log69.擬石の端緒
11区の射撃場で、銃声が続けて響いた。
コンクリートの隔壁に囲まれた幅二メートルの射線。その最奥に吊るされた鉄板が、断続的な衝撃によって激しく震え、背後の防弾壁に金属特有の乾いた残響を叩きつけていた。
指先に象嵌された「生体由来」の結晶爪が、ネイルガンのトリガーガードに接触するたび、青白い火花が散った。
鉤爪は二〇メートル先の空間を切り裂き、的の中央に穴を開けた。次の一発が、最初の弾痕の縁を削りながら全く同じ座標へと吸い込まれていく。
四発、五発。すべて中心が撃ち抜かれた的を見ても、ハンスは表情を変えず、無言で次の弾を装填した。
『ハンスさん』
耳に固定された小型通信機ごしに、イレブンの声が鼓膜を震わせた。高周波のノイズが混ざったその声は、炉心室の乾燥した空気をそのまま運んでくる。
ハンスは左手で小型通信機のスイッチを押し、低く掠れた声で応じた。
「…何だ」
『例のものの解析が終わったよ』
スピーカーの奥で、イレブンがコンソールを叩く規則的な音が二度、背景音として割り込んできた。データの受領を示す緑色のインジケーターが、小型通信機の側面で小さく明滅する。
「分かった」
ハンスは短くそれだけを言うと、接続解除のボタンを左手の指先で弾いた。彼は的を一瞥すると、ネイルガンを腰のホルスターへと無造作に納めた。
***
麻酔が切れるまでの間、ハンスは暇つぶしに店内を見て回っていた。メルが手がけた精巧な義爪が整然と陳列されている。そのある一角で、ハンスの足が止まった。
「…んだ、こりゃ」
合成樹脂の硬質な光沢、その表面に散りばめられた赤や青の色ガラスの粒。全体に過剰なまでの研磨が施され、本来の義爪が持つべき術式溝はどこにも見当たらない。
「ああ、最近流行ってるんだよ。装飾爪。重結晶の義爪を、色石やら貴石やらで飾ったものだね」
研磨機を片付け終えたメルが、深い琥珀色の作業着の袖を乱暴に捲り直しながら、ハンスの背後へと歩み寄ってきた。彼女の蜜色の瞳は、自身が並べたその過飾な造形物をどこか冷めた目で見つめている。
ハンスはポケットの中で、まだ感覚の鈍い右の指を僅かに動かした。接合部を埋めた煤蜂の蜜蝋の匂いが、鼻腔の奥に僅かに残っている。
「使えるのか?」
「ただのアクセサリーだよ。爪の上に被せるだけさ」
メルは鼻で笑うようにして言った。彼女の丸みを帯びた琥珀色の爪が、ガラスケースの表面を軽く叩く。硬質な音が二度響いた。ハンスは理解できない、という表情を隠そうともせず、眉間の縦皺を深くしたままその装飾爪を見やった。爪という生体端子について、実用性を完全に放棄し、ただ飾るためだけに手間と金をかける行為が、彼の思考とは致命的に噛み合わなかった。
ハンスの内心を察したのか、メルは「そういえば」と小さく呟き、カウンターの奥にある重厚な鋼鉄製の保管庫へと向かった。ロックが解除される金属音が響き、彼女は一つの小さな黒い布ケースを手に戻ってきた。
「これ、見たことあるかい?」
メルは布ケースのジッパーを滑らせ、内部の緩衝材から一枚の義爪を取り出した。
「たちの悪い装飾爪だ。私の作った装飾爪の細工を付け替えてる。結局これをつけてた客は、右手の人差し指の爪を摘出する羽目になったらしい」
ハンスがその爪を覗き込む。半透明のネイルチップ、その中央に据えられた、青く宝石のようにきらめく多面体。それは光を透過させず、内部に白濁した不規則な亀裂を内包していた。廃霊の結晶だ。
「…どこで手に入れた」
ハンスの声の温度が一段、明確に下がった。メルがくすりと笑う。
「有料だよ」
メルはハンスの険しい目付きを正面から受け止める。しかし、ハンスの灰色の瞳の奥にある光が一切揺るがないのを見ると、彼女はすぐに両手を軽く上げて「冗談だよ」と首を振った。メルはハンスの耳元に顔を近づけ、作業着の襟元から特有の研磨剤の匂いを漂わせながら、声を潜めた。
「3区の高官様の愛人」
その囁きは、遮音壁に囲まれた室内の無機質な壁に当たってすぐに消えた。
「彼女、博打狂でね…ついでに、見栄っ張りなのさ」
メルは作業台の縁に腰を掛け、肉厚な掌でその歪な装飾爪を弄んだ。
「…こんなもん付けてたら、爪から侵食されてもおかしくねぇぞ」
ハンスは吐き捨てるように言った。廃霊を孕んだ結晶を皮膚に直接固定し続ければ、待っているのは組織の崩壊と、それに続く廃霊の侵食だけだ。
「そうだね」
メルは深く頷き、その蜜色の瞳を細めた。
「それでね、レイグルさん。あんたにお願いがある」
彼女は爪の表面をピンセットの先で軽く突いた。
「実は“高官様”の方からたんまり積まれて、新しい装飾爪を依頼されたんだけどね…“愛人”の方からは、その細工に使う予定の貴石を、加工前にそのまま私から譲ってほしい、と裏で頼まれたんだ」
「売る気だな」
ハンスの指摘に、メルは「彼女の依頼は断ったけどね」と言い、笑みを深くした。
「それで、私が本当に知りたいのは、この廃霊宝石の正確な出処さ。非正規の術師が横流ししたものか、あるいは彼女自身がどこかの闇ルートと繋がっているのか」
メルは爪をハンスの目の前に掲げた。
「こんな不気味なもん、私の店で売ってたなんて勘違いされたらたまらないからね」
ハンスは無言でメルからその装飾爪を受け取った。親指の腹で裏面をなぞると、そこには確かにメルの技師サインである微細な刻印が刻まれている。しかし、表側に固定された廃霊結晶の基部には、元の細工を無理やり剥がし、強引に固定し直した歪な盛り上がりと摩擦痕が残されていた。
「あんたにとっても、高官様の弱みを握れるのは悪くないだろう?」
メルの垂れ目がちの目が、観察するようにハンスの顔色を伺う。
ハンスはそれ以上何も言わず、指先の中にある装飾爪を確かめると、メルへと言葉を返す代わりに爪を彼女の掌へと戻した。メルは満足そうに微笑み、それを専用の樹脂ケースへと収めると、パチンとラッチを閉めてハンスの左手へと滑らせた。
「麻酔が切れるまで、あと十五分だね」
メルは作業台のレバーを回し、次の作業のための準備を淡々と始め、ハンスは黒いケースをポケットの奥へと押し込んだ。
***
「やっぱりこれ、廃霊の結晶で間違いないよ」
僕はその廃霊の“宝石”をピンセットでつまみ上げながら言った。
「カッティングして、中に青色の顔料を入れてる」
コンソールのバックライトが、不自然に成形された多面体のエッジを鋭く照らし出す。透過性のない結晶の奥で、人工的な青の粒子が白濁した亀裂を覆い隠すように沈殿していた。
ハンスは炉心室の壁に背を預けたまま、右手の指を僅かに曲げた。
『未熟な重結晶化です』
空間に光の粒子が収束し、ノアのホログラムがコンソールの傍らに像を結んだ。彼女の琥珀色と青の双眸が、結晶から放射される微弱なエラー波形を静かに走査する。
『再構成が不完全です。情報の質量化が基部で飽和を起こし、術式の構造が崩壊しかけています』
「正規の術師じゃなさそうだ」
僕はピンセットを置き、画面に表示された波形をハンスへと向けた。波形は歪にゆがみ、ノイズの塊を示している。
「他に分かったことは?」
ハンスの低く掠れた声が、炉心室の低い駆動音に混ざる。
「…いや、これだけ」
僕は首を振った。
コンソールのキーを叩き、データベースの網をさらに広げたが、戻ってきたのは無機質な拒絶を示す赤色のアラートだけだった。
「その賭博場に行ってみるしかないんじゃない?」
僕の言葉に、ハンスは眉間の縦皺を一段と深くし、灰色の瞳を僅かに細めて僕を睨みつけた。
「お前、なんでそんな乗り気なんだ。というか、そんな暇あるのか?」
「あるよ」
短い返答とともに、僕はコンソールの画面を切り替えた。画面に並ぶのは、上層部への形骸化した定期報告書の束と、すでに「動作不良」が定常状態となった機器の静止したログだけだ。
11区は、殺人的に忙しいか、殺人的に暇かのどちらかしかない。白い雨が配管を破裂させ、あるいは廃霊が暴走すれば、乏しい人員と物資を磨り潰して死線に立つことになる。しかし、一度それらが収束してしまえば、やることといえば上層部への定期報告くらいしかない。機器のメンテナンスを試みても、交換用のパーツ自体が不足しているため、摩耗していく金属をただ見つめることしかできない。
―最近は、カウスの援助により、多少改善しつつあるが。
ハンスは何も言わず、ただ首筋の侵食痕を軽く搔いた。
「まあ、行ってみようとは思ってたが」
ハンスはぼそりと呟いた。その視線が、僕の顔へと移る。
「…面白そう、って顔に書いてあるぞ、イレブン」
「まさか」
僕は視線をコンソールへと戻したが、指先が触れるキーの冷たさが、胸の奥にある妙な熱を自覚させていた。
カウスから押し付けられた「仕事」―人間を部品として処理するあの男の絶対的な権力に対する、行き場のない鬱憤と嫌悪。それを、3区の高官や怪しげな術師が蠢く賭博場の裏側へとぶつけようとしている自分に、薄々感づいていた。
ハンスは小さく、重いため息をついた。
「行くなら、ニコの制限器の調整が終わってからだ」
「分かってるよ」
僕は頷き、画面のログを閉じた。炉心室の乾いた空気の中で、ケースに収められた偽物の宝石が、静かに光を反射し続けていた。




