log72.境界帯の影
男は、椅子に音を立てて腰掛けるとハンスの言葉を待った。女のほうはそわそわと落ち着かない様子で、指先を動かしている。ハンスは、従業員が立ち去る足音を確認すると、ゆったりと口を開いた。
「『コツ』というほどのものではないのですがね」
言いながら、ハンスはポケットからゆっくりと一つのケースを取り出した。男のバイザーのノイズが一瞬だけ細かく揺れ、女の視線がハンスの手元に固定される。パチン、と黒い樹脂製のケースのラッチが外れる。その乾いた音が、密閉された個室の厚い壁に跳ね返って低く響いた。
ハンスの隣に座るレイナは、穏やかな表情を崩さないまま、二人の挙動を観察している。男の膝が、期待によって前傾していた。女の細い指先が、今にもそのケースをひったくりそうなほど不規則に、膝の上で動く。焦燥と貪欲が、彼女の赤い唇を歪ませている。
ハンスは彼らの視線を受けとめてから、重厚な机の上でケースを静かに開いた。
内側の緩衝材の上に収められていたのは、1枚の装飾爪だった。透明なその表面、爪の根元には小さな銀の結晶が3粒飾られている。
「これに『ちょっとしたコード』が刻まれていましてね」
ハンスはそのケースを、指先で男のほうに押しやった。男の視線がケースを追いかける。
「ほう…」
男は待ちきれないといった様子でケースをつかみ取ると、まじまじとそれを覗き込んだ。女も男の肩越しに顔を突き出し、その装飾爪を凝視する。バイザーのホログラム・ノイズ越しでも、彼らの瞳が異様な熱を帯びていくのが分かった。
「もしよろしければ」
ハンスが言い、僕に視線で合図を送った。僕は一歩前へ進み出ると、男は、やや躊躇する様子を見せた。だが、もう一度ケースの装飾爪を見やり、喉を動かしてから“左手”を僕の方へと差し出してきた。ノアと同期した視界の裏側に、男の差し出した左手の波形が映る。それは一般的な装飾爪だ。しかし、男が机の下に隠している右手の装飾爪には、偽装コードのパルスが赤くマークされて僕の網膜に明滅していた。
僕は小さく頷くと、指先を男の左手へと伸ばした。僕の爪先から青い火花がパチパチと散り、チチ、と小さな摩擦音が響き、用意してきた偽物の装飾爪が、男の左の爪へと被せられた。だが、これには“ちょっとしたコード”など一切刻まれていない。これは、彼らの欲を釣るための、ただの“餌”に過ぎない。
「…本当にこれで?」
男は自身の左手を持ち上げ、指先を光に透かしながら、疑わしげな声を漏らした。隣の女も首を伸ばしてその装飾爪を眺め回している。
「お疑いなら試してみられるといい」
ハンスはクラバットを直しながら、傲然と言い放った。その声に押されるように、男が立ち上がる。レイナも誘うように微笑み、ドレスの裾を揺らして席を立つ。
個室の重い扉が開かれ、僕たちは、賭博場の中心部へと戻っていった。男とその愛人が、中央に据えられた「定義の回転盤」の席へと再び腰を下ろす。
「賭け式を固定してください」
ディーラーの声とともに、鉄盤が猛烈な速度で回転を始める。僕はハンスの背後に直立し、足の裏に力を込めた。
(ノア、共鳴開始)
『了解。共鳴率30%』
視界の端が白く焼き切れるような錯覚。僕は奥歯を噛み締め、呼吸を止めた。回転盤の真下、11区の心臓炉から引かれた細い導線の束に、もう一度パルスを送り込む。
男が椅子の肘掛けをきしませ、バイザーのノイズの奥で息を呑んだ。
二度、三度。回転盤が回るたび、僕の共鳴によって男のダイスは「青域」へと導かれ、チップを卓上に山と積み重ねていく。
「信じられん…!」
男の口角が、吊り上がった。彼は左手の“偽物”の装飾爪を撫で回し、チップの山をうっとりと見つめる。その傍らで、愛人の女が貪欲な目をさらに爛々と輝かせ、男の腕にしがみつく。
「…そろそろ」
男の対面に腰掛けたハンスは笑みを含んだまま、男に声をかけた。僕はふらつきかけた体を立て直し、後ろで組んだ手に力をこめる。
「いや、まだ…」
男が名残惜しげにダイスを指で弄ぶ。女は男の左手を、もぎとろうとするかのように両手で握り込んだ。ハンスは立ち上がり、男に近づいた。肩にさりげなく手を置くふりをして、彼が指先に力をこめるのが分かった。
「お話があります」
ハンスの声には、有無を言わせぬ圧があった。男のスーツの肩の布地が軋み、ぐしゃりと皺が寄る。ハンスの右手に施された塗装に、小さな罅が入った。その手の重さに観念したのか、男は席を立った。女の手は、まだ男の左手に絡みついている。
「では、こちらへ」
ハンスは男を促し、ラウンジに向かって歩き出した。僕はチップを回収し、トレイに積み上げる。側を通る客が、その山をちらちらと見るのが分かった。未だ脳が針で刺されたようにちくちくと痛む。レイナが僕に歩み寄る。彼女はそっと僕の肩を叩くと、一度頷いてハンスの背を追った。
『マスター』
(大丈夫だ)
僕は脳内でノアに応えると、トレイを持ってカウンターへと歩を進めた。
僕は、10区と11区の境に向かって車を走らせていた。ハンスが助手席で屑煙草をふかしている。後部座席には、興味深げに窓の外を見つめるセイルが座っていた。
「境界帯ってやつだ」
セイルの内心を察したように、ハンスが口を開いた。窓から見える市民は身なりもふるまいもまるでばらばらだ。11区そのものの煤と油に汚れた作業着を着た男がいるかと思えば、仕立ての良いスーツに身を包んだ男が、長い髪の女を腕に絡みつかせている。
「境界じゃ、区同士が責任を押し付け合う。『こっちの管轄じゃない』ってな。そのせいで一種の“無法地帯”になる」
ハンスは親指で車窓の外を指した。セイルが「なるほど」と頷く。煤けた路地の陰から、こちらの車両のナンバープレートを一瞥した男が、驚いたように肩を強張らせて路地奥へとそそくさと身を隠す。また別の角では、黒い外套を纏った男が、僕たちの車と視線が合うのを拒むように、帽子の庇を指先で目深にかぶり直した。
「普通、10区も11区も、この線の上の面倒事には首を突っ込まねえ。死体が転がってようが、非正規の術式が取引されてようがな」
ハンスがダッシュボードに灰を落としながら、吐き捨てるように言った。首筋の侵食痕が、乾燥した煙に巻かれて微かに黒い脈動を刻んでいる。
僕はハンドルを握り締め、大きく左へと切り返した。車体が低く軋み、車輪が割れたアスファルトの隙間に溜まった泥水を跳ね上げる。僕はアクセルを踏み込む足を緩め、塗装の剥がれた壁の間に車を滑り込ませて、静かにブレーキを踏んだ。
「到着したよ」
ハンスは屑煙草の吸殻を車載のトレイに押し潰すと、ホルダーから携帯端末を引き抜いた。緑色のインジケーターが、彼の指先を淡く照らす。
―あの後、狙い通り帰ろうとする僕らに声をかけてきた女は、あっさりと口を割った。彼女はあの爪を「本物の書き換え触媒」だと完全に信じ込み、男の指先から外した装飾爪を食いつきそうな視線で見つめていた。さらには、ハンスの「これが欲しければ、お前が嵌めているその廃霊の出処を教えろ」という質問に、喉を鳴らして答え、自身の装飾爪をこちらによこした。僕たちの用意した“餌”は、あまりにも上等すぎたらしい。
『女の自供から資金移動履歴を照合。この境界帯の非正規術師から、あの崩壊しかけた廃霊の結晶を買い受けていたことが確定しました』
ノアが淡々と告げる。車から降り立ったハンスが、壁面に走り書きされた店名をぼそりと読み上げた。
「“歪み屋”か」
ハンスは眼前にそびえる建物をじっと見上げた。一見すると、“まっとうな”店だ。外壁は塗り直された形跡があり、境界帯に立ち並ぶ他の屑鉄屋や不法占拠されたコンテナに比べれば、ずいぶん小綺麗に見えた。だが、よく見れば、一階の正面入り口の建付けが怪しい。柱との間に指一本分の隙間が空き、そこから内部の澱んだ空気がかすかに漏れ出している。
ハンスは無言のまま歩を進め、歪んだ扉に手をかけた。躊躇なく横に引くと、ガタガタと建付けの悪い音を立てて、扉はあっさりと開いた。
「…鍵がかかってねえな」
ハンスが低い声で呟き、目を細めた。
「え? この地帯で…?」
僕は思わず声を潜めて疑問を口にした。ここで施錠を怠れば、翌朝には床板まで剥ぎ取られていてもおかしくない。そんな場所で、非正規の術式を扱う店が文字通りの「あけっぱなし」にされているという事実は、奇妙な薄気味悪さを漂わせていた。
ハンスは何も答えず、一番に店内に足を進めた。僕とセイルも、互いに視線を交わしてからその背中に続く。
店内は静まり返っていた。外光を遮断した薄暗い空間の中に、いくつかのガラスケースが冷たい光を放って並んでいる。その中に陳列されていたのは、数多の“宝石”だった。カッティングを施された赤や青、緑の光彩を放つ結晶の群れ。しかし、それらの下に添えられた値札を見た瞬間、僕は自分の目を疑った。
「…これ、ありえないほど安い。11区のジャンク品より安いよ」
「ああ、まともな品じゃねぇな」
ハンスがケースを覗き込み、吐き捨てるように言った。あの愛人の装飾爪。その基部に埋め込まれていた、白濁した亀裂を持つ廃霊の重結晶。それは、ここに並んでいる“宝石”の一つだったに違いない。
「すいませーん…? 」
僕は店内の奥へと続く通路に向かって、少し声を張り上げて呼びかけた。だが、返って来る反応は無い。
『マスター。奥の区画に生体反応1体を確認』
携帯端末のスピーカーから、ノアの硬質な声が響く。
「…寝てんのか?」
ハンスが眉間の縦皺を深くし、苛立ちを隠そうともせずに、無造作に店の奥へと歩みを進めた。通路の突き当たり、一枚の厚い鉄扉の手前まで来たとき、鋭いアラート音が鳴った。ノアが僕らの視界の最前面に、警告の赤色ログを直接投影する。
『警告。霊揮率が危険域に達しています。全員、ただちに遮断膜を』
ハンスが舌打ちをし、左手の爪から青白い火花を散らす。僕とセイルが遮断膜を展開し終えたのを確認すると、ハンスは右手をネイルガンのホルスターに手をやった。彼は僕とセイルを後ろに下がらせると、左手で扉のレバーを引き絞り、一気に開け放った。
ハンスの沈黙に、僕は首を伸ばして扉の向こうに目を凝らした。そこは、廃霊宝石の細工場と思われる一室だった。
部屋の一角には広い作業台が据えられており、その上には研磨用と思しき道具と、「白い塵」が雪のように降り積もっている。人工的な青や赤の顔料の滴が点々と斑点を作って、作業台だけでなく、椅子の脚や床を汚していた。
部屋の中央、切削機のすぐ横の床に、一人の男が倒れ伏していた。その右手は不自然な角度に硬直している。
ハンスが一歩部屋に踏み込む。カタリ、と小さな音がして、僕とセイルからは死角になっている場所で何かが動いたのが分かった。
「誰だ」
ハンスがネイルガンを引き抜きながら低い声で問う。足音と共に、一つの小柄な人影が倒れ伏す男のそばにかがみ込んだ。その影はフードを頭から深く被り、素顔は一切見えない。
「残念だけど、死んでるよ、彼」
人影は、手にしていたピンセットで床の白い塵をつまみ上げ、ひどく退屈そうな声で言った。




