log82.紫光の走査
頼りない煤星灯の橙の灯の中、ヴォルカイドの紫の瞳だけが、愉しげに細められていた。 僕は息を詰めたまま、携帯端末を握る右手をゆっくりと下ろした。指先が、浸み出した地下の湿気でぬるりと滑る。網膜の裏では、ノアの走査回路が警告の赤色を明滅させていたが、それを注視する余裕すら僕にはなかった。じっとりと湿った空気が、肺の奥を重く圧迫する。頭上を走る配管は、今なおガチガチと小刻みな振動音を立てて狭い通路の壁に反響し、鼓膜を不規則に震わせ続けている。
ヴォルカイドは、その騒音を全く気にする様子もなく、ゆっくりと僕との距離を詰めてきた。革の靴がてらりと光る。豪奢な上着の裾がゆるやかに揺れた。
「君の目的は?」
彼の整った口元が、穏やかな笑みを保ったまま開かれた。その声には一切の棘がなく、まるで書斎で知人に世間話を振るかのような、不自然なほどの平穏が満ちていた。口の中がカラカラに干上がっている。僕は一度、喉の底に溜まった重い唾を飲み込んだ。
「…灰綿苔のルート」
絞り出した僕の声は、配管の振動音に掻き消されそうなほどに掠れていた。ヴォルカイドの指には、紫の石の指輪がいくつも輝いている。そのきらめきに網膜を刺されながら、僕は必死に目線を前に固定していた。
「なるほど」
ヴォルカイドは短く頷く。その表情からは、彼の思考の端緒すら掴めない。彼はそれ以上僕を追及することなく、おもむろに踵を返した。
背中を向けたまま、長い指先がひらりと宙を舞う。
「君たちとはまた明日話そう」
その言葉だけを残し、彼の足音は暗い通路の向こうへと、驚くほどあっけなく遠ざかり、やがて完全に消え去った。
「…はぁ」
張り詰めていた肺の空気を、僕は大きく吐き出した。膝の力が抜けかけ、思わず背後の錆びた配管に手を突いて体を支える。まだ紫の光が目に焼きついているようで、僕はゴシゴシと目をこすった。
『…マスター』
脳内に響いたノアの声は、いつもより硬い。
『彼は“君たち”と発言しました』
その指摘に、僕の思考がぴきりと凍りつく。ノアはホログラムの姿を現してはいない。ハンスたちとも、今は通信を繋いでいない。
『彼は私の存在を知覚していた可能性があります』
頭上の配管から、ぽたり、と冷たい水滴が落ち、僕のつま先の床をじわりと濡らした。
翌日、ヴォルカイドが11区管理庁舎を訪れた。0区仕様の官用車から降り立ったのは、前夜の退廃的なカジノの熱気とは完全に切り離された、端正な佇まいのヴォルカイドだ。出迎えた僕たちに対し、にこにこと愛想よく笑ってみせる。その瞳には、昨夜の底光りするような威圧は微塵もない。
「やあ、元気にしていたかい?」
ヴォルカイドはまず、僕たちの少し後ろに控えていたセイルへと歩み寄り、肉親らしい親しさで尋ねた。
「はい」
セイルは短く答えて一礼した。ヴォルカイドはセイルのその様子に目を細める。
「レイナ、相変わらず美しい」
次いでヴォルカイドはレイナに向き直り、大げさに両目を見開いてみせた。レイナは表情を崩すことなく、ただ事務的に、軽く頭を下げてそれを受け流す。最後に、ヴォルカイドは僕へと視線を移した。ホログラム・バイザーのない彼の紫の瞳が、僕の網膜をまっすぐに射抜く。彼はにこやかに微笑んだ。
「急な訪問で悪かったね」
「いえ…」
僕は視線を僅かに落とし、あいまいに言葉を返した。昨夜の記憶が皮膚の裏でじりじりと蘇り、ともすれば喉が硬直しそうになる。僕は努めて平坦な声を意識しながら、彼を案内するために身を翻した。
「炉心室へ」
心臓が肋骨の裏を強く叩き、内心は激しい緊張に支配されていた。11区の管理庁舎には、上層の貴族を招くような上等な応接室など存在しない。この煤煙と鉄錆の建物の中で、最も気密性が高く、まだしも“マシ”な作りをしているのは、心臓炉の拍動が響く炉心室だけだった。
油を差した鉄扉を押し開け、僕はヴォルカイドを炉心室へと招き入れた。
「どうぞ」
僕は室内に据え置かれた、金属部の摩耗が比較的少ない椅子を引き、彼に勧めた。ヴォルカイドは上着の裾を滑らかな動作で捌き、躊躇うことなくその椅子へと腰掛ける。背筋を伸ばし、にこやかな笑みを絶やさないヴォルカイドが、長い指先を膝の上で組んだ。
「“もう1人”にも挨拶させてくれるかな?」
ヴォルカイドは対面に腰掛けた僕の目を真っ向から見据えて言った。その言葉が空間に落ちた瞬間、炉心室の空気が糸を絞ったかのように固まった。
「おじ上…」
不穏な気配を察し、ヴォルカイドの隣に座るセイルが口を開きかけたが、ヴォルカイドはただ微笑みを深め、紫石がきらめく指先を僅かに上げてそれを制した。彼の手元から、極小の紫の火花が爆ぜる。
「波形が重なっている」
ヴォルカイドは、断定的な口調でそう言い放った。僕の隣のレイナの肩がかすかに強張った。
(超感覚―)
僕は奥歯を噛み締めた。それは、かつてこの大陸を支配したノクス王族特有の直感力だ。隠蔽された霊子の揺らぎすら、彼の知覚は捉えている。口を開こうとするレイナを僕は視線で制した。下手に隠さないほうがいい。何より、僕たちはカウスと“取引中”だ。カウスはノアに執着している。いざとなれば彼の名前を盾にできる。
「…ノア」
僕が小さく呼ぶと、空間がゆらりと歪み、青白い光線が編み合わされてホログラムのノアが像を結んだ。ノアは出現すると同時に、その琥珀と青の瞳でヴォルカイドを冷徹に見据えた。一瞬の沈黙が室内に張り詰めた。
「美しい」
ヴォルカイドの唇から漏れたのは、その場にいる誰もが予想していなかった感嘆の言葉だった。
「え…」
予想外の反応に、僕は思考が追いつかず、その場で硬直した。しかしヴォルカイドは、僕の困惑など一切意に介さない様子で、なおもその紫の瞳を輝かせ、ノアを褒め称え続けた。
「超越の青と甘い琥珀の瞳がなんとも素晴らしい。これほどの色彩の妙は、上層でも滅多に見られるものではないよ」
彼が流れるように右手を差し出すと、その長い指先から、弾けるような夜紫の火花がノアに向かって一筋走った。バチリ、と硬質な音が響き、ノアの手元で、その紫の火花が急速に収束していく。次の瞬間、ノアの半透明の手のひらの上で、光がたわみ、露を含んだ紫の花が、ホログラムの像として鮮やかに開いた。
ノアはその花をじっと見つめ、自身の走査回路を無音で起動させた。僕の網膜の裏に、ノアの解析結果が次々と表示される。
(ホログラムへの介入―)
ノアは表情を一切変えることなく、自身に直接干渉してきたその未知の術式を、淡々と分析している。
「失礼」
ヴォルカイドが立ち上がる。彼はサイドボードの横を通り、僕のすぐ前まで歩を進めた。ノアが遮るように、僕の肩を乗り越えてヴォルカイドの前に移動する。彼はそれを意に介した様子もなく、おもむろに僕の額に右手を当てた。チリ、と紫の火花が散る。
「…っ!?」
思いもよらない行動に僕はたじろいだ。痛みはない。それどころか、脳がぬるま湯に浸かったような奇妙な浮遊感すらあった。頭蓋の内側を指先でくすぐられるような感覚。ヴォルカイドが医療系術師の最高峰であり、精神・感覚操作術式の第一人者であるという事実が、今更ながら追いかけてきた。振りほどこうと腕を上げる前に、バチリ、と爆ぜるような音がし、彼は僕の額から指先を離した。
僕が顔を上げると、ヴォルカイドの上着の襟に焦げたような穴が空いていた。視線をノアに移せば、彼女の指先から激しい青い火花が迸っている。僕の右手の薄青い爪がジリ、と熱を持つ。
『それ以上マスターに触れることは許しません』
険に満ちたノアの声に、レイナが腰を浮かせた。セイルもわずかに目を見開いて、ノアの指先を見つめている。ただ、ヴォルカイド一人がその笑みを崩さぬまま、ノアの警告を受け止めている。
「…ゼノに聞いたときは信じられなかったけど」
ヴォルカイドは焦げた上着の襟を軽く指先で引っ張った。彼は僕に笑みを向けた。
「こんなに可憐な廃霊は、この僕も初めて見たよ」
ヴォルカイドの言葉に、彼以外の全員が動きを止めた。彼は何を言っているのか。
(ノアが…廃霊…?)
「“普通”のホログラムは物理干渉できない」
ヴォルカイドは当たり前の事実を確認するように軽い口ぶりで言った。ホログラムは物理干渉できない。それは当然だ。だが、ノアはできる。
(それは…ノアが心臓炉OSだからで…)
僕の心を読んだかのようにヴォルカイドが笑む。僕は自身の右手を見つめた。虚白教団との戦いの時に重ねられたノアの青白い手。火花を散らす彼女の青い爪先。ノアが僕の肩に“触れる”。風が撫でるようなかすかな感覚。
「エネルギー体と言い換えてもいい」
ヴォルカイドが言う。彼は讃えるようにノアを見つめたまま、二輪目の花をノアに贈った。
「本来、廃霊は無秩序なエネルギーだ。けど、彼女のように自律と秩序を備えた存在を廃霊と呼ぶのはふさわしくないかもしれないね」
『言いたいことはそれだけですか』
ノアの声は冷たい。彼女はヴォルカイドから贈られた紫の花をノイズの中に潰えさせた。
『私が廃霊であろうとなかろうと―マスターへの加害は許しません』
彼女の指先から迸る青い火花が、ジジ、と鋭い摩擦音を立てて空気を焦がす。ヴォルカイドはその剥き出しの火花を真っ向から受け止めながら、むしろ花でも愛でるかのように鼻歌を歌った。
「可憐なだけでなく、これほど凛々しくもあるとはね」
彼は満足げに微笑み、するりと僕の脇をすり抜けた。
「イレブン君、君は僕に話したいことがあるんじゃないのかい?」
「…」
僕は小さく息を吸い、一度頭を振ってから立ち上がった。視界の端で、ノアのホログラムが静かに僕の背後に寄り添う。
(ノアが何であろうと、関係ない)
胸の奥でそう自分に言い聞かせ、肺の震えを抑え込む。僕はコンソールの横に据え付けられた鉄製の作業台へと歩み寄り、その上に置いてあった透明な密閉袋を手に取った。中には、ハンスが地下の施療所から持ち帰った、灰綿苔が収められている。
「11区でこれの蔓延が問題になっています」
僕は袋から、カサカサと乾いた音を立てる灰色の硬質な苔を取り出し、ヴォルカイドの前の卓上へと差し出した。ヴォルカイドはにこやかな笑みを崩さぬまま、その長い指先で、躊躇うことなく灰色の繊維をつまみ上げた。
「エラー品だね」
その紫の瞳が、繊維の奥で崩壊している術式コードを一瞬で見抜いたかのように、冷たく光る。ヴォルカイドがそれを作業台に戻すのと、コンソール脇の通信機が鳴り響いたのはほぼ同時だった。僕は微かに眉をひそめ、通信機を引っこ抜くようにして取り上げ、耳元へ当てた。
『火災だ―ポイントD-42』
スピーカーの奥から、細かなノイズを切り裂いて、ハンスの低い声が、切迫した響きを伴って鼓膜を叩いた。




