log70.針の終端(ニードル・エンド)
炉心室で、自身の「使用人」としての上着を整えながら、僕は目の前の二人を観察した。ハンスとレイナ。彼らが纏うのはいつものCMRの制服ではない。
ハンスが纏うのは織目の詰まったダークグレーのスーツだ。仕立ての良いそのスーツは、彼の厚みのある両肩の輪郭を硬質に縁取っている。その首元には、首筋まで這い上がった黒い侵食痕を完全に遮蔽する、絹織りの黒いクラバットが隙間なく巻き付けられていた。
その傍らで、レイナが栗色の髪を頭頂部でまとめ上げ、細い首筋を露出させていた。深い夜色のドレスが、彼女の歩行に合わせて艷やかに光を撥ねる。かつて黒都の監査官として背筋を伸ばしていた頃からの、端正な立ち姿。その静謐な気品が、彼女に上流階級そのものの雰囲気を醸し出させていた。
「…少し派手じゃないかしら」
レイナが薄い唇を動かし、自身の右指を見つめた。その指先には、ダミーの装飾爪が固定されている。彼女自身が重結晶化した銀の結晶を飾ったものだ。光を吸い込んだ銀の粒子が、彼女の繊細な指の動きに伴って細かく爆ぜるように明滅した。
ハンスは無言のまま、右手の五指をゆっくりと曲げ、それから伸ばした。彼の右腕の皮膚には、義肢の潤滑油として使われる結晶油に顔料を混ぜた、特殊な被膜が密着している。煤蜂の侵食痕を隠蔽するための人工の皮膚は、まだ硬化しきっておらず、関節のシワに合わせて鈍い光沢を歪ませていた。
「どうみても、『上流階級のカップル』だ」
僕はニヤニヤしながら、視線をハンスの右手に落とした。
「仕草が硬いよ、ハンスさん。あんまり大きく動かすと、せっかくの塗装が剥がれ落ちる」
「うるせえ」
ハンスは眉間に縦皺を寄せている。レイナと同様に、ダミーの装飾爪が被せられたその指先がいらいらと作業台を叩いた。
作業台の横に立っていたニコが、弾かれたように顔を上げた。ニコの視線はハンスからレイナに移り、彼女と目が合うと、彼の頬が微かに赤らんだ。ニコはうつむき、肩を縮めるようにして右手の制限器をいじった。
部屋の隅では、セイルが微かな不満を唇に溜めている。15歳の彼は、夜の賭博場に蠢く高官や商人の群れに混ざるには、あまりにも記号として不適合だった。
『マスター、業務外の口頭介入を制限します。ハンスの精神波形を乱す行為は推奨されません』
光の収束とともに現れたノアの淡いホログラムが、僕のすぐ後ろから平坦な警告を投げかけてきた。僕は肩をすくめて、上着の襟を正し、自身の「使用人」としての衣装をもう一度確認した。
賭博場、針の終端。10区と11区を分かつ防護隔壁の基部、旧型の巨大排気ダクトの通る地下空間にその場所はあった。
僕の運転する0区仕様の官用車が、店の裏手に静かに停車した。これが11区の傷だらけの官用車であれば、即座に警備の人間に追い出されていたことだろう。今回のハンスやレイナの衣装が用意できたのも、カウスの「援助」のおかげだ。
僕の胸の奥には、彼への嫌悪と反発が常に沈殿している。しかし、その特権が、今こうして僕たちの身分を偽装し、目的地への侵入を保証しているという現実は認めざるを得なかった。
僕は無言のまま運転席のドアを開けて外へと降り立ち、車両の排気熱がアスファルトを揺らす中、後部座席のドアへと回り込む。上着の裾を軽く整えながら、僕は左手で重いドアのラッチを静かに引き絞り、「旦那様」たちの降車を促した。
まずハンスが、続いてレイナが外に降り立つ。二人の目元を覆うのは「ホログラム・バイザー」だ。極小のスロットから放射されるホログラム・ノイズが、彼らの目元と顔の上半分の輪郭を不規則に歪め、素顔を完全に遮蔽する。 上流階級の不貞と遊興を隠すための装置。口元と顎だけが元の形を保っている。
「こちらへ」
黒服の従業員が、声のトーンを落として歩み寄る。 その視線は、ハンスのスーツの仕立てと、レイナの指先の銀の装飾爪を素早く値踏みしている。 従業員は僕の存在など最初からそこにないかのように完全に無視し、ハンスたちの前で深く頭を下げた。
「奥へどうぞ」
従業員の先導に従い、僕たちは店舗の裏手に直結された狭い通路へと足を踏み入れた。
壁の向こう側からは、酒で荒れた声の怒号や、鉄盤の上を滑るダイスの微かな摩擦音が、こもった振動となって伝わってくる。 しかし、その安っぽい喧騒は、僕たちが奥に進むにつれて徐々に遠ざかっていった。
通路の終端にある、重厚な気密扉が油圧の音を立てて開かれた
乾燥した空調の風が吹き抜けるその「奥」は、喧騒を遮音壁で完全に殺した、黒い防塵クロスが四方を覆う空間だった。
パーテーションで区切られた共有スペースには、ホログラム・バイザーで顔を隠した上流階級の人間や、その愛人たちが静かに佇んでいる。天井のスリットから漏れる細い瀝星光の青い光が、客の手元だけを直線的に照らしていた。
ハンスは無言のまま、衣服のポケットから一枚の細い札を引き抜いた。高密度に精製された最高額の瀝星の塊―「星札」である。見た目に反してずっしりと重いそれを、ハンスは従業員が差し出した真鍮製のトレイへと静かに置いた。 従業員が頭を下げ、トレイにチップを乗せて戻ってくる。
僕はトレイを受け取ると、ハンスとレイナの後ろに従って店内を横切った。薄暗い空間で、客の指先の装飾爪が小さくきらめく。ハンスは、中央に鉄盤が据えられた席へと腰を下ろした。
―定義の回転盤だ。
その鉄盤の軸に、爪に琥珀を飾ったディーラーが触れている。僕がトレイを置くと、ハンスがチップをつまみ上げ、指先で弄んだ。
(―ノア、共鳴開始)
『了解。共鳴率、30%』
ノアが脳内で答える。僕はハンスの背後に控えながら、足を踏ん張った。脳の奥を、細い針で直接突かれたような冷たい痛みが走る。僕は無表情を維持したまま、意識の端をこの賭博場の下層へと滑り込ませた。
視界の裏側で、現実の風景が急速に色褪せていく。代わりに浮き上がってきたのは、壁の裏や床下に張り巡らされた、無数の配管と配線の網目だった。流体の摩擦熱と、心臓炉の拍動が、僕の神経に直接流れ込んでくる。
『解析完了。本施設の主動力および駆動系は、11区側の心臓炉のバイパス配管より直接調達されています』
ノアの無機質な声が、脳内で告げる。11区の乏しいエネルギー。それが、防音壁で隔てられたこの閉ざされた空間で、高官たちの贅沢な遊興と、怪しげな資産のやり取りを維持するためだけに消費されている。胸の奥が縮むような、やり場のない感情が喉につまる。
(…いや、今はこれでいい)
目的は、派手に勝つか負けるかして、ハンスに店内の注目を集中させることだ。
もしこの店のエネルギーが、10区の心臓炉から供給されていたら、ハンズには“負けて”もらわなければならないところだった。だが、11区の配管網がここまで伸びているのなら、ノアと共鳴できる僕にとって、“イカサマ”は容易い。
『接続先を特定。鉄盤直下の制御ユニットへ至る分岐点、「配線a24-002」です』
ノアが配線を青くマークする。脳裏に、回転盤の真下に位置する細い導線の束が、鮮明な青い光の線となって浮かび上がった。
ハンスがバイザーの奥の視線を、僅かに僕へと巡らせた。僕は小さく深く、首を縦に振った。
「―賭け式を固定してください」
ディーラーの、感情を排した乾いた声が空間に響く。ハンスは無言のまま、手元の黒いダイスを指先でつまみ上げた。彼の指先に被せられたダミーの装飾爪が、ダイスの表面と擦れ合い、チチ、と小さな青白い火花を散らす。
ハンスはそのダイスを、真鍮のトレイへと滑らせる。隣に座る二人の客―ホログラム・バイザーで顔を隠した壮年の男と、その愛人らしき女も、ハンスの動きに続く。男は白いダイスを、女は青いダイスを、それぞれ指先から火花を爆ぜさせながら調整し、トレイへと放り込んだ。
ハンスはトレイに戻されたチップの山から、最高額の塊を躊躇なく掴み取ると、鉄盤の手前に描かれた三つの定義域のうち、最も確率の低い最奥の領域へと静かに置いた。
「『青域』に全額」
中央の鉄盤の縁には、微細な術式が刻み込まれている。縁に彫られたコードの干渉によって、白域、黒域、青域の順にダイスが引き寄せられやすい傾斜が最初から仕組まれている。青域は、最もダイスが弾かれ、固定されにくい不利な定義域だった。
隣の男がバイザーの奥で鼻で笑うような気配を見せ、自身のチップを順当な「白域」へと厚く積み上げた。
「締め切ります」
ディーラーが告げると同時に、その爪の先から一際強い青白い火花が爆ぜた。ガチ、と内部の変速ギアが噛み合う重質な音が響き、中央の鉄盤が猛烈な速度で回転を始める。ディーラーの手から放たれた三つのダイスが、鉄盤のレールへと滑り込み、カラカラと硬質な摩擦音を立てて転がり始めた。鉄粉の焦げる特有の臭気が、乾燥した空調の風に乗って僕の鼻腔を突く。
ダイスとダイスがぶつかり合い、火花を散らしながら、回転速度が急減速していく。縁のコードがダイスの軌道を強引に捻じ曲げ、ハンスの黒いダイスが青域の境界線で激しく弾かれようとした。
(ここだ)
僕はその瞬間、ノアがマークした配線に、心臓炉からのパルスを送り込んだ。脳髄に火花が散ったような錯覚に襲われる。僕はハンスの背後で、歯を食いしばった。
回転盤の直下、11区から引かれた駆動モーターが軋む。黒いダイスは、まるで磁石に吸い寄せられるように、「青域」のコードの溝へとピタリと食い込んで固定された。ほか2つ、白と青のダイスはともに「白域」に止まる。
「…ッ」
僕の膝が微かにぐらつく。視界が一瞬だけ暗転しかけた。
「―あら」
レイナが声を上げた。彼女は優雅な所作で自身のドレスの裾を揺らしながら、唇に指先を当てた。
「少し、喉が渇いたわね。冷たいものをお願いできるかしら?」
レイナの指先で、ダミーの銀の装飾爪が天井の青い光を浴びて艶やかにきらめく。
「あ…は、はい。ただいま」
従業員は、レイナに気を取られ、僕の異変に気づくことなく、慌てて頭を下げて下がっていった。
鉄盤の周囲から、押し殺したような、しかし確実などよめきが漏れ出た。男が椅子の肘掛けをきしませ、バイザーのノイズの奥で目を剥くのが分かった。最も確率の低い「青域」への全額的中。それは、この盤の特性を知る者からすれば、あり得ないほどの「運の良さ」だった。
「お待たせいたしました」
戻ってきた従業員が、トレイから銀色の発泡酒をレイナへと差し出す。レイナはそれを滑らかな動作で受け取ると、バイザーの隙間から覗く薄い唇を僅かに湿らせた。その様子を見ていた男とその愛人も、張り詰めた空気を紛らわせるように、つられたように酒を注文し始める。
「―配当を」
ハンスの言葉に、ディーラーは無言のまま、爪の先で盤面のコードを確認すると、外れた他の客のチップを容赦なく手元へと回収した。そして、ハンスの賭けた黒いチップの横に、その数倍に膨れ上がったチップの山を静かに積み上げる。
ハンスは戻ってきたチップの山を一瞥もせず、そのすべてを、再び同じ場所へと押し戻した。
「もう一度、『青域』だ」
ハンスはダイスを手に取り、爪から青白い火花を散らせた。




