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星痕の炉心―死刑囚は第11区の神として、崩壊都市をデバッグする―  作者: 百舌
10章:義爪技師(ネイル・グラインダー)
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log68.暗がりの街に、意図は巡り

後日、カウスから「お礼の品」が届いた。


ニコが、ケースから取り出したばかりの腕輪型の制限器リミッターを確かめている。そして、作業台の上のもう一つのケースを見て、ハンスが顔を顰めた。


ハンスの硬い指先が、黒い樹脂製のケースのラッチに触れた。パチン、と乾いた音が炉心室の低い駆動音に混ざる。


蓋が開かれ、内側の灰色の緩衝材が剥き出しになった。そこに収められていたのは単なる触媒の塊ではなかった。


人間の爪の形。五指分の結晶。それが整然と横たわっている。それは、以前ハンス自身が失った「爪」であり、同時に、数日前までバルド・オストの右手にあった生体端子バイパスそのものだった。


ハンスの顔が、目に見えて歪んだ。

額に深い縦皺が刻まれ、露骨な嫌悪の情がその灰色の瞳に浮かぶ。


僕はその横顔を見つめながら、奥歯を噛み締めた。

ハンスが何を思い、何を見ているのか。僕はコンソールの縁を握りしめる。3区共振実験。あの最悪の事故。彼にとって、「人間の肉体を部品として扱うこと」は、決定的なトラウマだった。


「…いらねぇ」


ハンスの低く掠れた声が、室内の乾燥した空気を震わせた。彼はケースの蓋を閉じることさえせず、汚物でも退けるように、手の甲でそれを机の向こうへと押しやった。


「あ、ハンス、さん…」


作業台の傍らで自分の制限器リミッターを弄っていたニコが、弾かれたように顔を上げ、おろおろと視線を彷徨わせた。


空間の光子が乱れ、ノアの淡いホログラムがハンスのすぐ横にスライドした。その琥珀色と青の双眸が、冷徹な光を湛えてハンスを見下ろす。


『ハンス』


ノアの声は、いつも通りの硬質な平坦さだった。


『合理的思考を求めます。データベースの照合結果を提示。あなたは“以前”、銃の名手でした』


ハンスは右手を握りしめた。


「おい、ノア…」

僕が口を開くが、ノアの声は止まらない。


『左手によるネイルガンの射撃精度は、本来のあなたの基準値から47%低下しています。前回の作戦時のことを考慮してください』


ハンスは何も言い返さず、ただ黙り込んだ。その事実は、誰より彼自身が理解しているだろう。爪の無い右手では、通霊を必要とするネイルガンを扱うことはできない。

一括りにされたハンスの灰色の髪が、うつむいた拍子に肩から零れ落ちる。彼の首筋の侵食痕が、激しい葛藤を示すように脈動していた。失った爪の代償。過去への拘泥。現実の危機。それらが彼の胸中で軋み合っているのが、見ているこちら側にも伝わってきた。


「…俺なら、使います」


静かな声が炉心室に響いた。

ハンスが顔を上げる。セイルが一歩歩み寄った。

セイルの右腕の袖口から、結晶痕が明滅している。彼は右の爪から銀の火花を散らした。かつての暗銀の正八面体オクタに代わり、その右手から生成されるのは銀の正六面体キューブだ。二重波形の宿る右腕。彼はg70の配管に飛び込んで、その右腕でリリィを救い出した。


「…」


ハンスは大きく息を吐き出した。それは諦念というよりは、腹を括った男の重い呼吸だった。彼は再びケースを引き寄せると、それを手荒に掴み取った。見守っていたニコが、息を呑むように肩を震わせる。

ハンスは結晶爪のケースを握り締めたまま、一言も発せずに炉心室の金属扉へと歩みを進めた。扉が閉まる間際、ハンスの背中を追うようにニコが慌てて部屋を飛び出していった。「ハンス先輩、待ってください!」というニコの声が、廊下の奥へと消えていく。

炉心室で、僕は自分の指先を見た。


「…よかったのかな、これで」


ぽつりと漏らした僕の呟きに、ノアがホログラムの首を微かに傾けた。


『肯定。戦力維持の観点から、最善の選択であると判断します』


ノアの表情には何の感慨もなかった。彼女はコンソールへと向き直り、指先を光のコンソールへと走らせる。


『ハンスの生体受肉処置、および術式同調期間を考慮。―11区警備兵、ハンス・レイグルに対し、48時間の休暇申請書を発行、送付します』


淡々とログを処理していくノアの横顔を見つめる。作業台に残された、新品の備品の群れ。僕は、備品一覧の項目を更新するため、作業台へと指を伸ばした。





「ああ、レイグルさん。いらっしゃい」

厚い遮音壁の向こう側、11区の濁った喧騒を完全に遮断した室内で、メルは顔も上げずにそう言った。

そこは、11区と10区のほぼ境界に位置する精密義爪補完所「M.E.L.」。管理区の規格に準じた無機質な灰色のモルタル壁と、塵一つ落ちていない床。入口のエアシャワーが吐き出した清浄な空気の残り香が、ここが「外」とは別の論理で支配されていることを示している。

メルは、深い琥珀色の作業着の袖を捲り上げ、精密研磨機の高周波音の中にいた。メルがゆったりとハンスに歩み寄る。作業区画の空気が、彼女の動きに合わせて遅れて流れるようだった。


「…また右手かい? 前に来たときは、琥珀や重結晶の義爪じゃああんたの“空白ブランク”は埋められないって言ったはずだけど」


義爪は、損耗・喪失したバイパスを、術式溝を刻んだ琥珀や重結晶で代替したものだ。通常、術師の義爪の材料としては重結晶が選ばれる。ハンスは以前ここを訪れたが、彼の右手に残った空白ブランクの影響は、通常の重結晶を拒絶した。


ハンスは何も言わず、ただ椅子に腰を下ろし、右袖をまくり上げ、黒い血管のような痕跡が首筋まで這い上がった右腕を差し出す。

メルは厚みのある掌でハンスの右腕を持ち上げた。動きには無駄な力みがなく、それでいて逃げ場を与えない安定があった。彼女の指先には丸みを帯びた琥珀色の爪が光る。それは技師としての精密なコードを綴るための、完璧に調整された生体端子だ。


「替えの“爪”はこれだ」

ハンスがケースを取り出してメルに渡す。蓋を開けたメルの目が一瞬だけ鋭く細められる。


「…へえ」

メルは手袋もせず、その密度のある指先でハンスの右腕に触れた。彼女の口角が吊り上がった。その柔らかな頬がわずかに持ち上がるが、目は笑っていない。


「面白いね。出処を聞きたいところだけど…我慢しとくよ」

メルは作業棚へと歩み寄った。作業着の内側で、動きに合わせてわずかに遅れて揺れる質量が、彼女の重心の安定を物語っている。


「で、どうなんだ?」

「焦らない、焦らない」

ハンスの問いに、メルはくすくすと笑った。


メルは施術台を示し、ハンスを灰色のシートへと促した。椅子のシリンダーがハンスの質量を受け止め、重い金属音を立てて固定される。


ハンスから手渡された樹脂製のケースを開き、メルは中に収められた結晶爪と、底に敷かれていたデータシートに視線を落とす。蜜色の瞳が、術式コードの配列を上から下へと一定の速度で追っていく。


「…すごいね。これもう、あんたの波形に合わせて調整してある」


ハンスは答えなかった。視線をモルタルの壁の一点に固定したまま、微動だにしない。メルはその沈黙を気にした様子もなく、義爪をピンセットの先で軽く叩いた。硬質な音が狭い室内に響く。


「これなら爪床の施術だけで済む。お安くしとくよ」


ハンスが首を僅かに縦に振った。その動作を確認すると、メルは自身の右手を伸ばし、親指の琥珀色の爪をハンスの剥き出しになった右指の先端へと押し当てた。爪を通じて、ハンスの波形がメルの指先へと伝わっていく。


「―うん」


メルは作業台のレバーを回し、ハンスの右指を固定具で一本ずつ締め付け、作業台の基盤へと完全に圧着させた。彼女は手袋を両手に嵌め、注射器を手にとる。ガラス管から麻酔液がシリンジに吸い上げられ、ハンスの指の付け根へと注入される。プランジャーが押し込まれるたび、ハンスの首筋の侵食痕が硬く強張った。メルは細い金属針を取り出し、ハンスの爪床の表面を軽く突いた。


「感じる?」

「いや」


短い拒絶の言葉を合図に、メルは「霊弧研磨刀アーク・グレーバー」を壁のホルダーから引き抜いた。瀝鋼製のグリップに内蔵された変速ギアが噛み合い、高周波の駆動音が室内の空気を細かく切り裂き始める。


メルの垂れ目がちの目元から笑みが消え、視線がハンスの指先の一点へと集中する。


研磨触媒針グラインド・スティラがハンスの生身の皮膚に接触した瞬間、青白い火花が弾け、肉の焦げる特有の臭気がエアシャワーの風に混ざった。針先は容赦なく表皮を焼き切りながら、術式溝をハンスの肉へと彫り込んでいく。

骨に響く振動の中、ハンスは眉ひとつ動かさず、ただ視線を虚空に投げていた。メルの額から一筋の汗が流れ、深い琥珀色の作業着の襟元に染みを作る。


十数分の連続した切削音が止み、室内に再び静寂が戻った。

メルはピンセットを使い、ケースから引き抜いた義爪を、血の滲むハンスの爪床へと正確に象嵌した。サイズは寸分の狂いもなく、肉の溝へと噛み合う。

メルは両手の手袋を外した。彼女は自身の右指をハンスの象嵌部分に近づけ、その爪先から一際強い青白い火花を走らせた。高熱が結晶と肉の境界を圧着し、細い煙が立ち上る。


最後に、メルは金属製のスパチュラで、精製された煤蜂の蜜蝋を掬い取り、接合部の隙間へと流し込んだ。蜜蝋は瞬時に凝固し、爪と肉の間を滑らかに埋める。


「終わったよ」


固定具のロックが外され、ハンスの右腕が解放される。ハンスは椅子の背に体を預けたまま、鈍くなった右の手首を小さく、何度かぶらぶらと振った。


「麻酔はあと30分くらいで切れるよ。それまで店で待ってて。具合を見たいから」


メルは研磨刀をアルコールで拭いながら告げた。ハンスは顎を引いてそれに応じる。


「あ、屑煙草フィルター・バグはやめてよ」


付け加えられた言葉に、ハンスは口角を僅かに歪めて不満の意を示したが、そのまま腰を上げて立ち上がった。

彼は右手の指先に新しく嵌め込まれた“爪”を見ることもせず、そのままポケットの奥へと突っ込む。そして、メルが差し出した注意書きの紙を、左手の指先で無造作にひったくるようにして受け取った。


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