log71.終端の個室
ハンスの手元には、黒いチップの山が連なっている。彼は表情を変えることなく、僕に指先で合図した。
「換えてこい」
「はい」
僕は短く答え、チップの山をトレイに積む。ハンスも軽く首を回して立ち上がった。
「ねえ、私、ちょっとお腹が空いたわ」
レイナがハンスの肘に腕を絡めながら言う。ハンスは頷き、ラウンジに向かって歩きだした。狙い通り、彼らの後を何名かの客が追いかける。それだけ、ハンスの「運の良さ」は異常だった。
僕はトレイを持ち、中央の鉄盤から離れて歩き出した。トレイの上には、先ほどの大勝ちで手に入れた黒いチップが小山のように積み上がっている。排気ダクトからの微振動が、絨毯の下から僕の靴底を通じて細かく伝わってきた。トレイの上でチップがチリチリと小さく鳴る。
(ノア、周囲の走査を継続)
『了解』
「―あっ」
僕はわざとらしく声を上げ、絨毯の継ぎ目に靴の爪先を引っ掛けた。上体が前方に傾ぎ、両手のトレイが大きく傾く。トレイから滑り落ちた数十枚のチップが、乾いた音を立てて床一面へと派手にぶちまけられた。何枚かのチップが近くの客の靴に当たり、カツンと硬質な音を立てて転がっていく。
「すみません! すみません、すぐに片付けますから…!」
僕は大慌てを装いながら、黒い防塵クロスの床に両膝と両手を突き、チップをかき集め始めた。周囲のいくつかのパーテーションから、不快そうに舌打ちをする声や、低く迷惑そうな唸り声が漏れる。ホログラム・バイザーのノイズに隠された視線が、一斉に僕の頭上へと突き刺さるのが分かった。
「まったく、不手際な使用人だ」
「11区の労働者をそのまま連れてきたんじゃないのか?」
そんな罵声に「申し訳ありません」と平身低頭で応じながら、僕の網膜の裏側では、ノアの走査回路が働いていた。床に散らばったチップを拾い上げる僕の視線は、謝罪の合間に、客たちの足元からその指先へと素早く向けられる。
視界の端で、天井のスリットから漏れる細い瀝星光の青い光が、客たちの手元を照らす。彼らの指先に貼り付けられた“装飾爪”。僕の網膜には、それらの「構造」が透過して映し出されていた。
(…ただの“装飾爪”じゃないのが何名かいる)
僕は床に指先を滑らせながら、脳内でノアに話しかけた。
『肯定。走査対象の32%に術式溝を感知。内部に秘匿回路が仕込まれています。CMRの検閲を掻い潜るための偽装コードです』
さらに観察を続ける。僕のすぐ右側のパーテーションの陰では、バイザーで顔を隠した二人の男が、「握手」を行っていた。彼らの装飾爪の先端が接触した瞬間、微細なパルスが爆ぜ、内部の暗号化されたデータが音もなく移動していく。
また別のテーブルでは、男が装飾爪の先でカジノの送金端末を操作していた。指先が画面に触れるたび、偽装コードを通じて、膨大な額が送金されていくログがノアの視界を通じて僕に流れ込んでくる。
だが、これらは今回の目的じゃない。
(ノア、廃霊の波形は?)
『…現在の走査半径には該当するエラー波形を確認できません。すべて通常の偽装コード、あるいは純粋な贅沢品です』
「―これで、全部です。お騒がせいたしました」
僕は最後の1枚をトレイに収めると、衣服を軽く払って立ち上がった。迷惑そうに顔を背ける客たちに再度深く頭を下げ、そのまま中央のカウンターへと移動する。トレイに載った黒いチップの山を無機質な鉄の机に預けると、ディーラーの男から、引き換え用タグを渡された。刻まれた数字は「108」。
その時、僕の耳に固定された小型通信機の奥から、高周波のノイズと共にハンスの低く掠れた声が滑り込んできた。
『イレブン、ラウンジ側へ回れ』
僕はインカムのスイッチを左手の指先で小さく弾く。従業員用の狭い通路を通り、パーテーションで区切られた共有スペースのさらに奥へと足を運ぶ。
そこは、針の終端の最奥に位置するラウンジだった。床一面には、光を吸い込むような厚手の黒い絨毯が敷き詰められており、排気圧の微振動がここでは完全に殺されている。仕立てのいい衣服を纏った人間たちが、酒のグラスを片手に、静かな声で談笑していた。
しかし、その光景は異様だった。誰も彼もが、目元をホログラム・ノイズのモザイクで覆われており、口元だけを動かして笑い合っている。素顔を晒しているのは、給仕を行うカジノ側の従業員だけだ。
前方からハンスとレイナが歩いてくるのが見えた。彼の肘に手を絡めるレイナの夜色のドレスが、天井の細い青光を浴びて艶やかに揺れている。ハンスが用を言いつけるふりをして、僕のすぐ傍らに寄る。彼のバイザーの奥の、鋭い光が、僕の視線を捉えた。彼は僕に空のグラスを預ける動作の最中、唇だけを僅かに動かし囁いた。
「―あの女の爪だ。1時の方角、革のソファの席」
僕は視線を大きく動かさないよう注意しながら、さりげなくその方向を見た。ラウンジの壁際、重厚なソファに、壮年の男にしなだれかかるようにして座っている女がいた。女は男の胸元に自らの右手を遊ばせている。
僕はハンスとレイナから空のグラスをトレイへと回収し、「かしこまりました」と頭を下げる。
『マスター、感知しました』
僕はトレイを持って、ゆっくりと歩む。その女の横を通り過ぎる時、脳内でノアの声が響いた。
『重結晶化された多面体の基部より、情報の飽和による崩壊エラーを確認。間違いありません。―廃霊の結晶です』
僕の網膜に、女の爪先が赤くマークされた波形となって映し出される。その皮膚の境界線、指の肉が微かに白っぽく変色しているのが分かった。侵食は既に始まっている。僕は口元を引き結び、空のグラスのトレイを近くの従業員に預けると、代わりに新しく銀色の発泡酒が満たされたグラスのトレイを受け取った。
(ハンスさん、あたりだ)
インカムの周波数を絞り、思考を伝える。
『了解した。…おい、イレブン。派手にやれよ』
ハンスの低い声が応じる。
僕は、再びあの女が座るソファへと歩み寄った。女は男の耳元で甘い声を出しながら、“装飾爪”の指先で男の衣服をなぞっている。
僕は自身の靴底を滑らせ、トレイごと身体を大きく傾けた。
「うわっ…!?」
僕の手から離れたトレイが宙で反転し、ガラスの砕ける鋭い音がラウンジの静寂を切り裂いた。それと同時に、グラスに満たされていた銀色の冷たい液体が、放物線を描いて女のドレス、そして男の高級な上着の袖口へと、容赦なくぶちまけられた。
「な、なんだ貴様はっ…!?」
壮年の男が弾かれたように立ち上がり、喉を震わせて怒声を上げた。ドレスを濡らされた女も短い悲鳴を上げ、濡れた布地を摘み上げながらホログラム・バイザーの奥から刺すような不快感を剥き出しにする。
「申し訳ありません! 申し訳ありません…!」
僕はトレイを床に落としたまま、何度も頭を下げた。ラウンジ中の客たちの視線が、一斉にこの騒動へと集まる。
「おい、どこの使用人だ! 一体どういう教育を―」
「おっと、そのへんで」
激昂する男の言葉を遮るように、威圧的な低い声が響いた。絨毯を静かに踏みしめながら、ハンスとレイナが僕の前に進み出てくる。レイナはドレスの裾を揺らし、バイザーの奥から冷ややかな視線を男へと向けた。
「うちの者が大層な不手際を働いたようね。お怪我はなくて?」
レイナとハンスの出現に、男の怒声が途中で詰まった。彼の視線が、ハンスのダークグレーのスーツ、そしてその指先の装飾爪へと移る。
「君は…さっき、鉄盤の席で『青域』に賭け続けていた…」
男の声の色が変わった。驚きと、そしてそれ以上の、隠しきれない「貪欲さ」が漏れ出ている。彼は、ハンスの隣のレイナにもちらりと視線を走らせた。
「ずいぶん、“運が良い”ようだね。君は。あそこの鉄盤の傾斜を、完全に無視してみせた」
男は濡れた上着の袖を従業員に拭かせながら、含みを持たせた目でハンスを値踏みする。単なる幸運ではない、何らかの手段―イカサマではないのか、という疑惑と興味。ハンスは、クラバットに隠された首筋を僅かに動かし、喉の奥で小さく、低く笑った。
「少しばかり、コツがありましてね」
ハンスの声には、明確な「含み」が宿っていた。対面する男の口角が、分かりやすく吊り上がる。
「…ほう? コツ、かね」
「お召し物を汚してしまったお詫びだ」
ハンスはそう言うと、僕を視線で促し、男へと一歩近づいた。
「ここでは少しばかり喉の通りが悪い。よろしければ、奥でその『コツ』について、お話しいたしましょうか?」
男は笑みを含んだまま頷いた。隣の女が廃霊結晶のきらめく指先を動かす。
「いいだろう。君のような『運の良い』男の話なら、ぜひ聞きたい」
ハンスは近くの従業員へと目配せをし、低く命じた。
「個室を一部屋、手配しろ」
「かしこまりました。こちらへどうぞ」
従業員が深く頭を下げ、さらに奥へと続く重厚な気密扉へと歩き出す。その後に続くハンスとレイナ、そしてドレスの裾を気にしながら男にしなだれかかる女。
僕は床に落ちたトレイを静かに拾い上げると、彼らの影に隠れるようにして、ひっそりと背中を追った。




