log67.解体と循環
崩落した地面を前に、ハンスとレイナは荒い息をついた。
二人の靴底が踏みしめるコンクリートの端から、細かな砂礫が絶え間なく暗い穴の底へと滑り落ちていく。巻き上がった白っぽい塵が、空気を白く濁らせていた。
レイナは無言で一歩前へ踏み出し、その場に身を屈めると、右の掌を直接地面の亀裂へと押し当てた。
彼女の青灰の爪先からパチパチと銀色の火花が散り、触れたコンクリートの破断面から硬質な重結晶の膜が急速に増殖していく。結晶は網の目のように地盤を這い、自重で崩れかけていた土砂の斜面を固定した。
「3mくらいか」
穴を覗き込みながらハンスが呟く。
足場が確保されたのを確認すると、レイナは膝を突き、抉り取られた垂直の穴の縁へとその視線を近づけた。
「見えるか?」
背後からハンスが、低くかすれた声で問いかけた。彼の首筋の侵食痕は、過呼吸気味の肺の動きに合わせて脈動している。
レイナは視線を穴の暗がりから外さないまま、小さく首を横に振った。
「完全に埋もれてる」
言い終えるよりも早く、レイナは両手を前方に突き出した。彼女の五指の爪先から銀色の結晶糸が、生き物のような速度で伸びる。数十本の結晶糸は、自重で押し潰されたコンクリートの隙間や、崩れた土砂の僅かな空気の通り道を見つけ出し、地下深くへと潜り込んでいった。糸が岩石と擦れ合う、チリチリとした摩擦音だけが穴の底から響く。
「…見つけた」
レイナの薄い唇から、吐息とともに呟きが漏れた。
彼女が細い指先を引くと、土砂の隙間から銀の糸が鋭いきらめきを放った。糸を通じて綴られたコードが、遮蔽物となっているコンクリートの塊や配管の残骸へと一斉に浸透していく。分解の術式が作動し、重い土砂が微細な灰色の塵へと分解され、四方に霧散した。
開けた空間の底から、銀の糸によって四肢の関節を固定されたバルド・オストの姿が現れた。
レイナが腕を引き上げると、結晶糸が鋭い音を立てて収縮した。糸に引かれたバルドの肉体は、関節の自由を奪われた操り人形のように不自然な軌道を描きながら、暗い穴の底から地上へと静かに引き上げられていく。
ハンスが地面に転がされたバルドの身体へ近づき、腰のベルトから絶縁拘束具を取り出した。拘束具がバルドの傷だらけの両手へと嵌め込まれ、通霊回路の接続を遮断する金属のロックがガチリと硬い音を立てて噛み合った。
バルドの裂けた胸部が、微かに、不規則に上下している。廃霊の侵食によって青白く発光する皮膚の隙間から、浅い呼吸の音が漏れていた。ハンスとレイナは口を開かない。ただ事務的な手際で、必要な処置を終えた。
「バルドは俺が運ぶ。ニコを診てやってくれ」
レイナは短く頷き、瓦礫の影へと足を向けた。
瓦礫の傍らにへたり込んでいたニコのもとへ、レイナの静かな靴音が近づく。
「イレブンさんが、10区から車を借りて、ここまで運転してくるそうです」
ニコが小型通信機から指を離し、レイナに告げた。彼の額の血は既に固まりかけている。
レイナはニコの前に跪くと、額の裂傷から流れる血をハンカチで拭い、携帯用の結晶膜をその左肩の傷口へと押し当てた。冷たい結晶が皮膚に触れ、出血が止まっていく。
「バルドは…?」
ニコは痛みに耐えるように奥歯を鳴らしながら、掠れた声で尋ねた。レイナは手を止めず、淡々とした声で返した。
「終わったわ」
レイナはそれだけを答えた。任務は完了した。味方の犠牲はない。ニコが俯く。周囲の煤煙だけが、二人の視界を薄暗く覆っていた。
11区のガレージには真新しい0区仕様の官用車が2台停まっている。カウスが新たに配備したものだ。g-55の路地に無人のまま停めておいた古い官用車の方は、現地の不法回収業者らによってめぼしい部品をはぎ取られてしまっていた。残されていたのは歪んだ灰色のフレームと、座席のクッションを引きちぎられた金属製のスプリングだけだった。
炉心室。画面の向こうで、アルゼノン・カウスの声は一定の波形を保ったままスピーカーを震わせた。
『想定していたよりも状態がいい。感謝しますよ』
納品されたパーツの性能を検収するかのような、抑揚の無い称賛だった。室内の乾燥した空気の中で、コンソールの縁に押し当てられた僕の指先に微かに力がこもる。
「…それはどうも」
僕は短い返事だけを返した。スピーカーの向こう側で、微かな紙の擦れる音が響く。
『“お礼の品”を送っておきます。これからも期待していますね』
カウスは機嫌の良さをその言葉に滲ませたまま、一方的に回線を切断した。プツンという接続解除の音が室内に響き、コンソールの主画面が通常の待機状態へと移る。僕は深く息を吐き出し、緊張を緩めた。
『今回の作戦は有意義でした』
空間に光の粒子が収束し、ノアのホログラムが淡く発現した。彼女の琥珀色と青の瞳が、コンソールのバックライトを静かに反射している。結局、バルドの隠れ家からはノアに関連するものは見つからなかった。しかし、ガレージに整列した2台の0区仕様車、そして管理口座の数値。
僕は画面を見つめたまま、静かに頷いた。だが、背筋の奥を這い上がってくるような寒気は消えない。金も物も指先一つで操作してみせる、カウスという男の権力が、閉鎖された炉心室の四壁をいっそう狭く感じさせていた。
炉心室の扉が金属の摩擦音を立てて開き、レイナが歩を進めてきた。僕は手元のコンソールから視線を外し、空気の淀みを破るように声をかけた。
「ニコの具合は?」
「今のところ安定してるわ。ただ、あの“右腕”の使い方は覚えていく必要があるわね」
レイナはデスクに右手を置き、淡々と告げた。
僕は頷いた。新型の官用車を内部から破砕した、あの規格外の異常出力。深度1のニコの肉体が、何度も耐えられるはずがない。コントロールを確立しなければ、次に肉体を走る熱は彼の神経を内側から焼き切る。
「制限器はどうかな?」
僕の言葉に、ノアが即座に同期した。
『推奨。―11区に無いことを除けば』
抑揚のない彼女の指摘が、この末端区の決定的な欠乏をあらわにする。深度4以上の術師が導体化した肉体の暴走を防ぐために装着する安全装置。しかしそんなものなど、この塵にまみれた街の倉庫には存在しない。カウスに要請すれば、あの男の権限なら翌日には現物が届くだろう。しかし、それは同時に、ニコの異常出力をカウスのデータベースに登録することを意味していた。
(もし、ニコが目をつけられたら)
胸の奥が不快に疼いた。人間を部品として消費する実験の系譜。ニコの右腕がその天秤にかけられる可能性を考えただけで、喉に苦い塊がこみ上げるのを感じる。
「…バルドの部下はどうしてる?」
話題を変えようと、僕はノアに切り出した。捕らえたバルドの部下は三人。常時人員不足の11区では、囚人に監視装置を装着して労役に従事させるのが通例だ。彼らも、瀝星中継ステーション「星の肺」での懲役を科されている。
『模範的です』
「そっか」
僕は片手で頬杖をついた。面倒がないのはいいことだ。僕は軽く肩を回し、コンソールに両手を置いた。
カウスの命じる“仕事”は公的な任務ではない。報告書を書かなくてもいいのだ。内容や定型文に悩まされる必要もない。そしてそれは、中継ステーションで労働を科されるバルドの部下たちも、バルド・オストの肉体も、「最初から存在しなかった」ものとして処理されることを意味していた。
『カウス教授からのメッセージです』
ノアの声とともに、画面の中央に新しい通知ウィンドウが割り込んできた。僕はコンソールに触れ、展開されたインデックスに視線を走らせる。
「お礼の品」と題されたリストの最上段。そこには、僕が先ほどまで苦悩していた「制限器」の文字列が、正確な規格コードとともに記載されていた。
喜ぶよりも先に、皮膚の表面が粟立つような悪寒が走った。こちらの思考を先回りして覗き見られているかのような、徹底的な監視の気配。さらにスクロールを進めると、CMR規格のケーブルや心臓炉の交換用結晶といった、現在の11区にとって実利的なパーツが並んでいる。ここまでは、まだ理解の範疇だった。
【義爪(生体由来・導体化深度3.5)―ハンス君の右手に】
その横には、専用の同調コードが親切な注記として添えられていた。
生体由来。その言葉が意味する事実を、僕の脳は嫌でも逆算した。カウスのもとへと移送されたバルド・オストの肉体。その指先から剥ぎ取られる予定の、あるいは既に抽出された結晶爪の残骸。
カウスは、奪った男の爪を、その男を捕らえたハンスの右手へと象嵌させようとしている。
言葉は出なかった。炉心室を沈黙が満たし、コンソールの緑色の光がレイナの硬直した顔面を照らし出している。カウスの配下となった事実が、僕の胸の底に重りをつけられて沈んでいった。
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反応があると、11区の犯罪率が低下するかもしれません。




