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log86.残滓のきらめき

僕は息を呑んだ。喉を伝う汗が首環リングに溜まり、微かに皮膚をふやかす。


CMRの正六面体キューブでも、黒都の正八面体オクタでも、黒領の正十二面体ドゥデカでもない。掌の中で静かに青い光を放つこの結晶は、そのどれとも違っていた。継ぎ接ぎだらけの不格好な僕のコードが、あり得ないほどの滑らかな輪郭を描き出している。


「急ごう」


ヴォルカイドの声に、僕はハッと我に返った。彼の手から放たれた極細の結晶糸が、熱で歪んだ鉄扉へと絡みつく。今度はノイズに阻まれることなく、紫の火花がパチリと弾けると同時に、分厚い鉄扉が砂のようにサラサラと崩れ落ちた。僕は掌の『正球体スフィア』をポケットへ滑り込ませ、ハンスと共に部屋の奥へと飛び込んだ。


そこは空調の止まった密室だった。炎が回っていない代わりに、ひどく乾燥した熱気が滞留している。部屋の隅、崩れ落ちた棚の影に、小さな人影がぐったりと横たわっていた。


「おい…!」


ハンスが駆け寄ろうとするよりも早く、ヴォルカイドが滑るような足取りで子供の傍らへ膝をついた。長い指先が、煤に汚れた子供の首筋に触れる。


「脈は弱いが、ある。脱水と軽い一酸化炭素中毒だね」

ヴォルカイドはハンスに視線をやった。


「足を」


ヴォルカイドはハンスの右脚を指差す。ハンスは舌打ちを飲み込み、黙って血の滲む右脚を前に出した。ヴォルカイドの爪先から紫の火花が散る。極薄の生体結晶膜が空中に編み上げられ、ハンスの患部へピタリと貼り付いた。淡い光が傷口を覆い、細胞を強引に繋ぎ止める。


「…礼を言う」


ハンスがぽつりと呟いた。ヴォルカイドは振り返りもせず、「お安い御用さ」と楽しげに笑うと、そのまま流れるような動作で子供の全身を包む遮断膜を展開した。


「俺が運ぶ」


ハンスが子供を抱き上げる。彼の足取りから先程までの痛みの色が消えていた。抱え上げられた子供が力なくハンスの背にもたれかかる。


『マスター、構造物の限界値を確認。撤退を急いでください』


ノアの警告が響く。ホログラムのノアの放つ薄青い光が炎の赤色を透かす。先頭に立つヴォルカイドが、通路を塞ごうと吹き上がる炎の壁に向け、紫の火花を散らす。炎が爆ぜるよりも早く、空間ごと巨大な結晶の塊に包まれ、通路が強引に抉り開けられていく。


降り落ちてくる火の粉の雨を潜り抜けながら、僕はひたすらに出口を目指した。


『マスター』


ノアの短い呼びかけ。僕の爪先から青い火花が走り、重結晶化コンパイルが発動する。崩れかけた天井の隙間へ、L字やT字の不揃いな結晶ブロックが次々と吸い込まれ、構造に噛み合いながら落下を防いだ。


(いつもの不定形格子だ)


僕は内心で小さく息を吐いた。先ほどの『正球体』は、やはりノアが一時的に群霊体のバグ波形を呑み込んだことによる、奇跡のようなものだったのだろう。だが、崩れかけた天井を支える僕の不格好な結晶を見て、先頭を走っていたヴォルカイドが、ちらりと視線を向けた。炎の照り返しか、一瞬、その深紫の瞳がチリ、と光った気がした。


肌を刺すような熱の中を駆け抜ける。ポケットの中で、『正球体』が、僕の歩調に合わせて微かな音を立てている。出口が見えた。あと数歩だ。だが、最後の入り口の枠組みが、自重に耐えきれずにメキメキと嫌な音を立てて崩れ落ちる。バチリ、とヴォルカイドの爪先から走った紫の火花と、僕の手から散った青い火花が、ほぼ同時に空間を叩いた。


崩落する質量を下から支えるように、ヴォルカイドの紫の結晶がきらめきながら組み上がり、僕の不揃いな青い格子がその隙間を埋めるように、完璧な角度で噛み合った。二つの異なる術式が、反発することなく一つの強固なアーチを形成し、頭上の構造を完全に食い止めた。


ハンスが子供を抱えたまま、そのアーチの下を一気に駆け抜ける。僕とヴォルカイドもそれに続いた。外の空気に触れた瞬間、僕は膝に手をつき、大きく、大きく息を吐き出した。煙と熱から解放された肺が、冷たい空気を貪欲に吸い込む。背後の炎が、音を立てながら背後の空気を炙っている。僕は右手の甲で額の汗を拭った。


「ハンス先輩、イレブンさん!」


ニコと子供の母親が駆け寄ってくる。


「あぁ、あの子…あの子は…!」


母親は狂ったように叫びながらハンスへとすがりついた。ハンスがその腕から子供をゆっくりと地面へ下ろすと、母親は泥と煤にまみれた小さな身体をかき抱き、その胸に耳を押し当てた。衣服が熱で焦げ、小さく上下する子供の頼りない胸。だが、確かに息をしている。母親の目から頬の煤を溶かして大粒の涙が溢れ落ちた。


「ありがとうございます、ありがとうございます…!」


子供を抱きしめながら、何度も、何度も母親は僕たちに、そしてハンスに涙混じりの礼を繰り返した。ハンスはぶっきらぼうに視線を逸らし、煤のついた顔を片手で拭った。タン、という軽やかな足音に振り返ると、レイナが遅れて駆け寄ってきた。へら、と笑う僕に、彼女は肩の強張りを緩めた。


「レイナ、この子は任せるよ」


ヴォルカイドが何気ない調子で声をかけると、レイナは一瞬ヴォルカイドの表情に視線を走らせたが、すぐに居住まいを正して頷いた。


「はい」


彼女はハンスの背から完全に子供を引き受け、その小さな身体をしっかりと両腕で抱え直した。そのまま救護班の待つ安全圏へと素早く下がっていく。それを見送ったヴォルカイドが、ゆっくりと、未だ激しく燃え盛る建物へと向き直った。


「生体反応は?」

『…ありません』


ヴォルカイドの質問にノアが簡潔に答える。頷いたヴォルカイドのその両手、全ての指先から、バチバチと爆音を立てて激しい夜紫の火花が走った。空中に乱舞する火花が、炎と煙を五線で引き裂くようにコードを綴る。彼が両手をひらりと返すと、建物の下部、その土台から沸き起こるようにして、巨大な結晶群がせり上がった。ゴゴ、と地鳴りが響く。結晶は燃え盛る建物の構造を完全に包み込み、内部の炎ごと、その透明な紫の檻の中に閉じ込めてしまった。酸素を遮断された炎が、結晶の内側でもがき、やがて一瞬にして圧殺される。その圧倒的な力量、術式の規模に、僕は一瞬、息をすることすら忘れて言葉を失っていた。


「さあ、イレブン君」


ヴォルカイドは何事もなかったかのように紫の火花を収めると、人好きのする笑みを浮かべて歩み出した。僕はニコから受け取った水筒の水をひりついた喉に流し込み、彼の後を追って歩を進めた。


付近には、逃げ惑った末に息を切らし、地面に座り込んでいる負傷者たちが溢れていた。ヴォルカイドはその間を流れるように縫いながら、一人一人の様子を注意深く見ていく。ときに足を止め、その指先から生体結晶膜を編み上げては、重傷者の患部へと惜しみなく施す。苦痛に歪んでいた人々の顔が、彼の触れた先から劇的に和らいでいく。


それを見つめながら、僕は彼の二つ名を改めて思い起こしていた。


「夜紫の医神」


医療系最高峰の術師。同じく術師の頂点と謳われるカウスの冷徹とは対極にあるような、目の前の命を確実に救い上げる慈悲。だが、あの熱気をくぐり抜けてなお息一つ乱さない姿は、どこか人間離れしていた。


周囲の負傷者たちを見渡すうち、僕はあることに気づいた。“普通”の怪我人が、少なすぎる。


火傷や打撲に混じって、彼らの肌のあちこちが、奇妙に白く固まっているのが見えた。患部が乾燥し、ひび割れ、まるで古い漆喰のように剥がれ落ちそうになっている。


(灰化病…)


この建物で見た、あの荒れ狂う灰綿苔アッシュカバーの残滓波形。ここにいる市民の少なからぬ数が、灰綿苔の罹患者だった。ヴォルカイドが、再び立ち上がって歩みを進めた。そして、地面に背を預けて荒い息を吐き出している、一人の男の前で完全に足を止める。


その男の症状は、周囲の誰よりも深刻だった。左の手首から先が完全に失われており、その断面から肘にかけての前肢が、まるで脆い土壁のように白灰色に変質し、今もポロポロと音を立てて崩れ落ちつつある。肉の定義が失われ、灰へと変換されていく。


ヴォルカイドが男の前にゆっくりと身を屈めた。そして、その崩れかけ、形を失いつつある前肢へと、自らの衣服の袖を汚すことも厭わずに、そっと左手を当てた。チチ、と小動物の威嚇のような音が響く。ヴォルカイドの左手の人差し指、その爪先が、男の崩れかけた皮膚と同調するように細かく鳴っていた。


「…“これ”について、君は僕に聞きたいんじゃないのかい?」


ヴォルカイドが、顔だけを小さく後ろへ傾け、僕を見上げて微笑んだ。彼の左手の人差し指。その整えられた爪の上で、男の灰色の残渣を吸い上げるようにして、チリチリときらめく、琥珀色の小さな結晶の粒があった。


僕は、その輝きを確かに知っていた。


(―装飾爪だ)


針の終端(ニードル・エンド)そして10区の契約者シヴィラの指先で見た、人間の残滓を材料とするきらめき。それが、この黒領の貴族の指先で、静かに呼吸するように明滅していた。


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