log74.遺棄市民(レフトオーバー)
シヴィラは「待ってて」と一度応接室を立つと、傷だらけの携帯端末を持って戻ってきた。彼女は茶器を脇に避け、それを卓の中心に置いた。
「これ、フリッツのね」
シヴィラは擦り減った灰色の爪で液晶の端を叩いた。傷だらけの筐体が低くブザーを鳴らし、卓上に青白い三次元の配管図を透過投影する。緻密なグリッド線が冷えた茶器の側面に歪んで反射した。その配管図のグリッドの一部が赤く点滅している。僕は思わず身を乗り出した。
『g80…廃棄配管層です、マスター』
脳内に滑り込んできたノアの声は、いつもより微かに明滅していた。g-80。末端の11区のさらに末端、12区に繋がる閉鎖された配管群のエリアだ。シヴィラは僕たちの顔を、瞳を細めて交互に見た。
「フリッツは定期的に“そこ”に行ってたみたいよ」
「…どうしてこれを僕たちに?」
卓上の赤い光彩を見つめたまま、僕は訊ねた。
「知りたかったんでしょ?」
シヴィラは組んだ膝の上で、またものぐさそうに指先を遊ばせた。
「これ以上の調査は私の方じゃ難しかったのは事実だから」
シヴィラは「何か分かったら教えて」と付け加える。ハンスが椅子の背からゆっくりと上体を起こした。彼の右手の義爪が、卓上のホログラムが放つ微弱なノイズに同調するように、ピクリと小さく震える。
「こっちのメリットは?」
ハンスの言葉に、シヴィラは頬杖をついたまま、唇の端を小さく持ち上げる。
「フリッツが引っ剥がした貴石の4割」
「6割にしろ」
シヴィラは唇を尖らせたが、ハンスが親指で配管図を指し示すと、「仕方ない」というふうに息をついた。廃棄配管層は瀝星の残滓と錆がこびりつき、不法な連中が蠢く危険地帯だ。シヴィラもそれは分かっているのだろう。
「分かった。ありがとう。シヴィラさん」
僕は頷き、卓上の携帯端末を手に取った。冷たい樹脂の質感が、指先の湿り気に吸い付くように馴染む。液晶を落とすと、投影されていた三次元図が不意に掻き消え、応接室は元の薄暗い煤星灯の光量へと戻った。椅子から立ち上がりながら、僕は脳内で配管の詳細を反芻していた。
g-75に位置するgブロック防護壁の外、僕とハンス、セイルは地下への梯子を一歩ずつ降りていった。すぐ上の地上では、レイナが車内で待機している。地下の霊揮率の高さに、レイナの張ってくれた遮断膜がチリチリとノイズを散らした。
(バルドのやつ、こんなところに逃げ込もうとしてたのか)
最後の一段を降りきった足裏が、粘り気のある泥を捉えた。
頭上のハッチが閉まると、上層からのわずかな光は完全に遮断され、周囲は湿った闇に包まれた。g80エリア、廃棄配管層。壁面には大小の鉄管が血管のように這い回り、結合部からは赤錆が滲み出すように侵食している。古い排気弁の隙間から漏れ出す腐食臭が、遮断膜ごしに鼻腔を刺した。
「ひどいな、ここは」
僕の声は、コンクリートの湾曲した壁に低く反響して消えた。暗視モードの網膜投影機のベルトが耳裏を締め付ける。ちらりと隣のセイルを見遣ると、彼は表情を変えることもなくあたりを確認していた。
(…本当は連れてきたくなかったけど)
術式の安定性と出力だけで選ぶならば、レイナが適任だったかもしれない。しかし、この末端の無法地帯に車を無人で放置すれば、浮浪者や屑鉄屋の手によって、あっという間に完全に分解されて闇市に並ぶのは目に見えている。また、ノアが算定したg80エリアの構造の損耗率は限界に近い。ここで崩落が起きた場合、その荷重と衝撃を押し留めるだけの出力を持つのは、ここにいる三人の中ではセイルしかいなかった。
直後、腰の携帯端末が細かく振動し、僕の数歩先で空気の分子が青白く震えた。光の粒子が収束し、ノアが像を結ぶ。彼女の輪郭が暗い泥水に濡れた壁面を微かに青く染め上げた。
『マスター、前方三十メートル、構造材の損耗率が四十二パーセントに達しています。霊揮率はさきほどより〇・一五上昇。これより先は、廃棄遺構への直結経路です』
ノアの瞳が、闇の奥を見据えたまま静かに警告を発する。ハンスが背後で重いブーツの音を立て、泥を踏み越えた。
「イレブン、見ろ」
ハンスが右手の義爪の先で指し示したのは、太い幹線から下部へと枝分かれした、錆びた鉄の管だった。そこから続く壁面を這う配管が一部ねじ切られ、先の通路の空間が広げられている。
「…これって」
「バルドか、他の連中か」
ハンスが低く呟き、管の断面を確認した。
「まだ新しいな」
ハンスは鉄管の破断面をなぞる。その指先に付着した赤錆は湿り気を帯びているのか、粘土のように潰れる。セイルがハンスの背中の影から上体を傾け、その指先と、ねじ切られたメッキの層をじっと見つめた。指を離し、ハンスは再び泥の中に歩を進めた。その背中にセイルが従い、最後尾に僕が位置を取る。
コンクリートの暗渠は、進むほどにその内径を狭めていった。左右から突き出た配管の断裂部は、鋭利な爪のように剥き出しになり、僕たちの遮断膜をかすめていく。足元の泥は粘度を増し、一歩進むたびに気泡が弾けるような鈍い音が響いた。この暗闇の中で、唯一の光源はノアのホログラムが放つ冷たい青白色の光膜だけだった。その光が地下の壁面をなぞるたび、何層にも重なった白い煤がまだらに浮かび上がっては消える。
不意に、ハンスの足が止まった。
彼のつま先が、泥に半分埋もれた円筒形の物体を軽く突く。金属製の外殻が剥げた、携帯瀝星灯だった。
『…前方に三体の生体反応を確認。戦闘用術式の展開は認められません』
ノアの声が僕の鼓膜を微かに震わせたのと同時に、ハンスの右手が素早く動いた。ホルスターが跳ね上がり黒いネイルガンがその右掌に収まる。ハンスは視線を正面の闇に固定したまま、左手を後ろに向けて僕たちを制した。
「離れてついてこい」
低く硬い声が通路に落ちる。
その先は、崩落した瓦礫と歪にひらけた空間になっていた。天井から垂れ下がった錆びた鉄筋の隙間から、もう一つ、別の携帯瀝星灯の橙色の光が漏れている。その煤けた光の輪の中に、三つの影が縮こまっていた。衣服の繊維は引き裂かれ、こびりついた油泥によって灰色に変色している。
「誰だ」
ハンスがネイルガンの銃口をわずかに下げた状態で、その光の輪へ踏み込んだ。
三つの影がびくりと跳ね、一斉にこちらを振り返った。橙の灯の逆光のせいで顔の造作は定かではないが、光に射すくめられたその瞳だけが、異常なほど白く浮き上がっている。彼らはハンスの構える銃身を捉えると、両手をゆっくりと頭上へ掲げた。衣服の隙間から見える手首の皮膚は、どれも驚くほど薄く、骨の形がそのまま浮き出ている。
(…敵じゃない)
彼らの反応から、僕は咄嗟にそう判断した。そこにあるのは悪意ではなく、ただの乾いた恐怖だ。
「…遺棄市民だ」
中央にいた、最も背の低い人影が、掠れた声で応じた。
―遺棄市民。その単語が、暗渠の空気に重く沈み込む。三十年前、12区が切り離された時に、境界線を越えてこの11区へと逃れてきた漂流者たち。特別な技術も能力も持たず、それゆえにCMRの登録名簿から零れ落ちた者たち。
ハンスは構えていたネイルガンの銃口をゆっくりと下に向けると、そのままフレームのロックを噛み合わせた。金属音が狭い空間に小さく響く。彼は泥を踏み締めながら三人の人影へと歩を進め、右手を額にやって網膜投影機のバンドを押し上げた。僕とセイルもそれに倣い、視界を覆っていたデジタルグリッドを解除した。
携帯瀝星灯の橙色の光が、ハンスの胸元に刻まれたCMRの徽章と、ダークグレーの制服の生地を斜めに切り裂く。三人の遺棄市民たちはその制服の輪郭を視線で捉えた瞬間、揃って喉を鳴らし、一歩後退した。掲げられた手の指先が、細かく、刻むように震えている。
「捕縛するつもりはない」
ハンスの声は低く、乾いていた。その響きに、三人は掲げていた腕の力を僅かに抜き、胸の高さまで位置を下げた。だが、彼らの瞳に張り付いた拒絶の色は消えていない。
僕は彼らの硬直を解くように、一歩前へ出てできるだけ声を低く抑えた。
「ある男の知り合いを探してるんだ」
僕は腰のホルダーから携帯端末を引き抜き、液晶の輝度を最小に落として彼らへ向けた。画面に表示されたのは、フリッツの記録データだ。
「この男に、見覚えはないか?」
三人のうち、最も前にいた、左の頬が白っぽく煤けた男がじっと画面を覗き込んだ。男の視線がフリッツの画像をなぞり、小さく顎を揺らした。
「…なぜ、こいつの知り合いを探している?」
男の問いに、僕は視線を少しだけ床の泥へと落とした。
「彼は死んだ」
空間の空気が、かすかに爆ぜるようにざわついた。三人が互いの顔を見合わせ、それからまた僕の持つ端末へと視線を戻す。信じ切れていないような、しかしどこかで予期していたような困惑が彼らの顔に広がっていく。
「死体を見たのか?」
「ああ。細工場で動かなくなっていた」
僕が頷くと、中央にいた小柄な人影が、擦り切れた声を喉で鳴らした。
「フリッツが、何かしたのか。あいつは…バルさんとの連絡役だったんだ」
(バルさん。バルド・オストか)
その言葉に、ハンスの義爪が小さく音を立てて制服の生地を掠め、セイルの視線が鋭く絞られるのを気配で察した。
だが、遺棄市民たちは僕たちのその反応には気づかなかった。小柄な人影は、自分たちの足元、コンクリートの床に直に置かれたそれらを指先で指した。
「バルさんは、俺たちを助けてくれてたんだ」
その指が示す先には、変形したドラム缶を切り開いた小さな貯蔵庫があった。中には、不純物を含んで濁った僅かな瀝星燃料の缶と、規格もバラバラのいくつかの資材。そして、古い灰色の防寒具が数枚、湿気を吸って重そうに重ねられていた。




