log79.紫の光に、息は凪いで
セイルは、ホログラム・ウインドウを見つめたまま微動だにしない。ノアはそんなセイルの様子に構うことなく、そのデータを前面に呼び出した。ウインドウの中央に、一つの光の波形が描かれる。その線図の上部に、冷たいフォントの文字列が浮かび上がった。
『ヴォルカイド・ヴィルザード。医療系術師の最高峰であり、黒領の王室に連なる血統です』
「…ノア」
僕はノアを遮った。ハンスの指先で、屑煙草の先端が燃え尽き、細い灰が床へ向かって落ちていった。レイナ以外の、全員の視線がセイルに集まっている。
「…彼が、なぜ」
セイルの唇から漏れた言葉が、コンソールの表面にぶつかって消えた。レイナが一歩セイルに近づく。
『不明。現時点におけるフリッツ・コールのログ、およびCMRの通信履歴からは、明確な因果線を検出できません。推測は不可能です』
ノアは表情を一切変えず、ただ琥珀と青の瞳をセイルに向けた。
「セイル君、ノクスの出身だったの?」
目を丸くして尋ねるニコに、セイルは小さく頷いた。ニコが驚くのも無理はない。僕はコンソールのざらついた摩耗を指先でなぞった。
黒領ノクス。「大落星の夜」以前に大陸を統治していた王室の末裔を国主として戴く都市。今なお貴族制が敷かれ、当時の高度な文物や贅沢品を完全な形で残している。黒都エレボスが完成された秩序の都市であるならば、黒領ノクスは咲き誇る栄華と豪奢の都だ。
「…ヴォルカイド・ヴィルザード、か」
ハンスがぼそりと呟いた。彼はポケットに手を突っ込んだまま、ウインドウに視線をやった。その指先が、顎のラインをなぞっている。
「…何か知ってるの?」
レイナの問いに、ハンスは鼻を鳴らした。「ああ」と彼は低く肯定する。ノアがふわりとハンスの近くに降り立つ。セイルが顔を上げた。
「ヴィルザード卿は1年に何回か11区に来る」
『本区へのヴィルザード卿の来訪ログ、およびCMR正規記録には、該当する照合結果が存在しません』
「非公式だ」
ハンスはポケットの中をまさぐり、新しい屑煙草を取り出す。ノアが換気扇の出力を一段引き上げ、ファンの周る乾いた音が室内に響く。
「何のために?」
僕は問いかけた。ノクスという上層の特権が、この最底辺である11区の煤煙にわざわざ身を晒す理由が分からない。
「医者としてだ」
ハンスの口調は、錆びたボルトを締め直す時のように抑揚を欠いていた。彼の指先から青白い火花が散り、屑煙草の先端に小さな火を灯す。
「わざわざこんなところまで…。優しい方なんですね」
ニコの声には純粋で平坦な安堵が混ざっていた。ハンスはその言葉に対して視線を動かさず、ただ鼻腔から短い呼吸を抜いた。肯定も否定もない。
ハンスが左腕を持ち上げ、腕時計をちらりと見た。文字盤を覆う強化ガラスには、細かな罅が入っている。彼は一度セイルに視線を投げると、腰のホルスターを確認しながらウインドウを離れた。
「そろそろ見回りの時間か。ニコ、行くぞ」
「あ、はい! 失礼します」
ハンスの靴音が床を鳴らし、それに続くようにニコの軽い足音が、炉心室の扉の向こうへと消えていく。残された空間は、再びホログラムの青白い光に支配される。セイルはウインドウを見つめたまま、まつ毛一つ動かさない。その肩にレイナの手が置かれた。
「…きっと理由があってのことよ、セイル」
「…」
セイルが自身の左手で右手を押さえる。彼の結晶痕がホログラムの青白い光を受けて小さく明滅した。
ハンスとニコはDブロックを訪れていた。官用車の自動遮断膜を起動させたニコが車外に降り立つ。
11区の最底辺を這う他のブロックに比べれば、このDブロックはまだマシな方だった。すぐ近くに配給所があるため、煤けた上着を羽織った市民たちが途切れることなくそちらへ流れていく。配給される合成食を求めてうつむきがちに歩く人々の波を、ニコは邪魔にならないよう避けた。
その時、住人の隙間を縫って走ってきた小さな子供が、ニコの目の前で派手に転んだ。
「あ、大丈夫?」
ニコはすぐに腰を落とし、子供の両脇を支えて助け起こした。子供の膝についた泥を払ってやると、後ろから息を切らせて駆けてきた母親らしい女性が、申し訳なさそうに何度も頭を下げた。
「すみません、警備兵さん。ありがとうございます……」
「いいえ、怪我がなくてよかったです」
ニコが穏やかに手を振ると、女性は子供の手を引いて再び配給所に向かう人の流れへと戻っていった。二人を見送り、ニコはハンスの隣を歩き出す。ハンスの口から吐き出された灰白色の煙が二人の間を流れていく。
「…ここ、リリィがいたところの近くですよね」
ニコが周囲の錆びついた鉄管を見やりながら言った。配管の影で泣いていた小さな姿を思い出す。
「ああ」
ハンスは短く答えると、配給所へ向かう人の波から外れ、一人がやっと通れるほどの細い路地へと迷いなく入っていった。ニコは慌ててその後を追う。路地の中は、外の喧騒が嘘のように静まり返っていた。頭上を無数の配管が複雑に入り組み、ただでさえ暗い路地に濃い影を落としていた。湿った壁面からは時折、油交じりの液体が滴り、足元の鉄板をぬるりと濡らしている。
やがて、ハンスが不意に足を止めた。ポイントD-15。かつて心臓炉の冷媒排出用として使われていた、完全に放棄された旧十一号排液分岐点だった。目の前には、剥離しかけた塗装の壁に錆と泥がこびりつく、古びた建物が佇んでいる。
ハンスは何も言わずに外れかけた重い鉄の扉を押し開け、中へと入った。外観こそ薄汚れて放棄されたように見えるが、一歩足を踏み入れれば、床の煤が掃き清められ、人の手が入って維持されている形跡がそこかしこに見て取れる。ニコは驚いて目を丸くし、キョロキョロと室内を見回しながらハンスの背中に従った。ハンスは部屋の奥にある、床に埋め込まれた重いハッチを掴んだ。鼓膜を擦るような金属音を立ててそれを引き開けると、地下へと続く垂直に近い階段が現れる。ハンスが先に足をかけ、ニコもそれに続いた。カン、カン、と靴底が軋む鋭い金属音が狭い縦穴に反響する。下へ進むにつれて、11区特有の乾燥した煤の臭いは薄れ、代わりに肌にまとわりつくような、じめっとした重い空気が満ちていった。
階段を降りきった最下層の暗がりで、「見ろ」とハンスが顎をしゃくって前方へと促した。
ニコは息を飲んだ。薄暗い地下施設の天井を這う、巨大な廃棄パイプの亀裂。そこから、艶めく黒色をした苔が、まるで湿った黒いカーテンのように幾重にも垂れ下がっていた。それは暗闇の中で、紫の繊細な燐光を淡く放ち、饐えた臭いの漂う空間を幻想的に照らし出している。
その黒い苔のカーテンの下には、古びた毛布をかぶった人々が横たわっていた。配給服を着た何人かが横たわる者たちの傍らに跪き、手元で黒っぽい何かを細かく揉みつぶしては、苦痛に歪む人々の手足へとあてがっている。それが押し当てられると、それまで苦痛にゆがんでいた表情が、吸い取られたかのように、次第に穏やかなものへと変化する。
「ここは…?」
ニコが圧倒されたように呟く。ハンスは屑煙草を床に落とし、靴の先でじり、と揉み消した。
「“施療所”だ」
ぽたり、と、厚い錆に覆われた天井から、冷たい水滴が静かに落ちて、紫の光の中に消えた。




