log85.不定形の収束
前方で激しく巻き起こる灰色の残渣波形の嵐は、僕たちの肉体を守る遮断膜を容赦なく削り取ろうとしていた。視界の端でノアが点滅させるカウントダウンが、僕の焦燥をいや増していく。ヴォルカイドが前方に手を伸ばす。その爪先から生成されたのは紫にきらめく結晶糸だ。極細の糸が幾条も崩れ落ちた梁に絡みつく。パチリ、と紫の火花が走ったかと思うと、分解が発動し、見る間に梁は自重を支えきれずに砂へと変わり、脆い石塊となって崩れ落ちた。だが、その結晶糸すらも、更に奥の鉄扉に触れようと伸ばされた端から、灰色の残渣波形に侵されて炭化するようにボロボロと崩れ落ちていく。
「…下手に扉を触るのはまずいかもね」
初めて、ヴォルカイドの声に焦燥が混じる。勢いを増したノイズが、鉄扉を包むように金属的な絶叫を上げていた。遮断膜を張ることのできない非術師、それも子供がこの残滓に触れればひとたまりもないだろう。
ちり、と僕の傍らで薄青い光条が走った。空気を編み上げるようにして、ノアがホログラムの像を結ぶ。彼女の琥珀と青の瞳が、僕たちの遮断膜を容赦なく擦り潰そうとうねる灰色の暴風をじっと見つめていた。ヴォルカイドの結晶糸すら、このノイズは貪り、噛み潰すようにして侵食している。
『―この残滓波形は、「廃霊」に極めて近い』
ノアの声が、嵐の咆哮に混じって僕の耳に届く。
『マスター、提案があります』
「提案…? 」
僕が問い返すと、ノアの視線が僕へと向けられた。ホログラムの光の粒子が、周囲のノイズと同調するようにかすかに乱れている。
『私が「廃霊」であるのなら―このノイズを取り込み、「群霊体」となることが可能なはずです』
「何を言って…!」
思わず声を荒らげていた。群霊体。個々の廃霊たちが共振し、互いの波形を継ぎ接ぎして形成する敵対存在。あの怪物の仕組みをノアが模倣するというのか。そんなことをすれば、ただでさえ不安定なノアの個体定義がノイズの濁流に呑み込まれ、今度こそ完全に存在が霧散してしまう。だが、僕の困惑を置き去りにして、灰色の嵐はさらに勢いを増した。キチキチと神経を逆撫でする摩擦音が響き、僕たちの遮断膜は薄皮一枚のところまで削り取られていく。周囲のコンクリート壁が熱により剥離し、乾いた音を立てて床へ突き落とされた。
「…僕が彼女の個体定義を守ろう」
不意に、ヴォルカイドが徹った声をあげた。驚いて彼を見ると、深紫の瞳がまっすぐに僕を見据えている。
「リンクした君を通じてなら、僕の術式で彼女を防御・補強することが可能だ。試してみる価値はあるんじゃないかい?」
ノアがちらりとヴォルカイドを見つめ、それから僕を見た。選択の余地はなかった。すぐ隣で、荒い足音が響く。見れば、ハンスが痺れを切らしたように、その身を覆う膜ごとノイズの渦巻く鉄扉へと突っ込もうとしていた。
「ハンスさん、駄目だ!」
僕は叫び、ハンスの身体を背後から掴んで強引に引き剥がした。彼は盛大に舌打ちをしたが、その遮断膜はすでに限界を迎え、青白い火花を散らして悲鳴を上げている。ノイズが止む気配は微塵もない。さらに、背後から凄まじい轟音が鼓膜を震わせた。振り返れば、僕たちが通り抜けてきた入り口付近に群生していた灰綿苔が、過密なノイズの圧に耐えかねて一斉に爆ぜ、新たな残滓の奔流をこちらへ向かって撒き散らし始めていた。前後を挟まれた。完全に逃げ場はない。
「…ノア」
僕は短く、彼女の名前を呼んだ。ノアは静かに頷く。
僕の指先、灰白色の爪から、激しく青い火花が飛び散る。それを合図に、ノアが灰綿苔の波形に向けて共振を開始した。鉄扉を包んでいた灰色の残渣波形が、明確な指向性を持ってノアのホログラムへと吸い込まれ始める。
「くっ、あ…!」
リンクしている僕の脳内に、狂ったようなノイズの濁流が直接流れ込んできた。脳を割れた爪でガリガリと引っかかれるような、耐え難い情報の摩擦熱。僕は歯を食いしばり、さらに爪先から青い火花を散らす。ノアの背骨を受肉した、僕の右手人差し指の爪が、焼かれるように熱を持ち、皮膚の奥がズキズキと脈打つ。
――48、47、46秒―
視界の隅で進むカウント。ノアは共振を続けている。だが、徐々に彼女の青いホログラムの身体に灰色のノイズが走り、激しくぶれ始めた。
―波形が混ざり始めている。
「ノア、 これ以上は―」
遮ろうとして伸ばした僕の手を、ノアのホログラムの手が優しく、しかし拒絶の意志を持って包み込んだ。触れ合えるはずのない光の像が、僕の手を制している。ノアの瞳が、僕の目を真っ直ぐに捉えて離さない。皮膚の奥の脈動が爆ぜるように神経を刺す。
(ノア…!)
心の中でその名を叫ぶ。ノアの身体の輪郭が、灰色のノイズに侵食され、ボロボロと崩壊を始めていく。瞳が瞼を蹴って限界まで見開かれる。
『マスター…』
彼女の声が、僕の脳内で震えながら反響する。脳を揺さぶるノイズが耳鳴りとなって耳骨を揺らす。鼓膜を裏表から掻きむしられるかのような擦過に僕は歯を食いしばった。右人差し指の爪先の熱が、内側から割れるのではないかと思うほど、激しい圧で皮膚を押し上げる。指先の感覚が遠くなり始めた。
―…20、19、18秒…
その時、僕の肩に、冷たくて力強い手が置かれた。視界の端で、鮮やかな夜紫の火花が爆ぜる。ヴォルカイドの手だ。彼の指先から流れ込んできた術式が、僕の神経を、そしてリンクの先にあるノアの個体定義を無理やり縛り付け、固定していく。脳を焼き尽くさんばかりだった痛みが、一瞬、麻痺するような感覚が駆け抜けた。視界を埋め尽くしていた光の乱調が、強制的に整えられていく。
「―っ!」
僕の爪先から、行き場を失った青い火花がバチバチと零れ落ちる。その青い光が、ノアが引き受け、なおも処理しきれずに溢れさせていた灰色のノイズに触れた。
青い火花と、灰色の波形が衝突する。それは一時的なフリーズをもたらし―次の瞬間、僕の指先から零れる火花の中で、ノイズが急速に質感を伴って凝固し始めた。重結晶化だ。チリチリと乾いた音を立てて、指先から、不揃いな青い結晶が溢れ出していく。
―10、9秒…
僕の脳を締め付けていた負荷が一気に反転し、パズルのピースが急速に噛み合っていくような奇妙な全能感が走った。不完全なコードが、接続され、埋め合わされていく。気がつけば、僕の手の中にあったノアのホログラムの手は消えていなかった。それどころか、淡い光の層の奥に、確かな、微かな“重み”が宿っている。ドクン、と自身の心臓の音が、全てをかき消すほどに酷く大きく響いた。
「…イレブン、それ」
呆然としたハンスの声で、僕は我に返った。激しく揺らいでいたノアの輪郭が、風が一吹きして収まったあとのように静まり返り、青い光が凝集していく。鉄扉の奥のノイズは、綺麗に消失していた。壁の亀裂から立ち上る細い煤煙だけが、音もなく虚空へと消えていく。
―2、1秒…
僕は、ゆっくりと自分の手を見つめた。
―0。
掌の中に残されていたのは、青い結晶体。僕の手を包むノアの両手が、仄かな光を帯びてその重結晶を照らしている。それは、僕の生成する不揃いな「不定形格子」―だが、それらが幾重にも重なり合い、組み合わされ、『正球体』の形を成していた。




