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星痕の炉心―死刑囚は第11区の神として、崩壊都市をデバッグする―  作者: 百舌
10章:義爪技師(ネイル・グラインダー)
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log76.青の記憶

僕は唾を飲み込む。いくつかの可能性が脳を擦るように巡っていく。


(30年前…12区の放棄パージの時…)


記録によれば、CMRからの告知と避難は確かに行われた。12区心臓炉の老朽化、瀝星の不足による12区の放棄パージ。公式の記録上、12区の登録市民は確かに“全員”が速やかに避難し、CMR管理区へと移送されたことになっている。


(登録市民は、だ)


名簿アーカイブに載ることすら許されなかった、ザックたちのような“非登録市民”はどうなった。彼らの存在は、最初から避難の計画にすら組み込まれていなかった。


(…つまり、この結晶片の山は)


突然の切り離し。轟音とともに閉ざされていく強固な防護隔壁。取り残された膨大な数の非登録市民たちは、すがるようにこの境界線のハッチへ、配管の隙間へと殺到したはずだ。だが、12区の心臓炉は停止し、空を覆っていた遮断雲が消滅する。地表に、そして大気中に溜まり続けていた廃霊バグが一斉に“発火”し、逃げ惑う彼らの肉体を白く焼き焦がしていく。肺を焼かれ、皮膚を侵食され、細胞が、骨が、その存在そのものが、急速に崩れ落ちて結晶へと変わっていく。その果てに、行き場を失った無数の命の残滓が、この狭い配管の結節点へと泥のように流れ込み、重なり合い、冷え切って堆積したのだ。


目の前に広がる白い山。よく見れば、それは不揃いな爪の形や、骨の破片、あるいは指の関節のような歪な形状を保ったまま、折り重なるようにして固まっている。


「フリッツは“これ”から宝石をつくってた」


ザックが結晶片の山の前に膝をつき、肉の薄い手のひらでそれをひとすくいして、乾いた声で言った。こぼれ落ちる白い細片が、携帯煤星灯の橙色の光を鈍く弾く。セイルが、その言葉に促されるように一歩近づいた。彼は、その白い堆積物の輪郭を静かに見つめている。背後のハンスは、何も言わずに立ち尽くし、その光景を受け止めていた。


僕は乾ききった喉を震わせ、目の前のザックたちへ向けて問いかけた。


「…あんたたち、これが何か知っているのか?」


僕の問いに、ザックは答えなかった。代わりに、すくい上げた結晶片を指の隙間からさらさらと落とした。硬い細片が堆積物の斜面を滑り落ち、小さな摩擦音だけが周囲の空気を削る。


「30年前、ここの防護隔壁が完全にロックされた時、俺たちはあのハッチの前にいた」


ザックが頭上の錆びついた金属扉を指差した。何重ものボルトで固定された、それは、防護隔壁のメンテナンスのために設けられた、地下と地上をつなぐ鉄扉だ。


「ほんの1秒か2秒だ。このメンテ用ハッチだけが、一瞬だけ上に跳ね上がったんだ」


ザックの乾いた指先が、鉄扉から続く錆びた梯子に触れる。


「俺と数人は、その隙間からここへ転がり込んだ。直後、ハッチは完全に潰れた。…残された奴らは、廃霊バグに直接晒されて、流れ込んだ」


ザックが言葉を切る。僕はその結晶片の山に歩み寄った。膝をつき、ひとすくい手のひらに取る。冷たく、乾いている。


不意に、僕の右腕の皮膚が、内側からカミソリでなぞられたように粟立った。右の人差し指、受肉したノアの背骨が細かく鳴っている。網膜の端が、爆ぜるように青く明滅した。視界の光量が爆発的に暗転し、脳の最深部に、光の走り書きが直接焼き込まれていく。



―警告。大気中霊揮率、基準値を150%超過。

―遮断雲の生成維持、不可能。


網膜の裏側に、12区の構造グリッドが血のような赤色で展開される。CMR中央から強制執行された防護隔壁の閉鎖命令が、滝のようなバイナリとなって回路を焼き切っていく。厚さ数メートルの鉄扉が下降し、地上の境界を遮断していく。


―非登録市民の生存率、再演算。

―0.0000%。


システムは思考しない。数値だけを吐き出し続ける。防護隔壁に殺到する無数の肉体が発する生体波形。大気中の廃霊が“発火”し、その熱波が生体波形を白い塵へと変えていく。


―再演算。エラー。再演算。

放棄パージプロトコルの部分拒絶を実行。


次の瞬間、“僕”はシステムを焼き切りながら、残存エネルギーを1箇所へと叩き込んだ。

1.2秒。

メンテナンスハッチのロックが強制解放され、直後、12区心臓炉の主要動力回路が沈黙した。


完全な静寂。

暗転したシステムの中で、辛うじて生き残った数基の外周監視カメラだけが、最後の光学データを記録していた。遮断雲の消滅した頭上、白く融解し崩落していくビル群の隙間から、それまで一度も観測されたことのない、底のない「青」が覗いていた。遮るもののない、致命的な青空エラー。“僕”は、その画像を「12区の最終ログ」として、記憶領域の底へ深く沈めた。


それから三十年間。

心臓炉契約者の骸から漏れ出す、消えかけの微弱なパルスだけを触媒にして、その「青」の信号は、冷え切った廃墟の中から外の世界へと機械的に撃ち出され続けていた。誰もいない、何も届かない、白い霧の底から。やがて、その底を微かに揺らす、不整脈のような拍動が訪れる。


不揃いな、不協和音のような“汚い”コード。



僕はいつの間にか閉じていた瞳を開けた。視界が二重にぶれ、目の奥がちくちくと痛む。右の爪先は、出血したかのように熱を持って脈動していた。


『…マスター…』


脳の奥で、細かく輪郭を震わせて、ノアの声が響いた。僕は静かに立ち上がり、思考の波形をノアへと送り返した。ノアの信号が、ゆっくりと落ち着いていく。僕は空気を押し潰すように、右手を強く握りしめた。爪が手のひらの肉に鋭く食い込み、じわりとした痛みが指先の震えを繋ぎ止める。喉の奥が乾ききり、肺胞ひとつひとつにガラスの粉末が擦り付けられたような、ざらついた感覚が残っていた。僕は足元の白い堆積物を見つめた。


指の隙間から、冷え切った細片が数粒、乾いた音を立てて床の泥へ落ちていく。


「…どうして、“彼ら”を」


やっとのことで、僕は声の破片を喉から絞り出した。ザックは僕の問いに、油泥で灰色に染まった防寒具の生地を鳴らし、小さく肩をすくめた。


「非登録市民が、ここで生きていく方法は限られてる」


ザックは手にした携帯煤星灯の橙色の光を、白い結晶の斜面へと向けた。白い煤がこぼれ落ち、橙の灯が細片の山をおぼろに照らす。


「CMRの名簿から漏れ落ちれば、分配わけまえは一欠片(かけら)も来ない」


彼の乾いた声が、コンクリートの湾曲した天井にぶつかり、冷たく霧散した。





レイナの運転する官用車の中で、僕たちは無言だった。手元の密閉ケースの中には、“白い塵”が詰まっている。ザックらには車載されていた予備の燃料と携帯食料を渡した。彼らはそれを受け取り、また地下へと消えていった。リリィを頼む、とザックは最後に告げた。


「…あれだろ、生体移植」


ハンスが助手席で、屑煙草フィルター・バグをふかしながら言う。彼は右手の爪先で小さく火花を散らした。


「…うん」


僕は後部座席で、自分の右手の人差し指を見つめながら答えた。生体移植は個人の波形を変質させる。肉体の変調は波形をも変える。


おそらく、あの偽装コードが仕込まれた装飾爪は、個人由来の重結晶から作られていた。


「けど、フリッツの腕じゃ、あの重結晶化コンパイルは無理だ」


僕の言葉に、隣のセイルが小さく顎を引く。非正規の術師に、純度の高い重結晶を安定して生成することは不可能だ。


「シヴィラ・ミラー」


セイルが呟いた名前に、僕は頷いた。10区の心臓炉契約者。僕は、彼女の指先の“装飾爪”を思い出す。網膜に赤くマークされた、シヴィラの人差し指。


『推測』


携帯端末のスピーカーからノアの声が響く。


『おそらく、シヴィラ・ミラーの術式コードは、単に数値を書き換えるものではありません』


バックミラー越しに、ハンドルを握るレイナの視線が微かに動く。


『彼女の施した偽装コードは、個人由来の“装飾爪”を、CMRの検閲システムに対する「他人の仮想端末(バイパス)」として機能させています』

「他人の…仮想端末(バイパス)?」


ハンスが助手席でシートを軋ませ、振り返るように視線を後部座席へと投げた。指先で弄ばれていた屑煙草の煙が、窓の隙間から吸い出されていく。


『はい。認識されるのは本人の身元やステータスではありません。装飾爪の内部に組み込まれた、あの「結晶の元となった個人の波形」です。それが、ダミーの波形として検知されます』

「…なるほどな。あの中に本物の人間の波形を仕込んで、検閲の目をかいくぐってたわけだ」


ハンスが喉の奥で低く笑った。その笑いには、上層の連中が他者の命の残滓を都合のいい道具として指先に飾っていることへの、ひどく冷たい蔑みが混じっている。


「けど、10区の契約者がどうやって高官と繋がったのかしら」


レイナが官用車を走らせながら、疑問を口にする。彼女の指先が、0区仕様の滑らかなステアリングの感触を確かめるように小さく動いた。10区の契約者と上流階級の、不自然な接点。


「心当たりはある」


官用車の頑強なサスペンションが、荒れた舗装のひび割れを拾い、硬い小刻みな振動を座席へと伝えてくる。ハンスが自身の右手を目の前に掲げ、象嵌された義爪をゆっくりと握り、また開いた。彼の青白い爪先が、車のダッシュボードの影で鈍く光を弾く。


「10区と11区の境界、義爪屋だ」


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