log83.熱源座標D-42
即座にノアの指先から青い火花が走る。ホログラム・ウィンドウに11区の地下構造図が、僕たちの目の前に展開された。その一角、マークされていた座標「D-42」が、警告を示す赤色のドットによって不規則に明滅している。
『ポイントD-42の熱源反応、急速に上昇中。配管群の遮熱壁が熱量に耐えきれず、損耗を開始しています。規模は通常の局所火災の四倍を推移』
D-42。昨夜、ノアが弾き出した夜綿苔の群生地候補の、まさに中心部だった。僕の指先が、無意識のうちにコンソールの縁を強く圧迫する。
「すぐ応援に向かいます」
僕は通信機の受話器を顎で挟み、極小の指向性マイクへ向けて低く告げた。金属の擦れ合うノイズの向こうで、ハンスの短い返事の後、通信が切れる。僕は即座に身を翻した。
「セイル君、ここは任せる」
セイルは表情を変えず、ただ短く応じてコンソールの前に一歩進み出た。その隣で、レイナがすでに踵を返している。
「僕も手伝おうか?」
背後から、場にそぐわない柔らかな声が鼓膜を揺らした。振り返ると、ヴォルカイドが上着の焦げた襟元を長い指先で軽く撫でながら、笑みを浮かべてこちらを見ている。一瞬、思考の歯車が噛み合わずに停止しかけた。昨夜の地下での遭遇、そして先ほどのノアとの摩擦が返答を遅らせる。だが、僕の視線は彼の組まれた指先―精神および肉体を修復する、最高峰の医療系術式の使い手の手に留まった。11区の劣悪な耐火設備。現場には、負傷者がいるとみて間違いない。
「…ありがとうございます。お願いします」
僕の答えにノアの輪郭がチリリと揺らぐ。彼女の右手の爪から青い火花が小さく散った。
僕は乱暴にブレーキを踏んで官用車を停止させた。タイヤが乾いた泥を跳ね上げる。叩くようにコントロールパネルを操作し、自動遮断膜を起動する。見上げれば、もうもうと上がる煙が空を濃灰色に染めていた。ここからでは、炎自体は確認できない。
狭い路地を抜けて現場に辿り着くと、負傷者がシートや剥がした戸板の上に寝かされうめき声を上げていた。その間を縫って、救急箱を持ったニコが応急処置を施していく。
「ハンスさんは?」
「建物の中に」
僕が尋ねると、ニコが額の汗を拭いながら答えた。レイナが遮断膜を展開し、すぐに建物に向けて駆けていく。彼女とすれ違うようにヴォルカイドが歩み寄り、ニコの手元を覗き込んだ。ニコは携帯用の冷却ジェルボトルを片手に持ったまま、浅い呼吸を繰り返す男の前に跪いている。
「ずいぶん深い傷だ」
ニコはびくりと肩を跳ね上げてヴォルカイドを見上げた。
「あ…はい。逃げる時に、瓦礫で切ってしまったみたいで…」
ニコがボトルのノズルを握る指先に力を込めながら、かすれた声で応じる。男の破れた衣服の隙間からは、黒く濁った血液が絶え間なく溢れ、乾いた床の煤をじわじわと汚していた。その言葉が終わるか終わらないかのうちに、ヴォルカイドが躊躇なくその場に腰を落とした。彼の長い指先が滑らかに動き、その右手の爪先から、鈴なりのような澄んだ音とともに夜紫の火花が散る。次の瞬間、彼の指先が空間をなぞると、薄紫を帯びた、極薄のガラスのように透明な膜が虚空に編み上げられた。
(―生体結晶膜)
僕は彼に関する情報を思い出した。ヴォルカイドが編み上げた、彼独自の重結晶化。ヴォルカイドはそれを、男の引き裂かれた肉が露出する患部へと撫でるように被せた。
「っ―」
男の身体が一瞬だけ硬直する。だが、その紫の膜が患部に吸着した瞬間、仄かな光が患部に流れる。それと同時に、男の苦痛の表情は空気に溶けたかのように消えていった。
『傷の「痛覚ノイズ」を遮断し、同時に肉体の「正常な定義」を維持。結晶膜の霊子エネルギーを絶え間なく患部へ注ぎ込み、細胞のエラーを校閲・修復しています』
いつになく平坦なノアの声が脳内に響く。衣服の汚れも厭わず、躊躇なく泥に塗れた患者を救うその手際。彼の二つ名である「夜紫の医神」そのものの姿だった。
「離して、離してくださいッ!」
不意に、引き裂かれたような女の叫び声が鼓膜を刺した。駆けつけた視線の先、数人の避難住民に両腕を必死に押さえられながら、一人の女が狂乱した様子で口を開閉させていた。彼女は、煙を噴き上げる建物の入り口を指差し、喉をかきむしるような絶叫を繰り返している。
「まだ中に…まだ中にあの子がいるの! 子供が残されているんです!」
「あ…!」
背後のニコが、その母親の顔を見て息を飲んだ。彼女も、ニコに気づいたように視線を巡らせ、すがるようにニコを見つめる。
「警備兵さん…! お願い、お願いします、あの子を、あの子を助けて…!」
「どこに?」
ニコが尋ねると、母親は涙を浮かべて建物を指さした。
「地下です…! 下の階の、奥の部屋に…!」
「分かりました。…ニコ、ここは任せる」
僕は頷くと、遮断膜を展開した。間髪を入れず網膜に青いガイドラインが走り、建物の構造が鮮明に描画される。
『マスター、最短ルートを構築し、ナビゲートします』
僕は既に熱波を放ち始めている建物の開口部へと向かって地を蹴った。遮断膜がチリチリと鳴り、肌を焼く熱気を弾き飛ばす。バチバチと爆ぜる火の粉を押し除け、煙の渦巻く内部へと一歩踏み入る。カタン、という乾いた物音に振り返れば、ヴォルカイドが炎と遊んでいるような足取りで瓦礫を踏み越えたところだった。塗装が剥がれ落ちていく壁面を避けるように、乱れのない足取りで僕に近づく。ヴォルカイドは、変わらず人好きのする笑みを浮かべている。視界の端で、剥がれた塗料が熱で膨らみ、弾けた。
パチ、パチ、と乾燥した木材と劣悪な建材が爆ぜる不快な音が、もうもうたる煙の奥から響いてくる。僕たちは崩落しかけた梁や、熱で歪んだ鉄の瓦礫を一歩一歩踏み越えながら、さらに建物の奥へと足を踏み入れていった。肺腑を突くような熱気が、遮断膜の境界を激しく叩いている。
『マスター、前方三メートル、熱量による構造支持限界を感知。上層床板の崩壊が始まります』
網膜の裏で点滅するノアの冷徹な赤色のアラートと、視界に直接投射される青いガイドライン。それに従い進もうとした瞬間、頭上の鉄骨がガガ、と嫌な軋み声をあげて傾き、僕たちの行く手を阻むように斜めに崩れ落ちてきた。
―これ以上崩れれば地下への階段が完全に埋まる。
僕は右手から青い火花を散らせた。空中に術式が綴られ、熱波の中に不揃いな結晶の格子を編み上げていく。空間に重結晶化されたのは、L字やT字が継ぎ接ぎになった不格好な不定形格子のブロック群だ。しかしそれらは、崩落しかけていた建物の隙間へと吸い込まれるように綺麗に噛み合い、強固な突っ張り棒となって頭上の質量を強引に支え切った。
「面白い形状だね」
背後から、感心したようなヴォルカイドの声が聞こえた。黒領や黒都の洗練された幾何学形状からはほど遠い、歪な重結晶。
「…ええ」
僕はそれだけ短く返すと、結晶の隙間をすり抜けてさらに階段の奥へと進んだ。衣服の隙間からじわりと脂汗が滲み、熱が首筋をじりじりと焼くのを感じる。だが、僕のすぐ後ろを歩くヴォルカイドに視線をやれば、彼はこの異常な熱気の中にいながら、息一つ乱さず、汗一つかいていなかった。
『推定。彼は導体化深度4.5に達しています。―アルゼノン・カウスと同等です』
脳内に直接響くノアの声。それは、ヴォルカイドにとって呼吸や睡眠すら必要最低限の“冷却作業”に置き換わっていることを意味していた。得体の知れない緊張感が背筋を駆け上がっていく。
「イレブン君。―“彼女”のご機嫌はどうだい?」
暗い地下への階段を下りながら、ヴォルカイドが何気ない調子で尋ねる。
「…普通です」
僕はそれだけ答えて歩調を早めた。更に一段暗闇へと靴裏を踏み下ろした時、耳元の小型通信機から、細かなノイズを強引に引き裂くような音声が飛び込んできた。
『イレブン。どこ?』
それは、いつも冷静な彼女にしては、明らかに焦燥を含んだ、レイナの鋭い声だった。
「レイナさん。どうしました?」
歩みを止めずに応答する僕に、続く言葉が突き刺さった。
『ハンスが負傷したの。―崩落に巻き込まれた』




