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log80.夜紫の残光

ニコは配給服を着た人々の手元に視線をやった。よく見れば、その手元にあるのは、天井から垂れ下がっているものと同じ紫の燐光を放つ黒い苔だ。それが両手の中でもみつぶされると、繊維がほどけた黒い端切れのようになる。それを横たわる患者の手足に押し当てているのだった。


夜綿苔ナイトモス

ハンスが垂れ下がる苔を顎で指した。屑煙草フィルター・バグの灰白色の煙が紫の燐光と混ざり合う。夜綿苔ナイトモスは屑煙草の煙を吸って、一瞬紫の燐光を、ぼっ、と明滅させた。 


「…もとはノクスに生えてるただの苔だったらしい。ヴィルザード卿が独自のコードをその遺伝子に組み込んだ。周囲の廃霊バグを吸って自己増殖する」


ハンスが壁際に座り込む患者の一人に近づく。ぐったりと手足を投げ出しながらも、その顔はかすかな笑みを浮かべ、赤ん坊のように安らかな眠りにこもっている。手足は、元の皮膚が分からなくなるほどに、かさぶたのような苔に覆われていた。


「こいつは、痛みやノイズを『静寂』に書き換える…だが」

ハンスがかがみ込み、その腕を持ち上げた。苔の周りの皮膚が、にじむように肌色を変色させ、その皮膚組織を白く硬化させている。ニコが息を飲んだ。


「…これ」

「よく見ろ」

ハンスはその苔を指差す。よく見れば、その苔は紫の燐光を持たず、灰色の繊維から白っぽい塵を零れさせている。ハンスは舌打ちをした。


「エラー品が出回ってる。精製の手間を省くとこうなる。こいつは恐ろしい速度で組織を硬化させる」

「…取り締まれないんですか?」

「やってはいる。だが、たちの悪いことに効果は夜綿苔とほぼ変わらない。それどころか、即効性で勝る上中毒性がある」


ドサリ、という鈍い音とともに背後で悲鳴が響いた。ハンスが振り返ると、地上に続く階段から転がり落ちた男が床でうずくまっている。その手足はボロ切れのような灰色の苔ですっかり覆われていた。ハンスが歩み寄ると、床を引っ掻いていた男の指先が水分を失った粘土細工のようにボロボロと崩れていく。


「…灰化病です」

ハンスの後ろから男に駆け寄った一人の女が、沈んだ声で告げる。彼女は男の近くに膝をつくと、濡れた布巾で男の手足を拭い始めた。灰色の“かさぶた”がはがれ落ち、やつれきった肌が露わになる。だが、その皮膚は既にところどころまだらに硬化し、肉との境目を引き攣れさせていた。


「やめてくれ」

男が切れ切れに声を紡ぐ。手足を拭く女を押しのけるように弱々しくもがき、何かをつかもうとするかのように手を伸ばす。騒ぎに気づいたほかの数名も男に駆け寄り、その体を毛布でつつみ始めた。ハンスが、男の皮膚からはがれ落ちた灰色の苔をつまみ上げる。


灰綿苔アッシュカバー、か」

「…最近、急速に増えています」

女が顔を伏せたまま答える。夜綿苔ナイトモスのエラー品である灰綿苔アッシュカバーの蔓延は、11区をじわじわと蝕みつつあった。


「出処は分かるか?」

ハンスの言葉に女が首を振る。まともな医療にアクセスできない11区の市民は、苦痛から逃れようと毒にすら縋る。ハンスは黙ってその一片の苔を密閉袋にしまった。


「ここ以外に夜綿苔の群生地は?」

「…確認できてはいませんが。たぶん、あると思います。育てるだけなら難しくないんです。精製には手間がかかりますが」

「…そうか」


ハンスは配給服を着た一人に針札を差し出した。相手が頷き、手元の容器から数片の夜綿苔を差し出す。ハンスはそれを密閉袋に収め、ポケットにしまい込むと踵を返した。ニコが後を追いかける。足元で濡れた石床が鳴る。背後では、掠れた声で譫言を漏らす男の声が、きれぎれに響いていた。





僕は通信機を置いて息をついた。ヴォルカイドからの連絡があったのだ。明日、11区管理庁舎を訪問する予定らしい。頬杖をついてハンスの持ち帰った灰綿苔アッシュカバーをつまみあげる。ヴォルカイドが組み込んだはずの術式はすっかり破壊されていた。ヴォルカイドはこの灰綿苔の蔓延を予測できなかったのだろうか。それとも、あえて―。


『瀝星燃料を用いて急加熱、急速乾燥させたものと推測します』


ホログラムのノアが宙に浮かびながら解析結果を展開した。変質した歪な波形がグリッドに描画される。ハンスは腕組みをしてそれを見つめていた。彼の右爪が自身の腕を軽く叩いている。


「ノア、群生地の候補を展開できるか?」


僕が指先をコンソールに戻して指示を出すと、彼女の爪先から青い火花が散った。


『了解。11区の環境ログから、夜綿苔の生育に適した条件を抽出します』

ホログラムのウインドウが立体的な11区の地下構造図へと切り替わる。複雑に入り組んだ冷媒用配管の経路と、一定以上の広さを持つ地下空間が、光のドットによって結ばれていった。ちらちらと明滅する青白い光が、僕の隣のセイルの頬の輪郭を白く切り取っている。


『適切な湿度、および霊揮率レドが一定値を維持しているポイントをマークします』


ノアの指先が空間をなぞる。立体地図の上に複数の座標が浮かび上がった。


『座標:A-24、B-26、C-38、D-42、E-45、F-46、G-50。以上7地点が条件をクリアしています』


ウインドウに羅列された文字列を凝視していたニコが、怪訝そうに眉をひそめた。


「A-24…?」

賭博場カジノ針の終端(ニードル・エンド)の座標です」

セイルが遮るように言った。彼はコンソールを叩き、前回の潜入時のログを別のモニターに呼び出す。レイナがウインドウに歩み寄った。


「怪しいわね」

彼女の視線は、マークされた座標、地下構造図の10区と11区の境に位置する、防護隔壁の基部を鋭く捉えている。

境界帯デッド・ゾーンは例の廃霊宝石の出処よ。何かつながりがあるかもしれない」

レイナが僕に視線を移す。僕は頷いた。もしかしたら、ヴォルカイドについての情報も得られるかもしれない。

「ノア」

『A-24の詳細データを展開。建物の構造解析を実行します』

ホログラムが急速に拡大され、地下に潜む「針の終端(ニードル・エンド)」の三次元透過図が描き出された。地表層にある安賭博場から、上客用の最下層のスペースにいたるまで、細部がワイヤーフレームで再現されていく。 その時、ノアの指先が構造図の一角でピタリと止まった。


『―不自然な空白を発見。最下層エリアの遮音壁の奥、外部の正規アクセス経路から完全に遮断された、未定義の空間が存在します』






その夜、僕たちは再び針の終端(ニードル・エンド)を訪れていた。従業員に先導されるハンスとレイナの背後を、僕は視線を落としたまま、影のように追従する。0区の最高級車両による送り迎えという事実が「格」を証明しているためか、気密扉の奥へと続く道は驚くほど容易に開かれた。


通路を進むにつれて、安っぽいダイスの音は遮音壁の向こうへと完全に霧散し、代わりに密閉された地下特有の、わずかに熱を帯びた空気が肌に触れる。


案内された先は、前回と同じ上流階級向けの豪奢な共有スペースだった。天井のスリットから放射される瀝星光の青い光線が、ホログラム・バイザーで顔を隠した客たちの手元だけを鋭く切り取っている。彼らは一様に声を潜め、卓上に視線を注いでいた。


僕は歩調を緩めることなく、網膜の隅でノアとのリンクを開始する。


『視覚同期を確立。これより構造スキャンを開始します』

脳内に直接響くノアの報告とともに、僕の視界に変調が生じる。視神経に直接、薄青いグリッド線が上書きされ、周囲の遮音壁やパーテーションの裏側にある「機能」が透過データとして描き出されていった。


僕はハンスたちの斜め後ろに位置取り、「使用人」としての自然な動作で周囲を見回す振りをしながら、視線を走らせる。狙いは、「未定義の空間」へと繋がる物理的な境界、あるいは隠し扉だ。


(この壁の裏か…?)


僕の網膜に、重厚な防塵クロスの壁面の透過データが投射される。しかし、ノアの走査線が描いたのは、肉厚なコンクリートの質量と、その内部を通る配管の直線だけだった。扉はおろか、人が通れる隙間すら存在しない。


『…否定。当該座標への物理的経路は、このエリアからは検出されません。構造的デッドエンドです』


見つからない。僕は足元に伝わる排気ダクトの微振動を感じながら、さらにその空間の奥、瀝星光の照射密度が高い特別区画へと足を進めた。青い光が振り注ぎ、網膜の裏がチカチカと染まる。


わぁっ、という歓声に顔を上げると、空間の最奥に位置する、一際華やかに装飾された円形のゲームテーブルが視界に入った。

その周囲だけ、空気の温度が明らかに異なっている。客たちが巻き起こす熱気と、高価な香水の匂い、そして術札カードが擦れ合う硬質な音が、その一角の空気を弾けるようにさんざめかせていた。


死札デッド・ポーカーが行われているのだ。


卓上には、薄く叩き伸ばされた金属板の術札カードが並んでいる。術札カードがめくられるたびに、表面に印刷された特殊な光学インクが反応し、鮮やかなホログラムの絵柄が宙に投射されては消えていく。とりどりの色絵を弄ぶ長い指先が、右隣の女の腰に回される。反対の手は左隣の女の細い顎をすくい上げた。


その指先の主は、ホログラム・バイザーの下の口元に、人好きのする甘い笑みを浮かべて、しきりに冗談を放っていた。彼がひと言投げるたびに、周囲から波のように笑い声が広がる。胸元を大きく寛げた豪奢な上着を纏い、むき出しの鎖骨を女がなぞるままに任せている。男は右頬に朱の唇を、左頬に紅の唇を受けると、両手を卓の上に戻した。その指先から夜紫の火花が散り、投射されたホログラムの絵柄が光をたわませて変化する。術札カードのうえに開いたのは、ふっくらとした花びらを綻ばせる紫の花だ。彼がその術札カードを持ち上げ、ふぅっと息を吹きかけると、紫の花びらがきらめきながらひらひらと卓上に舞った。女たちがそれを見てさらに高い声をあげる。さらに流れるような手つきで術札カードを操る、その指先。


(あの火花の色―)


僕の瞳の奥で、ノアの照準がその男の姿を中心に捉える。走査線が、網膜に投影された彼の姿を寸断する。一拍の後、脳内にノアの声が響いた。


『―個人波形の照合完了。…ヴォルカイド・ヴィルザード卿です』


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