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星痕の炉心―死刑囚は第11区の神として、崩壊都市をデバッグする―  作者: 百舌
10章:義爪技師(ネイル・グラインダー)
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77/91

log77.爪先の署名

後日、僕とノア、セイルは10区管理庁舎を訪れていた。僕の手には「白い塵」が入った密閉ケースが収まっている。僕とセイルが応接室で待っていると、程なくしてシヴィラが現れ、あくびをしながら対面の席に座った。


シヴィラは、前回の対面時と同じぶかぶかの作業服の袖を、卓に乗せながら小首をかしげた。衣服の繊維が、天板と擦れて乾いた音を立てる。彼女の下瞼が微かに持ち上がり、眠たげな視線が僕の手元にある長方形のケースへと注がれた。


「いい知らせ?」


のんびりした声が、応接室の薄暗い煤星灯の光の中に落ちる。


「廃霊宝石の“材料”が分かりました」


僕はケースののラッチに指をかけ、引き上げた。カチャリ、という硬質な音が響き、蓋が持ち上がる。内側に敷かれた黒い緩衝材の上で、白い粒子が煤星灯の光を乱反射させ、鈍い白濁の層を形成していた。シヴィラは頬杖をついたまま、無言でそのケースの底を見た。彼女は促すように、顎をわずかに引いた。


「人間です」

僕の声は、室内の乾燥した空気に溶けるようにして消えた。


シヴィラの表情に変化はなかった。眉根の筋肉も、唇の端の皮膚も、静止したままだ。


『マスター、対象の心拍数に変動はありません。65を維持。末梢血管の収縮反応も感知されず』


網膜の奥で明滅するノアのデジタル・パルスが、シヴィラの生体波形を描き出していた。彼女は穏やかに息を出し入れし、その作業服の胸元は一定の間隔で上下している。


「そう」


シヴィラは短くそれだけを口にすると、人差し指の爪先で、卓上の茶器の縁をチリ、と一度だけ弾いた。硬い残響が、部屋の隅の暗がりに吸い込まれていく。


「ずいぶん平静ですね」

セイルが整った姿勢のまま、シヴィラに声を投げた。彼の手元では、一口も減っていない灰豆茶が湯気を上げている。シヴィラはセイルへと視線を転じた。その瞳の奥の光量は、変わらずに低いままだ。


「微弱な個人波形が残ってた」


彼女は自分の爪先を見つめながら、他人事のように言った。


重結晶化コンパイルの時に気づいた。すごく弱い波形だったけどね。見落としてもおかしくない」

「…知ってて、使っていた?」


シヴィラは僕の問いには答えなかった。彼女は頬杖を解き、卓の上に両手を無造作に置いた。


「“人間”の出処は?」


シヴィラが尋ねた。僕は彼女の意図を計りかね、網膜の奥のノアが描くシヴィラの波形を追ったが、その心拍波形には未だ一階の乱れすら生じていない。


「出処に関係ありますか?」

「あるよ」


シヴィラはぶかぶかの袖のなかに両手を引っ込め、椅子の背に上体を預けた。


「フリッツが“殺し”までしてるとちょっとまずいかも」


彼女は眠そうに目を擦った。僕は継ぐべき言葉を失い、無意味に膝の上で右手を握りしめた。


「それは、ダミーの波形元が捜査の対象になるからですか?」


セイルが表情を変えないままに言う。シヴィラはその言葉を聞くと、下瞼をさらにきゅう、と持ち上げ、目を細めてセイルの顔を凝視した。


「セイル君…だっけ?」


シヴィラは喉の奥を鳴らして、名前の響きを確かめるように低く呟いた。ぶかぶかの袖から突き出た彼女の指先が、卓上をゆっくりと這う。15歳という外貌に似合わないセイルの知性を、彼女は瞼の隙間から、薄刃のような視線で観察していた。僕の網膜の裏では、ノアの走査波形が静かに細動している。シヴィラの規則的な心拍が、一瞬だけ、その間隔を詰めて68へと跳ね上がった。


「フリッツの廃霊宝石は、すでに上層部に出回っている。だから、あなたはあの時、境界帯にいた」


僕の言葉に、シヴィラは視線だけをこちらに動かした。彼女の重たげな瞼が僅かに持ち上がる。


「フリッツの技術は未熟だった。あれを着けていれば程なく侵食される。もう、捜査の手が及んでいるんじゃないですか?」


沈黙が室内の空気を張り詰めさせる。天井の煤星灯から、微かに白い煤が零れた。シヴィラの卓上の指先が止まる。彼女は首筋の骨を小さく鳴らし、ふぅっ、と肺の底から長い息を吐き出した。


「本当に、フリッツはまずい仕事をしてた」


シヴィラの声から、先ほどまでの眠気が完全に消えていた。


「彼は欲を出しすぎた。貴石を引っ剥がして売ろうなんて」


彼女は、影を引きずるように椅子から立ち上がった。作業服の厚い生地が擦れ、応接室の無機質な壁に反響する。シヴィラは席を立ち、室内の奥にある扉を開けて退室した。冷えた灰豆茶の匂いだけが室内に溜まる。


数分の後、彼女は右手に2つの小さな金属ケースを抱えて戻ってきた。


「どっちも、フリッツの収穫」

シヴィラが言い、カチャリ、と最初のケースのラッチを外す。蓋が撥ね上がると、中にはフリッツが顧客の「装飾爪」から強引に引き剥がしたであろう、貴石の群れが転がっていた。カットされた面が、煤星灯の光をとりどりに跳ね返している。


続いて、2つ目のケースにシヴィラの指がかかった。そのカチリ、という金属音と同期するように、僕の網膜の奥でノアの構築する文字列が、激しい砂嵐を伴って歪んだ。視界の右隅に表示されていた波形グラフが上下に大きく振れる。右手人差し指の爪が、皮膚を内側から針で突かれたような熱を持って脈打った。


2つ目のケースの中から現れたのは、右手四指分、人差し指を除いた、親指と、中指から小指までの青色の結晶爪だった。


(―ノアのものだ)


僕の網膜の裏で、緑色のパルスが不規則なスパイクを描いて上下した。視界全体にちかちかと青いノイズが走る。僕の右の人差し指の爪が、焼かれたように熱い。


『マスター』


ノアの脳内の囁きに僕が顔を上げると、シヴィラは卓の上に置いた右手の人差し指を小さく跳ね上げていた。彼女の人差し指の爪と肉の隙間から、チリチリと青い火花が爆ぜ、肉の焼ける僅かな臭いが空気に混ざる。シヴィラは眉間の皮膚を微かに歪めていた。


「…それは」


僕の声に、シヴィラは視線をケースから動かすことなく応じた。


「拒絶反応」


短く吐き出された声には、先ほどまでの眠気がない。


「個人波形が強固に残ってる。同調コードを破るくらいに」


彼女は小さく息を漏らすと、作業服のポケットからピンセットを取り出した。右手人差し指の装飾爪の端を挟み、上方へ僅かに持ち上げる。肉を剥がすような鈍い音が微かに響いた。現れた彼女の本来の爪は、灰色の表面が半分ほどボロボロに割れ、ささくれた角質が血の滲む皮膚に食い込んでいた。


「あんまり“質のいい”結晶爪だから……一カ月ほど前に義爪屋で付けたんだけど、ね」


シヴィラは装飾爪を戻し、とんとん、と左手の指先でその表面を叩きながら、唇の端を吊り上げた。僕は何も言わず、卓上のケースを両手で手元に引き寄せた。網膜の奥では、ノアの走査波形が四指の青い結晶爪を高速でスキャンし続けている。そのパルス、ノイズの周期、そして霊子圧―それらすべてが、僕の知っているノアの波形と、一分の狂いもなく完全に一致していた。


「…返してほしい」


言葉が先に出て、僕は慌てて舌を口の奥に引っ込めた。セイルが微かに姿勢を変えたのか、衣擦れの音が隣で鳴る。


「これ、譲ってくれませんか」


シヴィラは頬杖を突き直し、細められた下瞼の隙間から、僕の顔をじっと値踏みするように見つめてきた。沈黙のなか、彼女の指先がまたチリ、と青い火花を散らす。


(ノア)

僕は脳内でその名を呼んだ。


(死のコードを使う。彼女の拒絶反応を止める)


僕が何を意図しているのかを察したように、一瞬の空白の後、冷徹な声が脳幹を叩いた。


『了解。同期率20%を維持』


僕の視界の左半分がモノクロームの質感に沈み、神経を焦がすような熱が走った。


「シヴィラさん、右手を」


僕が促すと、シヴィラは拒むことなく、卓の上に自身の右手を滑らせてきた。彼女の瞼の下から、興味の色が隠しきれず覗く。僕は左手を伸ばし、彼女の人差し指の装飾爪に指先を押し当てた。

パチ、と硬質な音がして、僕の指先から発生した青い火花がシヴィラの爪を走る。かつてセイルの右腕で行った、波形の強制静止。僕の左腕を通じて送り込まれた熱が、シヴィラの爪を焼く。左の掌から伝わってくるのは、何度も意識を重ねたノアの波形だ。それが、消されまいと抗うかのように、僕の腕を伝って神経を震わせる。


(ごめん、ノア…)

僕は歯を食いしばって左手の火花を散らし続ける。演算の摩擦熱が僕の左腕を駆け抜け、皮膚の裏側を針で抉られるような痛みが走った。


『…マスター』


ノアの声と共に、ふっと左の指先に微かな重みを感じた。まるで、誰かがそっと触れたような。僕の指先が微かに震える。シヴィラの爪に触れていた僕の爪先がチリ、と最後の火花を散らした。


僕が左手を離すと、それまでチリチリと鳴り続けていたシヴィラの人差し指は完全に沈黙し、火花は消失していた。シヴィラは黙ってその右手を引き、左の手のひらで包むようにして押さえた。彼女が、僕をじっと見つめている。僕はその視線を正面から受け止めた。天井の煤星灯が一度だけ小さく瞬く。


「…いいよ」


シヴィラの短い一言に、僕は安堵の息を漏らした。彼女は視線を落とすと、卓上の青い結晶爪が収まったケースをパチンと閉じ、僕の方へとゆっくり押しやってきた。


「ありがとうございます」

僕はケースを胸元に抱え込み、代わりに、先ほどから卓上に置かれたままになっていた、白い塵の詰まった密閉ケースを彼女の方へと押し出した。スライドした底面が卓の細かな傷を擦って、乾いた音を立てる。


「“彼ら”は、12区の非登録市民です」


その答えにシヴィラは一度だけ瞼を開閉し、腰の携帯端末を卓の上に置いた。彼女がそれを操作すると、細かな文字列がびっしりと液晶画面を埋め尽くした。


「フリッツの顧客リスト」


シヴィラは画面を僕の方に向けた。バックライトの淡い白光が、卓上の冷えた灰豆茶の表面に細長く反射する。


「全部で四十二名。CMRの監査官から、黒都の末端まで並んでる」


彼女の指先が画面をなぞると、青い発光の行が次々と上部へと流れていく。それは、12区で塵となった非登録市民の残滓を爪先に飾る、上流階級の署名の羅列(アーカイブ)だった。


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