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log81.非相似の紫

告げられた名前に息を呑む。目の前のテーブルでまた歓声が起こる。僕は踵を返すと、ハンスとレイナに近づいた。ハンスに耳打ちをする仕草で小型通信機インカムの周波数を合わせ、ハンスとレイナの両方に僕の声が届くようにする。その名を告げられたハンスは、小さく顎を引いた。


「喉が渇いたな」


ハンスはそう言うとレイナの腕をとって、ラウンジへと歩を進めた。二人に従いながら、僕はノアと同期した視線を素早く周囲に走らせる。紫の火花が零れるテーブルを通り過ぎる時、ホログラム・バイザー下の瞳が、ちらりと僕に向けられた気がした。


ラウンジの空気は、熱を孕んだ重い香水の臭気に満ちていた。天井の細いスリットから降り注ぐ瀝星光の青が、グラスの底の液体を冴えさせ、客たちのホログラム・バイザーのノイズを明滅させている。笑い声とグラスの擦れ合う硬質な音が、厚い絨毯に吸い込まれては鈍く反響していた。


「冷たいものを」


ハンスの低い声が告げる。僕は小さく頭を下げると、円形のテーブルと重厚なソファが並ぶ空間を離れ、バーカウンターへと向かった。トレイを受け取ると、その上には発泡する銀の液体が満ちた二つのグラスが乗せられる。僕はそのトレイを片手で支えたまま、ラウンジの壁際を歩いた。視線は落としながらも、網膜の裏ではノアの走査回路が作動している。視神経をかすめる薄青いグリッドが、内装の奥にあるコンクリートの厚み、その背後を通る高圧配管の直線を一本ずつ浮き彫りにしていった。


『―マスター、構造の歪みを感知。前方、十二メートル』


脳内に直接響くノアの声が、視界の右隅を鋭く点滅させた。


『壁面の防音材の厚みが、その一点だけ三分の一に減少しています。物理的な隙間、あるいは点検用の空間が存在する可能性が高い。ただし、侵入経路は客用エリアではなく、従業員専用スペースの最奥です』


僕は歩調を変えず、グラスの液体が揺れないようトレイを水平に保ったまま、ハンスとレイナの待つボックス席へと戻った。トレイから結露したガラスの器を滑らせ、卓上へと静かに置く。ハンスの前に置かれた銀の液体が、天井の青い光を反射して冷たくきらめいた。


「ハンスさん、レイナさん」


グラスを置く動作のわずかな合間、僕は口元を動かさずに、小型通信機インカムの指向性マイクへ向けて極小の声で告げた。


「ノアが隙間を見つけました。この壁の裏、従業員用スペースの奥です」


ハンスはグラスを傾け、喉の皮膚を微かに震わせる。


「照明を落とせ」


ハンスの隣のレイナが、バイザーの下の唇を小さく動かす。


「私が気を引くわ。派手にやって」


僕は頷き、空になったトレイを脇に抱えて二人から離れた。数歩進み、壁面に設置された消火用配管の影に立つ。着飾った客たちは、僕に視線を向けることもなく前を通り過ぎていく。


(ノア、共鳴シンクロ開始。11区の配管網からパルスを逆流させる)

『了解』


ノアの返事とともに、一瞬足裏の感覚が消え、裏返るように知覚が暗黒の配管網へとダイブする。消火用配管の滑らかな手触りを右手に感じながら、僕はノアがマークした二つのラインを追った。


『目標、制御回線「a24-112」、「a24-113』


心臓炉からのパルスをその二つのラインに衝突させる。バチリ、と瞼の裏に青い火花が散った。脳髄を冷たい針が刺すような感覚が走り、奥歯ががちりと鳴る。視界が激しくぶれ、次の瞬間、ラウンジを満たしていた瀝星光の青い光線が一斉に掻き消えた。


空間が完全な漆黒に沈む。


次いで、耳を劈くような金属の擦れ合う音と、レイナの鋭い悲鳴がラウンジの闇を切り裂いた。グラスが床に落ちて砕ける硬質な音が響き、客たちが一斉にざわめき立つ。

「おい、なんだ」「照明を!」

怒号と混乱の波がラウンジに満ちる。


その隙に、僕はノアの視覚同期を全開にした。網膜の裏のグリッドが、光を失った闇の中に、机の角や椅子の背、人々の肉体の起伏を薄青い線図で鮮明に描き出す。僕は音を立てずに絨毯を蹴り、混乱する客たちの背後をすり抜けた。従業員専用と書かれた防塵クロスの二重扉を押し開き、その内側へと滑り込む。


扉が閉まると、表の騒音は厚い遮音材に遮られて一気に遠のいた。通路は狭く、壁面からはむき出しの排気管が熱を帯びた空気を絶え間なく吐き出している。足元の鉄板が、低い振動で靴底を細かく震わせていた。


『直進、突き当たりを右へ。その壁面に隠し機構が存在します』


ノアのガイドに従い、僕は煤けた防護服が掛けられたハンガーの横をすり抜け、通路の最奥へと達した。右側の壁は一見するとただの変色した鉄板だったが、指先で触れると、わずかな空気の対流が爪の隙間に吸い付くような湿り気を与えた。


「解除できるか?」

『コントロールパネルの受光部が、右側三センチの継ぎ目に埋め込まれています。マスター、右手をその位置に』


言われるままに、冷えた鉄板の隙間へと右の手のひらを押し当てる。僕の指先からパチパチと青い火花が爆ぜ、内部の術式錠が強引に書き換えられ、ガチリ、と重い駆動ギアが噛み合う音がした。鉄板の一部が数センチほど内側へと引き込まれ、滑らかな摩擦音を立てて横へとスライドしていく。


開いた隙間から、それまでの乾燥した空調の風とは明らかに異なる、じっとりと湿った空気が吹き付けてきた。古い錆の匂いと、何かが変質したような饐えた臭気が、衣服の繊維へと絡みついてくる。僕は横幅の狭いその隙間へと、滑り込ませるようにして体を差し入れた。


『―警告。周囲の霊揮率レドが急速に上昇中。マスター、直ちに遮断膜を』


ノアの硬質な警告。僕は息を止め、指先から青い火花を散らした。遮断膜が展開され、透明な膜が波紋となって体全体を包みこむ。さらに奥へと進むと、衣服をすり抜ける霧が、皮膚の表面にまとわりついた。徐々に空気が粘度を増し、肺を圧迫する。頭上を走る三本の大口径配管がガチガチと小刻みに震え、その硬質な振動音が狭い通路の壁に反響して鼓膜を打つ。


『マスター。霊揮率レドがさらに上昇。遮断膜の消耗速度が通常の1.5倍に達しています』


脳内に直接響くノアの警告。僕は右手を壁の錆に触れさせながら、直角の角を曲がった。


視界が開けた。頭上を行き交う無数の細い鉄管から、水滴がぽたりと絶え間なく滴り、足元を濃く湿らせていた。空間の中央に、水槽のようなものが据えられている。床上の携帯煤星灯が暗闇に仄かな光を落とす。


「これは…」


僕はその“水槽”の中を覗き込む。それは、周囲の配管から強引に引かれた細管の終端が突っ込まれた沈殿槽だった。配管の口から滴る水滴からすると、廃水の循環経路をバイパスしたものらしい。溶接痕の荒い鉄製の内部には、半ば凝固した暗紫色の澱が溜まり、表面が不規則に泡立っている。そのすぐ横には、肉厚な鋳鉄製の乾燥炉が据え付けられていた。煤で汚れた円形の覗き窓に顔を近づける。その向こう、赤熱する熱線の内部で、びっしりと壁面を覆う灰色の繊維が乾燥し、カサカサと音を立てて収縮していた。灰綿苔アッシュカバーだ。炉の底部にあるバーナーの給油口には、高純度の瀝星燃料が入っていると思しき、へこんだ金属缶が直結され、熱で塗装が焦げ茶色に変色している。


『マスター。記録を』


ノアの冷徹な声が脳を叩き、僕は我に返った。腰のホルダーから、携帯端末を引き抜く。指先が湿気で滑った。端末のレンズを覗き窓の灰綿苔、そして足元の金属缶へと向け、画面をタップする。パチリ、と硬質な音が狭い空間に落ちた。


不意に、カン、と乾いた音が響いた。硬い靴底が、鉄板の段差を強く踏みつけた音だった。携帯端末を持つ手がびくりと固まる。


「―面白いものは見つかったかい?」


振り返ると、セイルと相似の紫の瞳が、非相似の曲線で笑っていた。


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