log66.g-75の崩落
「…っ」
知覚を抉った衝撃に、僕は息をのんだ。
脳の裏側に直接焼き付けられた11区の配管群。その一角、地上のg-80へと至るルート上で、何かが配管を襲った。感知したのは、超高温の熱とそれに伴う破壊。
(単なる配管の破裂じゃない)
僕は共鳴を切断し、ノアを見上げた。
『―報告。g75-115配管と、その周囲を支える基礎コンクリートが破壊されました』
空中に浮かぶノアのホログラムが告げた。コンソールのすぐ横で、モニターを凝視しているセイルの横顔をアラートが赤く照らし出す。彼の右腕の結晶痕が鋭く明滅した。
「車両は?」
僕は割れるような頭痛を無視し、ノアに問うた。
『同座標です』
「何があったんだ?」
『不明。車両ログを解析…フロントアクスル喪失、エアバッグが展開されました』
ノアの淡々とした報告が鼓膜に突き刺さる。フロントアクスルの喪失。0区仕様の強固な駆動系が一瞬で破砕されたことを意味していた。新型車をそれほどまでに破壊できる質量、あるいは術式は、あの現場には存在しないはずだった。ネイルガンの出力では、装甲化されたフロアを貫通することは不可能だ。
(一体何が…?)
僕は疑問を振り切り、通信回線を開いた。今は思考より行動だ。
「ハンスさん、レイナさん」
僕の呼びかけに、即座に二人が応答する。通信機ごしに、激しい風切り音と、論理的跳躍特有のバツン、バツンという空間の収縮音が交互に伝わってくる。
「ポイントg75-115に向かってください。車両がそこで停止しました」
『了解』
『了解』
二人との通信を切る。僕は、ニコ個人の小型通信機へ直接、周波数を合わせた。
「ニコ! ニコ、聞こえるか!? 応答してくれ!」
機械の切り替わる音が微かに鳴った。しかし、戻ってきたのは、チリチリという高熱の残響音と砂嵐だけだった。ニコの声はない。ただ無機質な音とノイズだけが、通信回路を満たしていた。
ニコは車内で荒い息をついた。
彼は抉れた地面を避けようと、咄嗟にハンドルを横に切ったのだ。前輪とフロントフロアを失った黒い車体は、激しく横滑りを起こし、gブロックの灰色のコンクリート防護壁に斜めから激突した。
衝撃の瞬間、ステアリング中央の固定部から、エアバッグが爆発的に展開した。ニコの胸椎と顔面はその白い塊に叩きつけられ、首の骨が不自然な音を立てて軋んだ。暗転する視界。一瞬の後、肋骨の奥から、鋭利なガラスで内臓を直接突き刺されるような激痛が這い上がった。ニコは短く息を詰まらせ、顔を歪めた。
座席の真下、大破したフロアの隙間から、高圧の冷媒ガスと気化した機械油が混合した白煙が噴出した。車内の温度が急速に上昇する。呼吸をするたびに、焼けたゴムの臭気が気管を焦がした。
(このままだと、死ぬ)
生存への本能が、麻痺した肉体を強制的に動かした。ニコは震える左手で運転席側のドアノブを引いた。しかし、歪みでもしたのか、フレームは一ミリも動かない。中途半端に開いた隙間から、外の冷えた空気が細く流れ込んでくる。ニコは半透明の指先をホルスターへ伸ばし、自身のネイルガンを引き抜いた。銃口をガタつくドアヒンジの結合部へと直接押し当て、引き金を引く。
硬質な破裂音とともに鉄のピンが弾け飛んだ。ニコはドアの鉄板に、自身の左肩ごと身体を強く叩きつけた。激しい音を立ててドアが外側へ開き、彼は頭から道路へと転がり出た。
「カハッ、ぐ、ぅ…!」
油泥と砂礫の混ざった地面に顔を伏せ、ニコは激しく咳き込んだ。路面の冷たさが、火照った皮膚に張り付く。頭部を動かした瞬間、右の額から温かい液体が溢れ、瞼を濡らしながら顎のラインへと滴り落ちた。手の甲で拭うと、それはどす黒く光る血だった。
ドン、という鈍い爆発音が背後で鳴った。ニコが這いつくばったまま振り返ると、gブロックの防護壁にめり込んだ車両のボンネットから、青白い炎が立ち上っていた。臭気のある熱風が路地を吹き抜けていく。
へたり込み、四肢の力を失いかけたニコの視界で、その青白い炎と煙のカーテンが揺らめいた。煙の奥から、一人の影が現れる。
バルド・オストだった。
男は右手のネイルガンを再び構える。ニコは指先を震わせながら、再び火花を収束させようとした。だが、破れた右袖から露出した半透明の前腕の輪郭が、激しく明滅を起こした。皮膚の下で、かつて煤蜂から受けた黒いマーブル状の毒が、まるで生き物のように蠢く。
「…ぐッ」
ニコの口から短い声が漏れた。内臓を素手で握り潰されるような痛みが襲い、膝をつく。彼の切れた唇の端から、黒い泥状の廃霊が地面へと零れ落ち、コンクリートに吸い込まれていく。
「ガキ、が…」
バルドは一歩足を進める。ただし、彼も無傷ではなかった。ガラス片がその額と両腕に無数に突き刺さり、衣服の各所からどす黒い血液が滲み出している。引きずる左足の先が、路面に赤い線を引いていた。
ニコは歯を食いしばり、半透明の右腕を前に突き出した。指先をもう一度硬直させ、熱線を編み上げようと試みる。しかし、青白い火花は収束することなく、指先から細かなノイズとなってパチパチと四散し、虚空に消えた。
バルドのネイルガンの銃口が向けられる。彼の指が、引き金にかかった。
ニコは反射的に両目を強く閉じた。
鼓膜を震わせたのは硬質な結晶の破裂音だった。
自身の肉体に鉤爪が食い込む衝撃は訪れない。ニコが恐る恐る目を開けた。
視界の先、バルドが放った鉤爪は、空間に展開された銀の結晶壁の内部に、完全に埋没した状態で停止していた。ニコは、レイナの背に庇われていた。
「…警備長、さん」
目を見開くニコの背後に、ハンスが姿を現す。彼の腕が、崩れ落ちそうになっていたニコの両肩を、下から抱き起こすようにして支えた。その首筋の侵食痕が、激しい移動の熱で赤黒く染まっている。
「よくやった。ニコ。後は俺たちに任せろ」
ハンスの左手が、腰のホルスターから使い古されたネイルガンを滑らかに引き抜く。彼の爪先から、青白い火花が散った。
『イレブンさん』
通信機から響いたニコの声に、僕は椅子から立ち上がった。
「ニコ、無事だったのか!」
僕はコンソールのマイクに齧りつくようにして、声を張り上げた。炉心室のスピーカーから、ざらついたノイズに混じってニコの荒い息遣いが聞こえてくる。隣にいたセイルも小さく息を吐いた。
『ニコ。報告を』
僕の横で、空間に浮かぶノアが冷静なトーンのまま、淡々と求めた。彼女の琥珀色の左目が、コンソールの明滅を静かに映している。
『…車が、大破しました…ハンス先輩と、警備長さんが…今、バルドと交戦中です』
「大破?」
僕は思わずその言葉を繰り返した。
0区仕様の、あの装甲化された堅牢な官用車がなぜ? 僕の脳裏をいくつかの疑問が過ったが、今はそれを突き詰めている時間はないと思い直す。
「ニコ、怪我は? 動けるか?」
僕は叫ぶようにして通信機に問いかけた。返ってきたのは、少しの沈黙と、引き攣るような呼吸の音だった。
『…だい、じょうぶ、です。少し…肋骨が、痛むくらいで…』
ニコの声は、激しい消耗と痛みに喘いではいたが、その芯にははっきりとした意識が残っていた。僕の心臓の異常な鼓動がようやく落ち着きを取り戻していく。
「分かった。ニコ、くれぐれも無理はしないでくれ」
僕は短く告げて通信を切った。
現在の座標はg75-115。
この一帯―g70-g80は、配管層が地表近くにまで露出している領域だ。僕が心臓炉との共鳴を行えば、配管を破裂させ、物理的にバルドを攻撃することは容易い。高圧の瀝星残滓を噴出させれば、崩壊寸前のバルドの肉体を消し飛ばすことだってできるはずだ。
(…けど)
僕は自分の右手の人差し指を見つめた。
カウスの言葉が、耳の奥で嫌に生々しく蘇る。
―生死は問わないが、損傷は最低限にと。
ニコの無事が確認できた今、僕の思考は急速に冷静さを取り戻しつつあった。バルドを粉砕すれば、カウスとの取引が破綻し、結果的に僕たちの立場が不利になる。あの男を無力化しつつ、肉体の損傷を最小限に抑える方法を選ばなければならない。
モニターに投影されたホログラム・ウィンドウの地図を見つめ、僕が打開策を探していると、横からセイルが指先で地図の一点を指さした。
「ここ、例の採掘跡地のほぼ真上ですね」
「え?」
セイルの言葉に、僕は視線を地図の深度レイヤーへと移した。
g75-115の直下。そこには、虚白教団によって崩落し、構造が不安定になった「採掘跡地」の空洞が、今も空白として広がっていた。
その瞬間、僕の脳内でパズルが完璧に噛み合った。閃きが、神経を駆け抜ける。
「バルドの足場を奪う」
僕は即座に通信回線を開き、ハンスとレイナの二人に呼びかけた。
「ハンスさん、レイナさん! バルドを防護壁前方十メートルの地点に誘導してください。 通信は開いたままで!」
『了解。…おい、手短に頼むぞ!』
通信の向こうでハンスの荒い声と、激しい金属の破裂音が響く。バルドも死に物狂いだ、そう長くは持たない。
「ノア、共鳴開始」
『了解。共鳴率、40%』
脳の裏側に直接流れ込んでくる地下の感覚。僕は、配管を通じて地表のすぐ下に広がる、あの「空白化」の影響を受けてボロボロに脆くなった土壌の感触を手探りで掴みにいった。土砂が自重を支えきれず、今にも崩れ落ちそうなギリギリの均衡で保たれているのが、感覚の皮膚を通じて伝わってくる。
意識をさらに浅い層の導管へと移動させる。
配管内の流体の微振動を通して、地上の戦闘の振動が響いてきた。ハンスの荒々しい足音、レイナが展開する結晶壁の硬質な音。そして、それらに対抗する、歪んだバルドの波形が、防護壁の前方へとジリジリと移動していくのが分かった。
『マスター。対象の波形が指定座標に接近。足下の構造強度の限界点を算出しました。g75-203、及びg75-204配管の同時破裂を推奨します』
ノアの描く青い光が、僕の脳内に直接座標をマークする。
知覚を限界まで研ぎ澄ます。地上の様子が、配管の目を通じて手に取るように分かった。
『イレブン!』
通信機からハンスの短い声が響いた。誘導が完了した合図。
バルドの、崩壊しかけた波形が、脆い地面の真上に完全に位置したのを確認した。
僕は意識を集中させ、二本の配管へ心臓炉からのパルスを叩き込んだ。
ドォン、と、通信機と地下に這わせた意識の両方から、鈍い衝撃が響く。僕は奥歯を血が滲むほど食いしばり、頭蓋を叩き割られるような激痛に耐えた。
『圧力解放。地盤の自重を支える構造体が消失。―崩落します』
ノアの声と同時に、僕の頭蓋と鼓膜を震わせて、地上の世界が割れるような、凄まじい崩落音が鳴り響いた。




