log73.灰色の偽装
人影はゆっくりと顔を上げた。邪魔そうに、ボサボサとした灰茶色の髪を振り払うようにしてフードを下ろす。あらわれたのは、酷く眠たげに目を細めた女の顔だった。サイズの合わないぶかぶかの作業服の上に、赤いラインの入ったパーカーを纏っている。手元ではピンセットをカチカチと無意味に鳴らし、ハンスが構えるネイルガンの銃口を、怯える風もなく平然と受け止めていた。
「その物騒なの、降ろしてくれるかな?」
女は小さく鼻を鳴らした。彼女がパーカーの襟元を開くと、胸元にはCMRの徽章が光っていた。
「シヴィラ・ミラー。10区心臓炉契約者」
彼女は平坦な口ぶりで告げた。
『対象の心拍数65,個人波形を照合―虚偽の可能性0.03%』
脳内に、ノアの硬質な響きが直接滑り込んでくる。
(シヴィラ・ミラー。10区心臓炉契約者。レジーの直属の“上司”)
僕はその名を頭の中で反唱した。報告書の宛先として何度も目にした名だ。
『データベースより個体情報を展開』
ノアの声に同期して、僕の網膜に緑色のテキストが次々とスクロールを開始する。
『元CMR登録サルベージャー。勤務態度は著しく非模範的。直近の定期査察は数値偽装の疑いがあるものの、すべて規定値滑り込みで通過』
「あの…なんでここに?」
僕はハンスの背後から一歩踏み出し尋ねた。なぜ10区契約者が、こんな10区と11区の狭間にある無法地帯の裏路地に、単身で転がっているのか。僕の問いかけに対し、シヴィラは擦り減った灰色の爪でピンセットの軸を弄びながら、眠たげな視線をゆっくりとこちらへ移動させた。
彼女の灰茶色の瞳が、まずハンスの纏うCMR警備兵の制服を捉え、次いでその左腕に巻き付けられた「11区」の文字が綴られた腕章へと留まる。
「目的は同じじゃないかな?」
シヴィラは、文句を言うこと自体が億劫であると言わんばかりに小さく肩をすくめると、再び視線を床の“死体”へと戻した。彼女の指先が、倒れ伏す男の右指をピンセットで無造作につつく。その白っぽく変色した指先から、カサカサと乾いた「白い塵」が零れ落ちた。
「だろうな」
ハンスは構えていたネイルガンを、短く吐き捨てるような呼気と共に腰のホルスターへと収めた。シヴィラはピンセットを持ったまま、僕の背後に無言で直立しているセイルへと、ちらりと視線を走らせる。
「じゃあ話は早い。死体の始末はこっちでするから、詳しいことは庁舎で話そう」
シヴィラは立ち上がり、ぶかぶかの作業服のポケットにピンセットを突っ込んだ。
「んー、面倒くさい」
シヴィラはあくびをすると、ハンスの横を通り抜け、僕の脇をすり抜けた。彼女の瞳がセイルの爪先を素早く一瞥し、また眠たげに細められる。
『マスター』
ノアの声が短く告げる。瞬間的に僕の視界がノアと同期し、シヴィラの右手人差し指が赤くマークされた。僕は小さく息を呑む。
「…ハンスさん、セイル君」
シヴィラが店の外に完全に姿を消したのを見てから、僕は二人に囁いた。ハンスが頷き、ポケットに手を突っ込み、店の出口に向かって歩き出す。セイルもその後を追う。僕も彼らの背中に続きながら、この境界帯に蔓延る“装飾爪”が、想像以上に深く根を張っていることを確信していた。
10区管理庁舎の応接室で、シヴィラは手のなかの灰豆茶をふうふうと何度も冷ましていた。彼女は一口啜り、顔を顰めて茶器を卓に置く。
「…どこまで話したっけ?」
シヴィラは心底どうでもよさそうに呑気に問いかけた。ぶかぶかの作業服の袖から、擦り減った灰色の爪が覗いている。
ハンスはむっつりした表情のまま、低い声で応じた。
「フリッツ・コール。非正規術師。廃霊結晶の出処」
「あ、そうそう」
シヴィラは思い出したように小さく手を叩いた。その動作すらも、極限まで労力を省いたような、ゆるゆるとしたものぐさな動きだった。
「たぶん死因は廃霊の侵食だよ」
彼女は、今日の日付を確認するかのような平然とした調子で、分かりきった事実を口にした。あれだけの廃霊結晶に囲まれ、それらを四六時中削っては「装飾爪」へと仕込み、換気も不十分な、霊揮率の跳ね上がった密室にこもりきりになっていたのだ。術式の遮断膜もまともに展開していなかったのだろう。あの結末は、術師としての基本を欠いた末の当然の帰結と言えた。
「で?」
ハンスが眉間の縦皺を一段と深くし、先を促すように短い言葉を投げかけた。
「ん?」
シヴィラは首を傾げ、聞き返してくる。その眠たげな瞳には、こちらの反応を観察するような余裕がある。
「顧客のリストは?」
僕はハンスから引き継いで言葉を続けた。あの歪な結晶を誰に、どれだけ売っていたのか。その記録があるはずだった。
「今調査中」
シヴィラは悪びれる風もなく平然と答えると、再び茶器を手に取り、茶を啜る。僕の視界の端で、セイルが茶器から行儀よく一口飲むのが見えた。
『…マスター』
僕の脳内でノアの声が静かな緊張を伴って囁いた。
(―ああ)
シヴィラが茶器を口元に運ぶたび、その右手の人差し指が微かに動く。彼女の爪は、一見すると何の変哲もない、CMRの規格に準じた普通の灰爪に見える。だが、ノアと同期した僕の網膜には、その歪な波形がくっきりと映し出されていた。彼女の右手の人差し指。彼女の本来の爪に被せられた“装飾爪”。その術式溝から、あの高官が身に付けていた「装飾爪」と全く同じ、偽装コードのパルスが赤く明滅している。
ハンスも、ちらりとシヴィラの爪先に視線をやった。彼女を取り押さえてその装飾爪を引き剥がし、これは何だと突きつけてやることができるのならば、事態は簡単なのだが。
僕は咳払いをした。
「…その廃霊結晶を付けてた女性と一緒にいた男性」
僕の言葉に、シヴィラが茶器を卓に置いた。動じた様子は無い。
「偽装コードの仕込まれた“装飾爪”をつけてました」
僕はシヴィラの表情を伺った。彼女の眠たげな瞼はぴくりともしない。僕の言葉になど一端の興味もないかのように、茶器の肌で指を遊ばせている。
「…」
僕は無言で腰の携帯端末を卓の上に置いた。その液晶画面が、緑色の発光波形を卓上に投げかけている。規則的に跳ね上がるパルスの棘が、滑らかな樹脂の表面を交互に走る。
「あなたの爪から、その偽装コードと“全く同じ”パルスを受信しています」
言葉の響きは応接室の薄い空気の中に吸い込まれ、静寂だけが残った。ハンスは椅子の背に体を預けたまま、ただ視線をシヴィラの指先に固定している。セイルの持つ茶器の表面で、冷めかけた液面がかすかに揺れた。
シヴィラは卓上の端末を凝視することもしなかった。ただ、喉の奥で小さく息を吸うと、残った灰豆茶をこくりと飲み干した。茶器が卓に置かれる硬質な音が響く。彼女は組んだ腿に無造作に肘を立てて頬杖をついた。
「で?」
シヴィラの指先が、彼女の頬の皮膚をわずかに押し上げている。眠たげな瞼の下にある瞳には、動揺も焦燥もない。その視線には、11区のIDタグを身に着けた存在に何ができるのか、という観察だけが宿っている。
「勘違いしないでほしい。僕はあなたが上層部に何を流していようが一切関わるつもりはない」
僕は網膜の奥でノアの算定する数値を追った。シヴィラの心拍は未だ65の平時を維持している。僕は首に手をやり、IDタグを外して卓の上に置いた。それは、カウスから与えられた真新しい黒銀色のプレートだ。シヴィラの下瞼が、きゅう、と持ち上がるのが分かった。
僕がそのタグをシヴィラの方に押しやると、彼女は組んだ足を解いてそれをつまみ上げた。小さな爪の指先がチリリ、と小さな火花を散らしてタグを弄ぶ。
「…誰からもらったのかな?これ」
「想像に任せます」
僕の答えに、シヴィラの瞳の奥に鋭い光が灯る。
「僕たちはただ廃霊宝石のルートについて知りたいだけだ」
その一言が、応接室の乾燥した空気をわずかに裂いた。シヴィラが、弄んでいたIDタグを卓の上に戻す。
「あなたがさっきあそこにいたのは、この廃霊宝石が上層へ混入し始めているからじゃないですか?」
僕は衣服のポケットから、小さなケースを取り出した。指先でラッチを外すと、カジノの個室で回収したあの愛人の装飾爪が応接室の煤星灯の下できらめく。基部に散りばめられた貴石。その数粒が、不自然な白濁を帯びて亀裂を内包していた。粗悪な廃霊結晶だ。
シヴィラは、ぶかぶかのポケットから先ほどのピンセットを突き出し、ケースの中の装飾爪を無造作につついた。
「相変わらずまずい仕事してる、フリッツは」
シヴィラはピンセットを卓に置く。カチャリ、とかすかな金属音が響いた。
「彼は廃霊宝石だけでなく、“偽装コード”の仕込みもしてた。ただ、あの腕でしょ?宝石はともかく、コードの方はうまくいかなかったんだ」
シヴィラは自身の右手の人差し指の爪先を、左手の爪で小さく叩いた。巧妙な偽装コード。高官の装飾爪にも刻まれていたものだ。それはシヴィラの手によるものだろう。彼女は密かに、フリッツに手を貸していた。
「フリッツは“偽装コード”を仕込むという触れ込みで、高官様の装飾爪を受け取って、その貴石を引っ剥がして売ってた。そっくりな廃霊宝石に置き換えてね」
シヴィラはふう、と深く、長い息を吐き出した。その呼吸に伴って、彼女の肩がわずかにゆるむ。
「けど、もうフリッツは死んだ。ようやく私を信用してきたところだったのにね」
空になった茶器の縁を、シヴィラは爪先で弾く。頬の皮膚を引っ張るようにして、彼女の唇が微かに歪な弧を描いた。




