反応も大きいだろうに、わざわざ生きた人間から削り出す理由が分からない。
ノアは一瞬だけ瞳の光彩を明滅させ、処理の速度を上げた。
『推測。最新の検閲システムへの対策です』
ノアの声が、淡々と言葉を紡ぐ。
『現在、中央および各管区に導入されつつあるCMRの最新検閲システムは、偽装コードの検出精度を大幅に向上させています。特に、死体から抽出されたものは波形が硬直しており、生体特有の微細な“揺らぎ”が存在しません。システムは、その静止波形を「死型ノイズ」として自動的に弾くアルゴリズムを実装し始めています』
つまり、生きている人間から抽出したコードでなければ、最新の検閲の目を欺くことはできないということだ。
「もう一つは、“波形の変化”だね」
背後で、重い鉄扉が軋む音と共に、歌うように滑らかな声が響いた。
心臓が跳ねる。振り返ると、ヴォルカイドがにこりと笑っていた。彼はその微笑を湛えたまま、音もなく僕の作業机へと近づいてくる。
「波形元の生体が灰綿苔に侵食されることにより、その人間の波形はノイズを内包しながら常に変異し続ける。つまり、装飾爪の波形もまた、動的に、リアルタイムで変化していくんだよ」
ヴォルカイドはコンソールのすぐ近くまで歩み寄ると、ノアに向かって再び紫の花を贈った。ノアはそれを瞬時に走査線の青色で上書きする。彼は気にした様子もなく、僕に視線を向けた。
「これにより、仮に一つの波形が監視網に捕まってブラックリストに登録されたとしても―次の瞬間には変化した波形が、何事もなかったかのようにシステムをくぐり抜ける。“波形元”が生きている限り使い回せる万能の鍵だ」
「…フリッツは、ただの一角に過ぎなかったんですね」
僕の絞り出すような声に、ヴォルカイドは静かに頷いた。
「何者かが、意図的にこの11区に灰綿苔をばら撒いて、“波形元”となる生体を増やそうとしている」
ヴォルカイドが何気ない仕草で左手を持ち上げた。その人差し指の先、整えられた爪の上で、あの琥珀色の光がチリチリと微かに爆ぜるように輝いた。あの火事現場で、手首から先を失い、前肢を土壁のように崩壊させていた男。彼の崩れ落ちる肉体と、ヴォルカイドの装飾爪は確かに共振していた。ヴォルカイドがその爪から火花を走らせるたび、遠くの避難所で横たわるあの男の傷も、応えるように痛むのかもしれない。
『マスター。11区の裏通りにおいて、高値で「爪」を買い取る業者の噂が、最近になって急激に増加しています』
ノアのホログラムが、ヴォルカイドの爪を見つめたまま静かに告げた。
『11区の市民は術式を綴れないものが大半を占めます。それがどんな価値を持つのかも知らず―ただ目先の糧食や、わずかな対価のために、自身の爪を、肉体を売るのでしょう』
僕は思わず、自分の爪の欠けを見つめた。11区の市民が自らの爪を剥ぎ、売る。剥がれた爪の、肉が露出する激痛から逃れるために、彼らは安価で手に入る灰綿苔を使い、その麻薬的なノイズで脳を濁らせる。だが、灰綿苔は肉体をさらに損ない、灰化病を進行させる。進行した灰化のエラーは肉体をさらに苛み、彼らはその苦痛を紛らわせるために、さらに灰綿苔を使い、自身の“波形”を歪ませていく。そしてその歪みこそが、システムをすり抜けるための最新の材料になるのだ。
「…最悪だ」
乾いた僕の声に、ヴォルカイドは瞼を伏せ、人差し指の琥珀を見つめた。その指先から夜紫の火花がチリ、と爆ぜる。
「同感だね。これほどおぞましいものはない」
「え…?」
僕は顔を上げた。ヴォルカイドの目元からは微笑が完全に消え去っていた。口元だけは変わらず笑みを浮かべているのが、かえってそのまなざしの冷たさを際立たせた。
「勘違いしないでほしいな、イレブン君。僕はこれを楽しんで着けているわけじゃない。僕は医者だ。生きた人間をすり潰してインクにするような真似、虫唾が走るよ」
「じゃあ、どうしてそれを…」
「『手がかり』だからさ」
ヴォルカイドはコンソールに軽く手を突く。彼は上着から自身の携帯端末を取り出した。
「僕はフリッツ・コールからこの装飾爪を買った。その時、すでに偽装コード自体は仕込まれていた。同調コードの技師として紹介されたのが彼女だ」
ヴォルカイドが端末を差し出す。そこに表示されていたのは精密義爪補完所「M.E.L.」の店主―メルシア・クラークだ。
「けど、彼女は何も知らなかった。デートの誘いには乗ってくれたけどね」
ヴォルカイドは端末を上着にしまった。おそらく、彼の超感覚でメルを探ったのだろう。
「フリッツの腕から考えると、彼がこの偽装コードを仕込んだとは考えがたい」
ヴォルカイドはちらりと僕に目線をやった。その視線は、何か知っているのではないか、と問うている。
「だからあの時、針の終端にいたんじゃないのかい?」
「それは違います」
僕は言下に答えた。だが、あなたを疑っていたからです、とは答えがたい。あの時の僕はヴォルカイドを単なる装飾爪の利用者と目し、その背景を探ろうとしていた。ヴォルカイドはしばらく僕をじっと見つめたあと、小さく息をついて顎を引いた。
『シヴィラ・ミラー』
ノアの声に僕はハッと顔を上げた。フリッツから店の鍵を預けられるほど信用されていた彼女ならば、何か知っているのではないか。あるいは、この“偽装コード”自体、彼女の手によるものかもしれない。
僕は立ち上がり、ヴォルカイドに向き直った。
「ヴィルザード卿、お願いがあります」




