路地裏の喧騒
ハンスはgブロックの酒場の扉を開けた。安価な泥酒の臭いが空間に満ちている。ニコが袖口で口元を覆った。
「ハンス先輩、ここって…」
「情報収集だ」
床の剥げかけたコンクリートには、客がこぼした泥酒の白濁した染みが幾重にも輪を描き、拭き取られぬまま乾いてこびりついている。スラグ・ポテトの芽が醸す土臭い発酵臭が、狭い店内のよどんだ熱気に混ざり合って、鼻腔の奥を突いた。カウンターの隅では、白い煤に汚れた作業着を着た数人が、底にスラグの粉末の溜まった灰色気味のグラスを、無言で揺らしている。
ハンスはホルダーから携帯端末を引き抜くと、画面を一段階明るく設定した。ノアから転送されたバルド・オストの人相が、液晶の緑色の光となって彼の硬い指先を照らす。ハンスはその画面を周囲に見せるようにして、ゆっくりと歩みを進めた。ニコはハンスの半歩後ろに従い、薄暗い空間へきょときょとと視線を走らせている。
「…おい、見ろよ」
「あいつら…」
カウンターの奥から、低く掠れた囁き声が漏れた。グラスを傾けていた男たちが、一斉にハンスとニコの衣服、その制服や胸元に縫い付けられたCMRの紋章へと視線を走らせる。
「CMRの術師が、こんな掃き溜めに何の用だ」
「ここのネズミでも間引きに来たか」
排気ファンの鈍い回転音だけが、ひそひそとした警戒の声を擦り消すように店内に響く。男たちはそれ以上言葉を交わさず、ただ背を丸めて自身のグラスへと視線を戻したが、その指先は一様に硬直していた。
ハンスは意に介さず、正面のカウンターを拳で軽く叩いた。奥から出てきた、皮膚の薄い、初老の店長が不機嫌そうに鼻を鳴らす。彼の右頬には目立つ大きな傷跡がある。
ハンスが提示した携帯端末の画面には、バルド・オストの顔が映し出されている。店長は一瞬だけその静止画に目を向けたが、すぐに興味を失ったように首を横に振った。
「知りませんね。CMRの旦那。うちに来るのは、その日暮らしの労働者か、ましな浮浪者だけだ。名前のある奴の顔なんざ、いちいち覚えちゃいませんよ」
店長の乾いた声が、傷だらけのカウンターの木に跳ね返る。
「そうか。なら、一杯くれ。それと、これを」
ハンスは短く言うと、衣服のポケットから細い札を一枚取り出し、指先で弾いた。カウンターの油染みの上に置かれたのは、一枚の“針札”だ。店長はそれをつまみ上げると、札の重さを皮膚で確かめた。それが薄められた偽造品ではないことを瞬時に見分けた彼は、その針札を素早く懐へと滑り込ませる。
「…奥の、バイパス沿いの通路」
店長は白濁した泥酒の入ったグラスをハンスの前に突き出しながら、ごく低い声で零した。
「二日前、その顔に似た男が、不法回収業者の連中と揉めてたらしい。廃液の逆流が多い場所だ、まだへばりついてるかもしれませんね」
店長は傷のある頬で薄く笑った。
ハンスは差し出された白濁したグラスには指一本触れず、ただ手の甲でそれを隣に座る労働者の前へと押しやった。男の濁った視線がグラスの表面に落ちるのと同時に、ハンスは出口に向かって歩き出す。
「あ、ハンス先輩―」
ニコが慌てて靴底を鳴らし、ハンスの背を追う。踏み出した足がコンクリートの油染みに一瞬滑りかけたが、体勢を立て直して酒場の灰色の扉を押し開けた。
店主の告げたバイパス沿いの通路は、酒場を出てすぐの分岐を右に折れた先にあった。頭上を通る高圧配管の接合部から、一定の間隔で不透明な水滴が落下し、床の格子状の鉄板を叩いている。壁面を覆う防錆塗料は完全に剥がれ落ち、露出したメッキが酸化して白い粉を吹いていた。
通路の左右には、壁に背を預けた浮浪者たちが、乾燥した泥のように固まっていた。口元を布で覆った物売りたちは声を出すこともなく、ただ通り過ぎるハンスの編み上げ靴と、その背後に続くニコの足元へ、生気のない視線を這わせる。彼らの足元には、錆びたボルトや、規格の合わない基盤の断片、用途の不明な細い銅線が、汚れた布の上に並べられていた。
ニコの呼吸が浅くなる。制服の袖口を握りしめる指先が、白く強張っていた。彼の視線は、浮浪者たちの突き出た汚れた手足や、壁の亀裂から這い出る機械油の筋を交互に彷徨い、定まらない。
通路の奥、煤星灯の橙が途切れる暗がりの中で、いくつかの人影が動いた。
「話が違う。回収したパーツの半分は、こっちの取り分のはずだ」
低く、擦り切れた声が、湿った配管の隙間から漏れ聞こえる。
「黙れ。これだけ回収できたのは、誰のおかげだと思っている」
別の、乾いた声がそれに被さった。数人の影が激しく交錯し、鉄板の床が鈍い音を立てて振動する。影の輪郭が激しく歪み、鉄板の床に押し付けられた錆びたパイプが不快な摩擦音を立てた。
「待て、その基盤はオレたちが―」
「分け前を語る口があるなら、先にその汚れた肺を吐き出せ」
怒号の温度が跳ね上がり、一つの影が隣の壁面へ乱暴に叩きつけられた。結合部のボルトが跳ね、通路の湿った空気が一層の緊迫を帯びていく。
ニコが靴底をわずかに浮かせ、一歩前へ踏み出そうとした。だが、ハンスの右腕がニコを遮る。ハンスは視線を暗がりの奥へ固定したまま、微動だにしない。 彼の動作と視線は、その場に留まるようニコに命じていた。
不意に、通路の右側に位置する錆びついた鉄扉が、悲鳴のような金属音を立てて外側へと跳ね開いた。
「騒がしい」
闇の隙間から、低く、ザラついた声が這い出してきた。 扉の隙間から現れたのは、小柄な男の輪郭だった。
「…バルさん」
諍いを起こしていた数人の影が、一斉に動きを硬直させた。 掴み合っていた互いの衣服から手を離し、男たちは背を丸めて一歩後退する。 その声には、明らかな怯えと、逆らえない上位の者のへの絶対的な服従が混ざり合っていた。
現れた男は、異様な光景を呈していた。 襟ぐりから露出した皮膚、首筋から顔の右半分にかけての領域が、淡く、青白く発光している。 それは肉体の霊揮寸前の兆候だった。 血管の走る位置に沿って、不規則に脈打つ青白い燐光が、路地の壁面を冷たく照らし出している。 非正規の術式を無理に馴染ませた、炉心強奪者の、崩壊へと向かう肉体の質感。
ニコの喉が、小さく鳴った。 彼は呼吸を完全に止め、自身の半透明な右腕を隠すように左手で握り込む。ハンスは表情を一切変えず、ただ一度、低く頷いた。 顎のラインを硬く引き締め、その青白く発光する男の皮膚、そして人相が一致することを確認するように、瞳孔の僅かに開いた視線を走らせ続ける。
「集めたものは裏に運べ。次はない」
「バルさん」と呼ばれた男は、ハンスたちの存在に気づいているのか、あるいは最初から無視しているのか、ただ淡々と男たちに指図した。 数人の影は、散らばったパーツの断片を素早く袋へと詰め込み、鉄扉の向こうの暗闇へと吸い込まれるようにして消えていった。
ハンスは何も言わず、再び歩を巡らせた。 乾いたコンクリートを踏みしめる靴の音が、等間隔に路地に響く。ニコは自身の浅い呼吸を整えることも間に合わないまま、ハンスの背中を見失わないよう、急ぎ足でその後に続いた。
「…ハンス先輩」
路地の出口、わずかに煤星灯の光が届く場所で、ニコが耐えかねたように声を絞り出した。ハンスは歩度を緩めず、ポケットに手を入れ、屑煙草を取り出す。
「あぁ」
ハンスからの連絡を受け、僕はホログラム・ウィンドウのgブロックの地図を拡大した。g-55付近。細かく配管が錯綜する末端区画だ。
「ノア。共鳴開始」
『了解』
再び目を閉じると、網膜の裏側に張り巡らされた配管群が、急激な熱を帯びて膨張した。知覚が11区の地下を滑走していく。さらに意識を研ぎ澄ませると、耳管の奥で微細な金属の摩擦音が鳴った。
僕はg-55に脈動する、ノイズ混じりの一つの波形を捉えた。付近のいくつかの波形に比べると、強く、押し返すような感覚がある。
「ノア」
僕が掴んだ波形を、リンクを通じてノアが共有する。
『想定変調パターンの照合…波形を確認します』
ノアの声が、頭蓋の骨を微かに震わせて直接響く。僕の網膜に投射された想定波形の青い線が、僕が掴んだ不規則に歪む波形と重なった。
『一致率94パーセント。個体識別、バルド・オストと確定』
こめかみの細血管が脈打ち、視界の端が滲む。鼻腔の奥に、鉄錆が焦げたような乾いた臭いが満ちた。ノアとの共鳴を切断する。
「…」
僕はウィンドウに映るg-55付近の地図を睨みつけた。あの場所は細かく配管が錯綜する末端区画だ。自暴自棄になられて配管を破壊されれば、二次被害は免れない。僕は空中に浮かぶノアを見上げた。
「ハンス先輩たちに正面からぶつからせるのは危険すぎる。バルドを、もっと別の場所に誘導できないかな。例えば…地下とか」
ノアの視線が僕を捉える。
「g-55区画の直下には、旧式の廃棄配管層がそのまま残ってる。あそこなら、どれだけ瀝星残滓が逆流しようが、構造材が爆裂しようが、地上への被害は軽微で済む。地下はどうせ、とうの昔に死んでる廃棄配管ばかりだ」
『マスターの提案は、環境被害の抑制という観点においてのみ論理的合理性を満たします。しかし』
ノアの爪先から青い火花が散り、新しいウィンドウが展開された。旧式配管層の垂直断面図が青い走査線で描かれる。
『繰り返しになりますが、肉体への損傷は「最低限」です』
「…分かってるよ」
僕は息をついた。暴れさせず、傷を付けず拘束。僕はコンソールの縁から指先を離さないまま、発光するホログラム・ウィンドウを見つめ続けた。g-55区画の複雑な迷路。旧式配管の群れ。それらを見つめるうち、ふと一つの考えが僕の脳に浮かんだ。
「…ノア。ここだ」
僕の薄青い人差し指の爪先が、地図の一点を指す。
「g50-122配管が使えないか?」
空間に静止していたノアの視線が、僕の指の延長線上へ音もなくスライドする。
『…該当の識別番号を検知。廃棄配管層につながる冷媒用バイパスですね』
「そうだ。バルドを地下に追い込んだあと、これを噴出させて、拘束する」
灰色の冷却媒体。漏出したそれは、視界と平衡感覚を奪い、11区の濁った空気と反応して結晶化を始める。
「暴れさせず、傷つけない…ぴったりじゃないか?」
ノアは僕の言葉を演算処理するように、数秒の沈黙を室内に落とした。




