log78.合致する符号
ハンスとレイナは精密義爪補完所「M.E.L.」を訪れていた。入口のエアシャワーが清浄された風を吹き出す。店内のカウンター奥では、メルが作業着の袖を肘の上まで折り曲げ、備品棚の整理をしていた。塵一つない床が煤星灯の光を鈍く反射する。
「ああ、レイグルさん。いらっしゃい」
振り返ったメルが、のんびりとした声を出す。そのたれ目がちな蜜色の瞳が、ハンスの背後に立つレイナの姿を捉えた瞬間、その輪郭が一瞬だけ細められた。レイナの立ち姿と青灰の爪、その左手に握られた黒い金属ケース。メルの視線はそれらを瞬時に削り取るように観察し、次の呼吸には柔らかい目元がまつ毛を瞬かせている。
ハンスは何も言わずに歩み寄り、制服のポケットから小さなケースを取り出すと、カウンターへと滑らせた。ケースはメルの手元で止まる。彼女がそれを開くと、中には、廃霊宝石を飾った例の装飾爪が収まっていた。
「知ってたな?」
ハンスの声は低く、室内の乾燥した空気に重く沈んだ。メルは作業着の捲りあげていた袖を指先でくるくると戻した。
「うん、…と言ったら?」
メルの口元が微かに笑みを含んだ。彼女の丸みを帯びた琥珀色の爪が、カウンターの縁を小さく叩く。ハンスの顎の筋肉が硬く収縮し、チッと短い舌打ちの音が落ちた。レイナが一歩前に出ると、青灰の爪先をカウンターの縁に押し当て、冷ややかに言い放つ。
「顧客リストを」
メルは首を小さくかしげ、カウンターの縁に指を滑らせた。
「困るねえ。うちの信用問題に関わるよ。技師が一度でも客の情報を漏らしたら、明日からここじゃ干されちゃう」
「10区心臓炉契約者」
レイナの言葉が、メルの言葉を遮るように響いた。メルの指先が静止する。
メルは反論しなかった。ただ、黙ってカウンターの上の樹脂ケースを引き寄せると、中に収められた装飾爪の歪な結晶面を、爪先で小さくつついた。チリ、と硬質な音が天板に落ちる。
「廃霊宝石の件について、CMRもすでに調査に乗り出している。これ以上、この店が11区の境界に隠れていられる状況ではないはずよ」
レイナは持っていた黒いケースのラッチを指先で弾いた。カチャリ、と硬質な金属音が響き、蓋が大きく撥ね上がる。内側に敷かれた黒い緩衝材の上には、フリッツがメルの手掛けた装飾爪から引き剥がしたであろう、貴石の群れが転がっていた。カットされた無数の面が、天井の煤星灯の光を反射してきらきらと瞬く。
それを見たメルの目が、僅かに見開かれた。
「あいつ、こんなにむしり取ってたんだ…」
メルの呟きが途切れるか切れないかのうちに、ハンスがそのケースの蓋を上からバチンと力任せに叩いて閉じた。その勢いで、カウンター上の装飾爪のケースが小さく揺れた。
「装飾爪についてるのが紛い物だと知った客が、『付け替えろ』と言ってくるのは目に見えてる」
ハンスの手のひらは、金属ケースの蓋を押さえつけたまま動かない。
「顧客リストと引き換えだ」
ハンスが低く言う。メルはしばらくその手元を見つめていたが、やがてふぅ、と肺の底から長い息を吐き出すと、肩を短くすくめてみせた。
「…わかったよ」
作業着が擦れる音を残し、メルはカウンターから離れ、奥にある薄暗い一室の中へと姿を消した。
炉心室のホログラム・ウインドウとモニターからの青白い光がそれぞれに僕の手元を照らしている。ホログラム・ウインドウに映るのはシヴィラから受け取った顧客リスト、モニターに映るのはメルから受け取った顧客リストだ。
「つまり、シヴィラさんが“材料”を重結晶化、それをメルさんが同調コードを彫り込んで装飾爪に加工、さらにそれをフリッツが受け取って偽装コードを仕込んでた…ってことか」
僕の言葉にホログラムのノアが頷く。
『フリッツはその際に装飾爪から貴石を摘出、廃霊宝石との入れ替えを行っていました』
「どうして、装飾爪に同調コードを?」
ニコが首をかしげる。本来、装飾爪は爪の上に被せるだけのアクセサリーだ。
「個人由来の結晶は拒絶反応を起こす場合があるからです。同調コードは本人の波形と別個体の波形を『同調』させることでそれを防止します」
セイルの解説にニコは「なるほど」と呟く。最近、セイルは、リリィを通じてニコと会話する機会が増えたらしい。
「面倒くさいのは、フリッツの偽装コードを、シヴィラ・ミラーが“手直し”してたことだ」
ハンスが屑煙草を口から離し、灰白色の煙を吐いた。彼の指先がサイドボードの灰皿を引き寄せる。
『フリッツ・コールは非正規術師。彼の腕でシステムを欺く“偽装コード”を仕込むことは不可能でした』
ノアがふわりと空中に浮き上がった。彼女はフリッツの個人データを、新しく展開したウインドウに映し出した。彼の術師としての未熟さは、その術式ログからも明らかだ。
「シヴィラさんは、フリッツから店の鍵を渡されてた」
「ずいぶんな信用だな」
ハンスが灰皿に屑煙草を押し付ける。僕はコンソールの縁をコツリと叩いた。
「フリッツはなんて言って庁舎に出入りしてたんだ?」
「ジャンクパーツ買取。その時に“材料”もシヴィラさんに渡してたみたいだ」
ハンスがモニターに歩み寄る。彼は首筋の侵食痕を軽く掻きながらウインドウとモニターを見比べ、表示された名前を確認している。
「…どっちかのリストにしか乗ってない名前がいくつかあるな」
『照合・比較します』
ノアの指先から青い火花が散る。ホログラム・ウインドウの文字列が次々と等幅のフォントへ変換され、整然としたリストとして再配列される。シヴィラの端末から吸い出した暗号化データと、メルが持っていたディスクのバイナリが、炉心室の主演算機の中で一つのデータへと編み直されていった。
『重複項目のパージ、および破損セクタの補完を完了。完全なる照合結果を表記します』
ノアの声の残響と同時に、モニターの輝度が一段上がった。スクロールを止めた発光体が、青い格子状の表を映し出す。
総数、五十四名。
「メルさんのリストを重点的に、ソートをかけて」
僕は右手でリストを指し示した。
「同調コードを刻む以上、メルさんは客の個人波形も完全に把握する必要があった。彼女のリストには、名前だけじゃない。客の固有波形データが直接併記されてるはずだ」
ノアの瞳の奥で、光の輪が細かく明滅する。
『了解。メル―メルシア・クラークの顧客リストにのみ記載があった個人名を抽出します
短いシグナル音とともに、五十四名の並びが瞬時に切り替わり、画面の大部分が灰色に反転した。残されたのは、わずか十二名の文字列。
僕は顎を引き、視線だけでその配列を上から順に削るように確認していった。ハンスが吐き出した灰白色の煙が、スクリーンの前を緩やかに横切り、文字の輪郭を僅かに歪める。上から七番目。その文字列の左端に刻まれた、都市識別符号の配列で僕の指先が止まった。
“黒領ノクス”
王室を戴き、黒都エレボスと並び立つほどに潤沢な瀝星の流通量を誇る、分厚い城壁に囲まれた都市の名だ。11区の煤けた空気とは対極にあるその符号の右側に、個体識別名が配置されていた。
「…ヴォルカイド・ヴィルザード」
コンソールの背後で息を飲む音がした。振り返ると、セイルの視線がその名に釘付けになっている。彼の細い喉が小さく上下し、唇がわずかに開く。
「おじ上…?」
その声は、煤星灯から零れた白い煤と重なるように、炉心室の床に落ちた。
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反応があると、11区の物流が向上するかもしれません。




