log65.不完全な導体
サブモニターの光点が、g55-122で待機していた官用車が動き出したことを示していた。予定外の行動に、僕だけでなくセイルも瞬きをしてモニターを見つめた。
「何か連絡は?」
『ありません』
僕は即座にコンソールの通信スイッチを叩き、全チャンネルの回線を開いた。炉心室のスピーカーから、ざらついた高周波のノイズが弾ける。
「全員、応答を。 地上の官用車が動き出した。ニコ、どうしたんだ、応答を!」
マイクに向かって声を張り上げる。だが、返ってくるのは規則的なノイズだけだった。
『こちらレイナ。地下ポイントg55-110よ。何があったの?』
『ハンスだ。ニコがどうした』
二人の緊迫した声がスピーカーから重なって響く。しかし、肝心のニコからの応答は途絶えたままだった。何度呼びかけても、ノイズの隙間から彼の声が戻ってくることはない。
「ハンスさん、レイナさん、ニコが待機地点から移動した。僕の指示じゃない、勝手に走ってるんだ」
僕の言葉に、通信の向こうでハンスが短く舌打ちする音が聞こえた。
『ノア、対象車両を追尾。予測進路を算出してくれ』
空間に浮遊するノアが、細い指先でホログラム・ウィンドウをなぞる。青い走査線が地図の上を高速で這い、一本の軌跡を描き出した。
『対象車両は時速七十キロで北東へ加速中。このままの進路を維持した場合、ポイントg-80に向かっています』
「g-80…?」
僕は思わず声を裏返して聞き返した。ウィンドウに表示された限界領域の符号が、赤色で明滅している。
「始動パネルのアクセスログを確認してください」
セイルがノアに視線を向ける。最悪の想像に、僕は爪を噛んだ。
『―補足します。車両のログを確認したところ、ニコの波形による起動が行われる直前、始動パネルに対し、未登録の波形によるアクセスを確認しました』
「…バルド・オストか?」
『アクセスログの残存波形を再解析…バルド・オストの波形と照合。一致率98パーセント。個体識別、バルド・オストと確定します』
ノアの淡々とした報告が、炉心室の冷えた空気に突き刺さる。
「くそっ!」
僕はコンソールを拳で叩いた。すべてのパズルが最悪の形で噛み合っていく。地下に追い込んだはずの鼠は、僕たちの裏をかいて地上へ脱出し、そこにいたニコを襲った。
「ハンスさん、レイナさん、バルドに車が乗っ取られた。 ニコが人質にされて、無理やり運転させられてる。奴の狙いはg-80の廃棄配管層だ。あそこから12区の未定義領域へ逃げる気だ」
『野郎…』
ハンスの低い声と同時に、舌打ちが聞こえた。レイナの、息を呑む気配も微かに伝わってくる。
「二人はそのまま地上の最短ルートでg-80へ向かってください。僕はここから追う」
僕は一方的に通信を切ると、コンソールに両手を置いた。爪の先から青い火花が散る。
「ノア、猶予がない。共鳴開始」
『了解。共鳴率、50%。神経負荷に備えてください』
視界が瞬時に暗転し、脳の裏側に11区の地下配管網が、今度は濁流のような質量となって流れ込んできた。頭蓋の中に直接流体が流れているように、脳がぐらぐらと揺さぶられる。
(車を止めるには…どこかの配管を破裂させて、物理的に足止めするしかない)
僕は感覚の網をg-80へ続く地上のルートへと伸ばしながら、激しい頭痛の中で歯噛みした。0区仕様の頑強な車を止めるには、生半可な破裂では足りない。だが、出力を上げすぎれば、車内にいるニコの肉体ごと、その衝撃で粉砕してしまう危険がある。カウスの言う「最低限の損傷」なんて、もうどうでもいい。だけど、ニコの命だけは別だ。
(無事でいてくれ、ニコ…!)
鼻腔の奥に血の匂いを感じながら、僕は暗黒の配管網の奥底へ、さらに深く、知覚を潜らせていった。
ハンスは、網膜投影機を額に押し上げながらレイナに通信を繋いだ。
「警備長、普通に走ってたんじゃ追いつかねえ。車も無い。…論理的跳躍で追う」
―論理的跳躍。
導体化深度3以上の術師にのみ可能な移動術式だ。
自身の肉体情報を一時的に論理コードへと変換、前方へ高速で再配置することで、短距離を瞬間的に移動する。連続して使用し、長距離を高速移動することも可能だが、その分肉体への負担も大きくなる。
『この距離を移動するのは結構な負担よ』
レイナの声には焦燥が滲んでいる。
「それは向こうも同じだ。バルドの奴も、それで逃げやがった」
ハンスは地下通路でのことを思い起こす。
g55-110に続く直線通路。彼が放った二撃目。ネイルガンの鉤爪は、間違いなくバルドの背中を捉えていた。肉を裂く手応えがあるはずだった。しかし、放たれた鉤爪は、何もない虚空を引き裂き、鉄板の床を虚しく叩いた。
あの時、バルドの肉体は移動の軌跡すら残さず消えた。廃霊に侵食され、崩壊を間近に控えたあの男の肉体もまた、深度3の領域に達していたのだ。
『…分かったわ』
レイナの短い答えとともに通信が切れる。
猶予はない。事態は一刻を争う。
ハンスは足を止め、深く息を吸い込んだ。彼の爪先から青白い火花が散る。自身の肉体という質量が、情報へと還元されていく特有の、血が沸騰するような感覚が神経を焼き焦がす。
バツン、と空気の一点が、破裂音を立てて収縮した。次の瞬間には、ハンスが立っていた場所には、誰の影も残されていなかった。
車を運転するニコの心臓は、激しく鼓動していた。ネイルガンを突きつけられたこめかみから幾筋もの汗が伝い、皮膚をじっとりと濡らす。呼吸が浅くなり、半透明の右腕がチリチリと明滅した。
先ほどまで、焦りを滲ませたイレブンの声が、通信機を激しく鳴らしていた。けれど、それもつい数分前、助手席のバルドが通信回路の基盤をネイルガンで容赦なく撃ち抜いたことで、完全に途絶えてしまった。
通信が切れてからの車内は、機械の駆動音だけが支配している。静寂が、かえってニコの恐怖を肥大化させた。肺が上手く空気を吸い込めず、胸の奥が締め付けられるように痛む。呼吸はさらに浅く、細くなっていく。
「…ケッ、ようやく静かになったな」
バルドは鼻で笑い、壊れた通信機から立ち上る微かな白煙を、鬱陶しそうに手で払った。彼の右顔面を覆う青白い燐光が、不気味に歪みながら脈動している。その光が車内のフロントガラスに反射し、ニコの怯えた瞳を冷たく照らし出した。
「見捨てられたのかもな。おい、ガキ」
バルドはニコの横顔を、じろりとねめつけた。
「お前ら11区のCMRなんて、0区の連中から見りゃただの使い捨ての消耗品だ。お前みたいな何の役にも立たねえ半端者、上司も仲間も、今頃は新しいパーツの心配でもしてるさ」
ニコを嘲笑うバルドの言葉が、容赦なくニコの耳から脳へと突き刺さる。
(違う…イレブンさんは、ハンス先輩は、そんな人じゃない)
そう叫びたかった。けれど、恐怖で喉が引き攣り、言葉にならない。ニコはただ、奥歯を震わせながら、ハンドルを握る両手に力を込め、歯を噛みしめることしかできなかった。
「…違う」
何度か喉を上下させた後、ニコは消え入りそうな、震える声でようやくそれだけを返した。
「あァ? 何が違うって?」
バルドは小馬鹿にしたように眉をひそめると、ネイルガンの銃口でニコのこめかみを小突いた。硬い金属の感触が、ニコの皮膚に冷たく食い込む。
「こんな情けねえ奴を誰が助ける? 自分で戦うこともできず、泣きそうな面で敵の車を運転してるような奴だぞ。お前が逆の立場なら、命懸けで助けに来るか? ああ?」
畳みかけるようなバルドの嘲笑に、ニコは完全に口をつぐんだ。
言い返す言葉が、どこにも見つからなかった。バルドの言う通りだ。自分は今、敵に脅され、言われるがままに車を走らせている。もし自分ではなくセイルがここにいたら、きっとその明晰な頭脳と完璧なコードで、何かしらの抵抗を見せていたはずだ。もしハンスなら、どんな窮地でも牙を剥き、敵の喉元を噛みちぎっていただろう。レイナなら、その実力で敵を圧倒していただろう。それに比べて、自分は―。
自身の情けなさと無力さが、一気に胸の奥から込み上げてくる。視界が急速に潤み、熱い涙が今にも零れ落ちそうになった。ニコはそれを必死に堪えるため、唇を血がにじむほど強く噛み締め、前方の荒れた路面だけを凝視した。
(ごめんなさい、イレブンさん。ごめんなさい、ハンス先輩。警備長さん…)
心の中で、何度も何度も謝罪を繰り返した。
自分はいつもそうだ。虚白教団との戦いでも、ただ怯えて、ハンスに庇われるだけの足手まといだった。
セイルのように術式の天才でもない。それだけじゃない。あのg70配管の時、暗く狭いバイパスへ飛び込んでいった、子供のリリィよりも、今の自分には勇気がない。
(僕が役に立ったことなんて、今まで一度も…)
暗い自責の渦に沈んでいく中、ニコの視線が、ふとハンドルを握る自身の右腕へと落ちた。
衣服の袖口から露出したその腕は、ダッシュボードの淡い緑色のバックライトを透過し、向こう側のシートの質感をぼんやりと映し出している。境界が曖昧な、かろうじて実在を保つ、不完全な右腕。
―右上肢局所導体化。
―深度5.02。
生体走査での記憶が、不意に、チクリと針で刺したようにニコの脳裏に蘇った。恐怖で麻痺していた脳が、わずかに思考を取り戻す。
(不完全…でも、僕の右腕は…)
ニコの瞳の奥、涙の膜の向こう側に小さく火花が弾けた。ハンドルを握る右手に力がこもる。半透明の爪先が熱を帯びる。その右手の爪先に、小さな小さな火花が収束した。その熱は、手をつたい、腕を上って、身体の震えを焼き切っていく。ニコの喉が、ゆっくりと空気を吐き出す。バルドは気づいていない。
(狙う、なら…)
ニコはアクセルを踏む自分の足先を見つめた。
タイヤを撃ち抜ければ、車を止められるかもしれない。
ニコはハンドルを握る右手の指先に、すべての意識を集中させた。衣服の袖口から露出した半透明の指先へ、細く、頼りない青白い火花が、じわじわと吸い寄せられるようにして収束を始める。
(…熱い)
指先から、まるで沸騰した機械油を直接流し込まれたかのような、凄まじい熱が駆け巡る。ニコは歯を食いしばった。骨を焼き焦がすような熱に耐えながら、ニコは必死で「銃火」の術式を編み上げていく。全神経を指先に尖らせる。だが、このままでは助手席の男に気づかれる。
ニコは恐怖を押し殺し、思い切り目を見開いて声を発した。
「あ―」
フロントガラスの向こう、gブロックの荒れた道路を視線で指す。
「なんだァ!?」
バルドは反射的にニコのこめかみからネイルガンを引き剥がし、身を乗り出すようにして構えた。青白い瞼が持ち上がり、フロントガラスの向こうの路地を鋭く覗き込む。
だが、車のヘッドライトが照らし出す先には、ひび割れたアスファルトと、転がる瓦礫の影しかない。
「チッ、何も無ぇじゃねぇか…! 舐めた真似しやがってガキが―」
激昂したバルドが、ギチリと首の骨を鳴らしてニコを睨みつけた。その罵声が、途中で凍りつく。
ニコの右手はハンドルから離れ、その爪先には、今や直視することすら不可能なほどに圧縮された、眩い青白い光が収束していた。バルドの顔面が、青白い燐光を明滅させながら痙攣する。彼はネイルガンを再びニコへ向けようと、口を開きかけた。
キィン、という鼓膜を鋭く刺す高周波の閃光。
放たれた熱線は、新型車両の頑強なフロントフロアとフロントガラスを、一瞬の抵抗もなく貫通した。それだけに留まらない。すさまじい威力で放たれた一撃は、前方のタイヤはおろか、道路の路面もろとも、巨大な溝を作るようにして深く深くえぐり取っていった。




