log75.地下の結節点
バルド・オスト。炉心強奪者。CMRの駆除対象。だが、一方で、彼は遺棄市民らの救い手でもあった。彼はCMRの登録から零れ落ち、地下配管層に潜む彼らに余剰の燃料や物資を分け与えていたのだ。ハンスは、息を詰めた僕の方を視線で刺した。同情するな、と彼の瞳は言っている。カウスとの取引の結果が、今更のように鉄の塊のように胃の底へ沈み込んでいく。
僕は喉の渇きを堪え、遺棄市民たちへ向けて言葉を選びながら、再び問いかけた。
「…他に、“バルさん”は何を? 君たちに何か言い残したり、頼んだりしていなかったか?」
三人の遺棄市民は、一斉に僕の顔を訝しげに見つめた。CMRがなぜ炉心強奪者の足取りを探っているのか。彼らの瞳に、再び鋭い猜疑のトゲが戻ってくる。
「…お前たち、何なんだ。CMRの猟犬が、なんでバルさんのことを嗅ぎ回る」
その拒絶の空気を切り裂くように、僕は一歩踏み出した。
「僕らが、彼の代わりをできるかもしれない」
『マスター』
脳内で、ノアの声が、たしなめるような冷たさを帯びて囁く。不用意に彼らへ介入すべきではない、という警告。だが、僕は即座に答えた。
(―彼らは情報を持っているかもしれない)
「…CMRが?」
遺棄市民の一人、左頬が白く煤けた男が、鼻を鳴らすような掠れた声で呟き、僕の横に立つハンスの制服を睨みつけた。
「CMRの人間が、俺たちの代わりになるだと? バルさんの代わりに燃料を寄こすってのか。笑わせるな、俺たちを全員名簿に縛り付けて、どこかの処理場に放り込むのがお前たちの仕事だろうが」
彼の言葉に僕は詰まった。咄嗟に「星の肺」で労働を課されているバルドの部下三人を思い出す。
「―イレブンさんは、非登録市民を保護しています」
背後から、セイルの硬質で、よく通る声が静かに響いた。
遺棄市民の一人が、その言葉の主へ視線を走らせる。そして、セイルの姿を捉えた瞬間、彼らの息が小さく止まった。セイルの整った蒼い爪、その立ち居振る舞い、そして地下の汚泥の中に身を置きながらも失われない独特の空気。それは11区の煤けた住人のものでは決してない。上流階級に属する者の毛並みだ。彼らはあからさまに、より深い猜疑を込めて目を細めた。
「何の冗談だ」
セイルは彼らの視線を真っ向から受け止めたまま、表情を一切崩さずに言葉を続けた。
「リリィという少女が、保護されています」
その名が地下空間に落とされた瞬間、三人の遺棄市民の肩が、弾かれたように大きく跳ね上がった。
「リリィ…!?」
「どこでだ! どこで彼女を見た!?」
一番大柄な男が、膝の泥を跳ね上げて僕たちの方へ身を乗り出してきた。
「D-12。彼女は、配管から救出された際、11区の配給服を着ていました」
セイルの淡々とした、だが具体的な事実に裏打ちされた回答に、男は口元を激しく震わせた。
「…無事だったのか」
男は、自分の両手を見つめるようにして息をつく。彼の肩から、空気が抜けるかのように力が緩んだ。
「冷媒が噴出したとき…俺たちは彼女とはぐれた。死んだとばかり…」
「元気か? 本当に、あのチビは生きているんだな?」
もう一人の遺棄市民が、縋るような声をセイルに向ける。セイルは静かに首を縦に振った。
その男は、しばらくの間、泥の床を見つめたまま無言で行きを繰り返していた。セイルの言葉に、自分たちを誘い出すための嘘や罠が含まれていないか、その沈黙の中で必死に品定めしているかのようだった。セイルはただ、彫刻のように静止して彼らの視線を受け止め続けている。
やがて、男は衣服の膝についた泥を乱暴に払いながら、ゆっくりと携帯煤星灯を床から拾った。彼の白っぽく変色した左頬を橙の灯が照らす。
「…ついてきてくれ」
男は短くそう告げると、手にした携帯煤星灯の橙色の光を前方の暗闇へと向け、歩き出した。残りの二人も、無言でその背に従う。
僕とハンス、そしてセイルは、互いに視線を交わし、小さく頷き合った。暗渠の奥へと消えていく橙色の光の残滓を追うように、僕たちは粘りつく泥を踏み締め、先へと進み始めた。
「…イレブンさんたち、大丈夫かなぁ」
11区管理庁舎。その休憩室でリリィの相手をしながらニコは呟いた。対面のリリィはセイルから与えられた、術式の刻まれた真鍮板を指先でなぞっている。
「ニコお兄ちゃん?」
リリィの言葉に、ニコは慌てて顔を上げた。11区の休憩室は、壁面の塗装が至る所で剥がれ、露出したコンクリートの地肌に白い煤が付着していた。部屋の中央に置かれたスチール製のテーブルの表面には、無数の擦り傷が白く線を引いている。
リリィは真鍮板から小さな顔を上げ、薄茶色の瞳をニコへと向けている。
「あ、ううん、なんでもないよ」
ニコは左右に小さく頭を振った。引きつった笑みが頬の肉を硬く緊張させる。彼の視線は、テーブルの隅に置かれた携帯端末の消灯した画面へと何度も泳いでいた。地下へと潜ったイレブンたちの動向を示す通知はまだない。
「…ほんとに、何でもないんだ」
ニコがもう一度微笑んでみせると、リリィは再び手元の真鍮板へと視線を落とした。小さな指先が、表面に深く刻まれた幾何学的な溝をなぞる。
彼女の爪先の皮膚が微かに強張った。
パチ、と乾燥した硬い音が沈黙を破る。
リリィの指先から、黄白色の細い火花が短く爆ぜた。その火花が霧散した直後、真鍮板の上にザラザラとした硬い音が響いた。指先から零れ落ちたのは、小さな結晶の破片だった。
「あ…」
リリィは指先を丸めるようにして、自分の手元を凝視した。ニコが目を丸くする。
―重結晶化の萌芽だ。
「すごいよ、リリィ!」
ニコは身を乗り出し、スチール製の椅子が床のコンクリートを鋭く引っ掻く音を立てた。彼の顔に浮かんでいた焦燥が、一瞬だけ驚きによって押し流される。リリィの胸元では、セイルから与えられた暗銀の正八面体が微かに揺れていた。天井の煤星灯の橙の灯が、その結晶の歪なエッジをきらきらと縁取る。
「…もう一度」
リリィは呟き、再び真鍮板に指を添えた。彼女の呼吸が浅くなり、細い肩が僅かに上がる。パチ、パチ、と連続して黄白色の火花が爆ぜ、そのたびにテーブルの上へ結晶の細片が不揃いに弾け飛んだ。それらはどれも形を成さず、スチールの天板の上に薄い層となって積もっていく。リリィが小さく唇を噛んだ。
「見てて、リリィ。僕のはこんな感じなんだ」
ニコが自身の右手を差し出し、人差し指の先を空間に向けた。彼の指先に青白い火花が散り、半透明の右手首の制限器が、その明滅を鋭く反射した。ニコの指先から、青白い正六面体が生成される。CMR標準規格の重結晶。だが、その重結晶は彼の右腕と同じように半透明で、向こう側の景色を淡く透過させていた。
「はい、これ」
ニコは生成されたばかりの、まだ微かな熱を帯びた正六面体をリリィの掌へと載せた。リリィはそれを指先でつまみ上げ、目の高さまで持ち上げてじっと見つめた。それから彼女は、自分の胸元に下がっている暗銀の正八面体へと視線を移した。半透明の正六面体と歪な正八面体。
「…焦らなくても、いいんだからね」
ニコはリリィの頭にそっと手を置き、そのふわふわとした髪の感触を確かめるようにして呟いた。
僕は、地下通路の湿った泥を踏みしめながら顔を上げた。セイルが遺棄市民らに施した防護膜が、油膜のような歪な模様を描いて激しくノイズを鳴らしている。脳内でノアが警告した。
『マスター、周辺の霊揮率は現在24%を突破、なおも秒単位で上昇を続けています』
僕は頷き、額の汗を拭った。防護膜ごしにも皮膚を焼く廃霊のひりつきを感じる。前方を見遣ると、遺棄市民の一人が提げる、携帯煤星灯の橙の灯が頼りなく明滅していた。セイルもそれに気づいたらしい。彼の右手の指先から火花が散り、銀の正六面体が生成された。
「ザックさん」
セイルがその正六面体を持って、先頭の男に早足で歩み寄る。男は足を止めてセイルを見つめた。
「…何故名前を?」
「リリィが教えてくれました」
セイルが自身の左頬を示しながら言うと、男―ザックは微かに笑ったようだった。セイルが差し出した銀の正六面体が嵌め込まれると、携帯煤星灯はぼっ、と音を立てて安定した橙の火を灯した。その灯が男の白く煤けた左頬を、闇の中に浮き上がらせる。
「…強い」
ザックがその灯を見て呟いた。重結晶のエネルギーは、「情報の複雑さ」に依存する。「重い」データほど密度が高い。この地下通路に満ちている廃霊が、通常のそれとは密度を異にする圧を持つことは、僕もひしひしと感じていた。
『…奇妙です。環境因子の変質パターンが、通常の廃霊の波形と一致しません』
ノアの声の同期が、一瞬だけ不自然に途切れる。進むうち、空気の粘度が変質し始めた。肺に吸い込む空気が、細かなガラスの粒子に変わったかのように喉の奥をちりちりと刺激する。最後尾を歩くハンスは一言も発しなかった。時折、彼が泥を踏む重い音が通路に落ちる。
『マスター、霊揮率が29%へ急加速。―現在位置は地上の第一種防護隔壁の直下。11区と、放棄された12区の完全なる境界線上です』
ノアの声が、僕の網膜に正確な座標グリッドを青い線で刻みつけていく。ザックたちの足が止まった。その先は、巨大な円筒形の空間―配管層の結節点だった。
「何だ、これ…」
僕の喉から、乾いた声が漏れた。
それは異様な光景だった。一種、幻想的ですらあったかもしれない。
無数の細い配管群が、前方の白い空間に飲み込まれるかのように、輪郭を淡く明滅させていた。不規則にちらつきながら、実体化と虚無の狭間を行き来する金属の細線。一方で、幹のように太い主管は、まるで凍りついたかのように真っ白に変色し、その表面から無数の細かな亀裂を走らせながらも、暗渠の奥へとうねりながら伸びている。
その配管群の真下、コンクリートの床には、灰色の泥を完全に覆い隠すようにして、雪のように細かな白い結晶の層が分厚く堆積していた。
ノアの声が脳内で響く。
『…マスター、この結晶層は単なる廃霊の残滓ではありません』
僕は結晶層を見つめた。僕の前方のセイルが、さらに一歩踏み出す。ノアが硬質な声で続けた。
『これは、個人由来の波形です』
僕の喉に汗が伝う。セイルの右袖から覗く結晶痕が、銀色にきらめいた。




