log84.疑似共同契約
その言葉の直後、劈くような激しい雑音が小型通信機を襲った。掠れた悲鳴のように乱高下するノイズの嵐だ。
『崩壊したコードの死骸―灰綿苔の残渣波形です』
僕と直接リンクしているノアの声だけが透明に響く。レイナの声が砂嵐に巻かれたように寸断された音となって耳を滑っていく。
「レイナさん、応答を―!」
呼びかける僕の声を塗りつぶすように、カチリ、と冷徹で硬質な音が耳元で弾けた。ノイズが急速に減衰し、代わりに、驚くほどクリアな声が滑り込んでくる。
『俺です。二人の通信が途絶する寸前だったので、管理庁舎の基幹回線をそちらに直結しました』
セイルだ。庁舎に残った彼が、僕たちの信号を拾い上げ、強制的に中継しているのだ。
『セイル…!ハンスは意識があるけれど、右脚が完全に瓦礫の下よ』
『イレブンさん、ハンスさんの携帯端末から特定した現在位置を送信します』
セイルの冷静な声とともに、僕の携帯端末にハンスとレイナの位置を示す青い光点がマークされる。ノアが即座にその情報を僕の網膜に直接投射した。示された位置はこの真上。僕が組み上げた格子がかろじてその構造を支えている。
『俺に構うな、さっさとそいつらを連れて脱出しろ、レイナ』
通信の向こうから、ハンスの低く、だがひどく切迫した声が響いた。背景ではミシミシと耳障りな建材の悲鳴が鳴り続けている。下手に触れば、ハンスを閉じ込めている瓦礫が一気に崩落する可能性がある。だが、ハンスの位置さえ正確に分かれば、ここから僕の重結晶化で、彼を埋めている瓦礫を固定し、逃げ道を確保することができるかもしれない。網膜に表示された赤く明滅する座標を凝視しながら、僕は必死に思考を巡らせた。しかし、そこに映るのは書き殴ったような歪なグリッドだ。ノアの走査すら、この空間のノイズに阻まれている。
「僕が助けよう」
不意に、すぐ隣から柔らかな声が響いた。
僕は驚いて顔を上げる。通信機ごしに、セイルが小さく「おじ上」と呼ぶのが聞こえた。じりじりと肌を焼く熱波が、僕たちの間の空気を歪ませている。ヴォルカイドは、その中にいながら、まるで庭園でも散歩しているかのような余裕の表情を崩していなかった。その深紫の瞳には、一切の焦りがない。彼の能力は、先ほどの生体結晶膜で見せつけられている。僕はこの「医神」の言葉に賭け金を積んだ。
「レイナさん、市民を連れて脱出してください。―ヴィルザード卿が同行しています」
僕は小型通信機の通話ボタンを押し込み告げた。一瞬の、ひび割れたような沈黙。次いで、通信の向こうでレイナが小さく息を吸う気配がした。
『…分かったわ。そっちは任せる』
それだけ言うと、レイナの側の通信が背景の雑音ごと遠ざかった。市民を誘導し始めたのだろう。僕は改めて隣のヴォルカイドに視線を移した。この状況で、どうやって瓦礫の向こうのハンスの位置を捕捉するつもりなのか。
「疑似共同契約だ」
僕の視線を受け止め、ヴォルカイドが楽しげに唇の端を上げた。
「…疑似、共同契約?」
思わず疑問が顔に浮かぶ。共同契約といえば、同一の炉心に複数の術者が契約する形態だ。ハンスは11区心臓炉の契約者ではない。何より、僕のリンクに直接ハンスのような非契約者の意識が介入すれば、神経が拒絶反応を起こす。
「ハンス君の携帯端末を通じて、君と彼がリンクを繋ぐんだよ」
僕の懸念を見透かしたように、ヴォルカイドが言葉を継いだ。
「それは…」
僕が言葉を詰まらせた瞬間、僕の視界の端でノアのホログラムが像を結んだ。
『つまり、私はハンスの携帯端末を、「自身の一部」として一時的なリンクを繋ぎます。私が仲介役となることで、マスターの拒絶反応を遮断しながら、擬似的な共同契約を構築します』
ノアが言葉を切ると同時に、頭上からミシミシ、と肉厚なコンクリートがへし折れるような音が響いた。じっとりと脂汗が肌を伝い、首筋を熱がなぞる。すぐ近くの古い建材が、耐えきれずにパチンと爆ぜた。躊躇している時間はない。
「やる」
僕は短く応じた。
「ノア、ハンスさんの端末とのリンクを開始」
『了解。論理アースの確立、ハンス・オブジェクトの展開―共同契約、疑似接続』
ノアの声と同時に、僕の脳に薄膜が一枚被せられたかのようなざらつきに皮膚が粟立った。まるで、半覚醒の意識が自身の手足の動かし方を思い出そうとしているような、あるいは、暗闇の中で一本の細い糸を手繰り寄せるような、落ち着かない感覚だ。ヴォルカイドの指先が僕の額に触れる。揺らいでいた糸が引き絞られるかのような緊張が走った。徐々に知覚の輪郭が、僕の脳内で明確な形を成し始める。意識をその細い線の先へと研ぎ澄ませていくと、視界を隔てる厚い壁や崩落した瓦礫の存在が消え失せ、まるで“自分がそこにいる”かのように、ハンスの正確な位置が頭の中に立体的に浮かび上がってきた。リンクを通じて、彼の浅く、苦しげに喘ぐ呼吸の振動までもが、僕の胸腔に直接伝わってくる。
「ノア」
僕の短い呼びかけにノアが即座に反応する。僕の網膜に青い火花が走り、ハンスを圧迫している瓦礫の構造をグリッドが正確に描き出す。
『座標は、現在位置より直上二・五メートル。マスターの右斜め前方の構造支持材が主荷重です』
僕の指先から激しい青い火花が散り、空中にコードが綴られていく。疑似共同契約のリンクを通じて、瓦礫の向こうのハンスの脚を押し潰している巨大なコンクリート塊の直下に、直接滑り込ませるようにして重結晶化を発動した。不揃いな重結晶のブロック群が空間の隙間にぴたりと噛み合い、瓦礫の質量を押し上げていく。リンクを通じて、身体を締め付けていた圧迫感が一秒ごとに除かれていくのを感じる。ハンスの呼吸が一瞬だけ驚きに跳ねる。
「…抜けた」
完全に彼の足が瓦礫の噛み合わせから引き抜かれた瞬間、ノアが疑似接続を切断した。携帯端末は心臓炉のリンクを繋ぐようには設計されていない。逆流した負荷を受け、目の前が激しく明滅する。割れるような痛みが頭蓋を殴り、膝が折れそうになる。
「練習次第で、僕がいなくてもできるようになるよ」
再び、ヴォルカイドの指先が僕の額に触れた。彼の指先から、夜紫の柔らかな光が染み込んでいく。脳を締め付けていた痛みが、引き潮のように急速に収まっていった。歪んでいた視界のピントが機械的に補正されたかのように鮮明な形を取り戻す。
「ハンスさん、大丈夫ですか?」
僕は額を抑えたまま、すぐに小型通信機に向かって叫んだ。一瞬の呼吸の音の後、通信機の向こうから、いつもの、ぶっきらぼうで少し掠れた声が返ってきた。
『ああ…脚は動く。助かった、イレブン』
その声を聞いた瞬間、全身の緊張が抜け、安堵が胸に広がった。通信の向こうで衣服を払うような音が鳴る。
『この下だな?―今からそっちへ合流する』
「え、無茶しないでください、ハンスさ―」
僕が言いかける間もなく、ブツリ、と音を立てて、ハンスの側の通信が一方的に切断された。
『…ノイズが酷くなってます。急いだほうがいい』
セイルの声が小型通信機から響く。ノイズの増加。灰綿苔が勢いを増す炎に飲まれていっているのだろう。遮断膜ごしにも、熱だけではないひりつきを皮膚に感じた。破壊されたコードの残骸が、空間を食い尽くそうとしている。
地下へと続く階段は、すでに熱気で歪んでいた。コンクリートの壁面が内部の水分を沸騰させ、パキパキと微細な亀裂を走らせている。崩落した天井の隙間から、断続的に火の粉が雪のように降り注ぎ、踏みしめる靴の底で焦げた臭いとともに摩擦音を立てた。建物の骨組みが自重と熱に耐えかね、低く重い軋み声を上げている。
『マスター、前方の熱量飽和、想定値を一五%超過。目的の区画まで残り一二メートルです』
ノアの声が脳内に直接響くと同時に、前方から爆鳴が上がった。木製のドア枠が原型を留めずに吹き飛び、通路の奥から濁流のような炎が噴き出す。僕は味方から青い火花を散らし、体を覆う薄膜の光を凝縮させた。押し寄せる熱風が膜の表面で激しく弾け、油のようなぎらつきを生む。その中を、ヴォルカイドは衣服の一片すら焦がすことなく、眉の一筋すらも動かさない。
部屋へ踏み入ると、そこは乾燥炉を備えた広い作業場だった。作業台に張り付いた灰綿苔が、火を吸ってパチパチと音を立てて身悶えし、灰色の煤となって空間を満たしている。中心に鎮座する巨大な乾燥炉は、瀝星廃液が異常燃焼を起こしたのか、鉄の装甲を赤色に膨張させていた。ヴォルカイドの指先が虚空をなぞる。彼の爪先から夜紫の火花が散り、空間そのものが凍りつくようなきらめく光が炉を包み込んだ。瞬時にして、荒れ狂う炎ごと乾燥炉全体が、巨大な結晶の塊の中に閉じ込められる。
「助けに来た! 誰か、そこにいるなら返事をしてくれ!」
僕は煤煙に向けて声を張り上げた。
背後の空間が爆ぜるような破裂音を立てた。僕のすぐ脇の空間に、急速に沈殿するようにして一人の影が出現した。衣服の裾と乱れた髪の先から、情報の摩擦熱による青白い火花が霧のように霧散していく。
「ハンスさん…!」
「…ちっ、無駄に跳ぶのは骨が折れる」
論理的跳躍による反動か、ハンスは顔を歪め、右脚を引きずり、左脚を荒々しく床に踏み下ろした。その呼吸は浅く、皮膚には粒子の粗い煤がこびりついている。
『マスター、前方奥、五メートル。厚さ一五センチの鉄扉の向こうに微弱な生体反応を感知。対象と断定します』
ノアの投射したグリッドが、結晶化した炉のさらに奥、壁に埋め込まれたような鉄扉を赤く縁取った。
「あそこだ。急ごう―」
僕が一歩を踏み出した瞬間、頭上から轟音が鳴り響いた。巨大なコンクリートの梁が、自重に耐えかねて中央から完全に破断し、凄まじい質量となって鉄扉の手前に崩れ落ちた。床が激しく震動し、砕けた火の粉と粉塵が視界を完全に遮断する。それだけではなかった。崩落の衝撃で、空中に漂っていた灰綿苔の残滓が一斉に弾け、辺りを悲鳴のようなノイズで満たした。
『警告、灰綿苔の残渣波形が臨界を突破。周辺が急激に汚染されています。遮断膜の維持限界まで残り60秒』
鼓膜を引っ掻き回すようなノイズが荒れ狂う。近づくだけで肉体を守る術式が剥ぎ取られる、灰色の障壁がそこに立ち塞がっていた。




