暗い地下に、音は潰え
11区の治安は悪い。
管理庁舎のある中央ブロックはまだましだ。これが末端区画であるfブロックやgブロックとなると、監視の目は無に等しいと言っていい。例えば、セイルあたりを一人で歩かせれば、彼が三歩と歩かないうちに、誘拐犯が路地裏で身代金の算段をしているだろう。ここはそういう場所だ。
「…やだなぁ」
カウスとギルが帰った後、僕はぼそりと呟いた。カウスが“背骨”を持ち帰った後の、IDタグの乗った傷だらけの作業台を見つめてため息をつく。ニコが僕の方を向いた。
地上の治安が悪いだけではない。11区と12区の境界に位置する廃棄配管層は、瀝星の残滓と錆が混ざり合ってへばりつく暗渠だ。ただ、嫌悪の理由は他にもある。
『不満の表出による呼気量の増加、および体温の上昇は、これからの行動において0.12パーセントのエネルギー効率低下を招きます。無意味です、マスター』
空中に浮かぶノアのホログラムが一定の周期で明滅した。青白い光が作業台を等間隔に照らす。
「割り切れ」
ようやく吸える、とばかりに屑煙草をポケットから出しながらハンスが言う。彼はホルスターを押さえた後、ちらりと作業台の上のIDタグのケースを見やった。
「炉心強奪者はどのみちCMRの駆除対象だ」
ハンスが煙を吐き出す。僕は左手で、胸元に収まった黒銀色のプレートに触れた。指先に伝わるのは、金属の冷たさと、外縁に刻まれた微細な溝の摩擦。カウスが言った「再利用」という言葉の輪郭が、脳の裏側に生々しい像を結ぶ。拘束具つきの寝台。四肢をボルトで固定される“材料”。生きている人間を解体用のパーツとして供給する歯車の一部になるという事実が、胃の奥を粘り気のある嫌悪で満たしていく。
『カウスからの転送データを展開します』
ノアの声と同時に、炉心室の煤けた壁面へ青い走査線が投射された。映し出されたのは、一人の男の静止画と、登録された個人波形だった。その画像の上部に、0区の公定フォントが点滅している。
『個体ID:CMR12-COM-40EA-1128、個体名:バルド・オスト』
僕の目が、識別符号の中央に刻まれた文字列で止まった。無意識にIDタグのチェーンを握り込む。リンクが擦れ合い、微かな音を立てた。
「COM…術師?」
『肯定』
ノアの声が、壁面の青い光と同調するように室内に落ちる。
『対象は元12区のCMR所属術師。30年前の都市機能停止の際、公式の監視ログからロスト。以降は境界の廃棄配管層に潜伏、不法回収業者らと接触していると記録されています」
「正規崩れか」
ハンスが短く舌打ちをし、首筋の侵食痕を搔いた。
「一番厄介な手合いだな」
ハンスは空中に投射された廃棄配管層の構造図へと、淡々と視線を走らせていた。計器の液晶画面が発する緑色の光が、彼の深く刻まれた眉間の皺を淡く照らす。
「廃液バイパスの近くか。あそこは未だに瀝星残滓が逆流してる」
ハンスの声には感情の起伏がない。彼は情報を流し込んだ自身の携帯端末を一度確認すると、それをホルダーに収めた。
「…」
ニコが俯きながら半透明の右腕を左手で押さえている。彼の指先が小さく震えていた。
僕は胸元のIDタグから手を離し、背後の壁面を這う高圧配管へと視線を移した。
「…配管が噴出でもして、事故死してくれたほうが向こうも幸せかもしれない」
僕の喉から出た声は、鉄錆の匂いに混ざって乾いた音を立てた。
ハンスは口から屑煙草を離した。
「やろうと思えばできるだろ、お前」
屑煙草の灰が作業台の端に落ち、彼はそれを払うこともせず、低く零す。僕は奥歯を噛み、配管の表面を走る微細な振動を感じながら息をついた。
「…まあ、位置が正確に分かれば」
『否定』
僕の言葉を遮るように、ノアの声が室内の乾いた空気に割って入った。青白いホログラムの輪郭が鋭く明滅する。
『配管の破裂による肉体への衝撃は、対象の骨格および内臓の損壊率を85パーセント以上に上昇させます。カウスの要求する「最低限の損傷」という条件に著しく反し、対象の肉体の損傷が甚大になるため、その作戦案は却下されます』
「…余計幸せだろ」
ハンスは煙を吐き出し、作業台を冷ややかに見下ろした。IDタグのケースの上に、灰白色の煙が流れる。
『不明。説明を求めます。対象の物理的損壊が、なぜ個体の幸福度に比例するのか、論理的整合性が確認できません』
ノアの琥珀色と青色の瞳が、僕とハンスの間を無機質に往復した。ハンスはその問いを完全に無視し、ポケットに手を突っ込んだまま歩き出した。
「行くぞ、ニコ」
彼はニコの肩を軽く促し、扉を押し開けて、そのまま炉心室を出ていった。扉が閉まる硬い金属音が壁に跳ね返る。
静まり返った室内で、僕はノアの青白い光を見つめた。
「…損傷が大きいと、死んだ後使われずに済むだろ」
ノアのホログラムは、僕の言葉を処理するように数秒間、細かな青い光を壁面に走らせた。その輪郭が不規則に揺らぐ。彼女は“背骨”の置かれていた作業台をちらりと見やった。
『…保留』
ノアは空中を移動すると、ホログラム・ウィンドウの前に降り立った。彼女の指先から青い火花が散る。
『情報を全員の端末に送信します』
ノアは僕を視線で促す。
『対象であるバルド・オストの現位置を特定するためには、既存の監視ログのみでは不足です。共鳴による、配管網への知覚ダイブを推奨します』
ノアの琥珀色と青色の瞳が、無機質な光を湛えたまま僕の顔を真っ直ぐに捉えていた。
「…分かってる」
僕は小さく息を吐き出し、胸元の黒銀色のプレートへと再び左手の指先を這わせた。冷たい質感が、指の皮膚を通して伝わってくる。
僕はコンソールまで歩み寄り、座席に着いた。爪先をコンソールの端にかけ、ゆっくりと目を閉じる。
「共鳴開始」
『了解。共鳴率、40%』
ノアが応えると同時に、意識が地下へと伸びる配管の群れへと沈みこんだ。視界が急速に反転し、配管の内壁が、脳の裏側に直接焼き付くような感覚が走る。感覚の触手が、錆と油泥のへばりつく暗渠を、一本の細い導線となって這い進んでいく。
(―fブロック、gブロック…)
廃棄配管層の位置するgブロックで、僕は感覚の網を張り巡らせた。カウスの情報が正しければ、目標はこのあたりに潜伏しているはずだ。
だが、最初に僕の意識の網に引っかかったのは、バルド・オストの波形ではなかった。
(…一人目。煤蜂の微細な波形混じり。g32区画…非登録の採取人か)
頭蓋の奥に、ノイズ混じりの個人波形が浮かび上がる。煤蜂の羽音に怯えながら、配管の錆びたバルブを必死に回している、その焦燥に満ちた心拍数が、配管を伝って僕の神経へと逆流してくる。
僕はその波形を意識から振り落とし、さらに深く、暗渠の底へと感覚を滑らせた。
(二人目…g11区画。ただの浮浪者だ)
配管の放つ、わずかな排熱の余り熱にしがみつくようにして、体を丸めている弱々しい個人波形。その体温の低さと、微弱な呼吸の切れ端が、鉄錆の味とともに脳の裏を掠めていく。
(三人目…これは、g52区画。非合法の流通を担う運び屋か)
瀝甘露の甘く脈打つ波形、そして怯えなのか、やや速い心拍。その身体が配管に擦れるたび、個人の断片と波形が僕の意識へと伝わってくる。
どれも違う。
拾い上げる波形はどれも、元正規の「術師」の持つそれにしては、小さく、輪郭が曖昧で、“結晶爪”を持たない者のそれだ。
「…いない。バルド・オストの波形が、どこにも引っかからない」
僕は閉じた瞼の裏で、奥歯を噛み締めた。配管を通じて知覚できる領域は、もう限界に近い。神経を伝う瀝星残滓のチリチリとした熱が、じわじわと頭痛に変わっていく。
「ノア、共鳴率を上げてくれ。走査を絞る。gブロックの、最下層のバイパスだ」
焦りが、喉の奥を乾かせた。見つけなければ。
(―ノアが奪われる)
『警告。これ以上の共鳴率の上昇は、マスターの神経組織に過度な負荷を与え、虚脱症状を引き起こす危険性が―』
「いいから、上げろ!」
僕の声に呼応するように、脳内で青い火花が弾けた。
『了解。共鳴率、55パーセントまで移行』
ドクン、と心臓の鼓動が耳管の中で跳ねた。視界の色覚が一時的に消滅し、世界が白黒の格子となって揺れる。配管を流れる流体の圧力が、まるで自分の血管を直接押し広げるような質量となって、僕の脳を圧迫した。鼻の奥に、血の臭いが込み上げる。
それでも―見つからない。
(どうしてだ…? 位置が間違っているのか? それとも、もうここには…)
僕は感覚の底で、焦燥が熱となって神経を焼く。カウスが嘘をつくメリットはない。確かに「バルド・オスト」という一人の人間が、この配管のどこかに接触しているはずなのに、僕の索敵網は、彼の個人波形を完全に掴みそこねていた。
『…推測』
縺れかける僕の意識を繋ぎ止めるように、ノアの声が頭蓋の芯へと冷たく突き刺さった。
『対象は炉心強奪者です。老朽化した心臓炉からの負荷、及び長期間にわたる廃棄配管層への潜伏から廃霊の侵食を受けている確率が極めて高い」
ノアが冷静に続ける。
『その影響で、登録されている個人波形そのものが、変調している可能性があります』
「あ―」
そういえば、そうだ。
僕の思考は一気に形を取り戻した。
炉心強奪者は、廃都の老朽化した心臓炉と「力尽く」で契約した犯罪者や逃亡者だ。
正規の契約によらないリンクにより、肉体が廃霊の侵食を受けているものが少なくない。
肉体の変調は波形をも変える。
例えばセイル。彼の右腕には二重の波形が宿り、「正八面体」すら満足に形成できなくなるほど波形が書き換わっていた。
それだけじゃない。
虚白教団との戦いで、右腕が半透明となったニコ。彼の右腕の個人波形は、システムの走査光すら透過してしまうほどに変調を来していたはずだ。
加えて、ハンス。煤蜂の毒に侵され、その右腕の波形は本来のものから歪んでしまっていた。
セイル、ニコ、ハンスの三人は、個人波形の測定を左手の爪で行ったはずだ。
そして、僕自身すら、ノアの“背骨”を受肉させることで右腕の波形を変調させ、走査を逃れようとした。
(廃霊の侵食…。右腕…いや、全身が廃霊に食われてるなら、30年前の、CMRに登録されたログの波形を探したところで、引っかかるはずがないんだ―)
「…っ」
頭痛が限界に達し、僕は強引にコンソールから爪先を引き剥がした。
共鳴が一気に切断され、炉心室の、油と錆の染みついた現実の光景が、僕の視界に乱暴に飛び込んでくる。全身から噴き出した冷や汗が、作業着の背中をじっとりと濡らしていた。激しい眩暈に襲われ、僕はコンソールの縁を掴んだまま、しばらく荒い呼吸を繰り返した。
ノアの青白いホログラムが、僕の顔を覗き込むようにして静かに空間に浮遊している。
「…見つからなかった、で…カウス教授は、納得してくれないかな?」
僕はこめかみを指先で強く押さえながら、自嘲気味に呟いた。僕の声は、情けないほどに掠れていた。
ノアのホログラムは、その問いに対して言葉を返さなかった。ただ、琥珀色と青色の瞳に僕の姿を映したまま、黙って、静かに首を横に振った。カウスという男が、そんな言い訳で「手足」の無能を許すはずがないことを、僕も、ノアも、痛いほどに理解していた。
『…走査パターンの再定義を行います』
ノアは再び、ホログラム・ウィンドウの前へとその青白い体を移動させた。彼女の青い爪の先から、規則的なパルス信号が空間へと刻まれていく。
『元12区CMR所属術師バルド・オストの過去の術式行使ログ、および廃霊による肉体侵食率の進行度を考慮。現在の想定波形をシミュレートします。マスター、第二段階の走査準備を』
ノアの冷静な声に、僕はコンソールの縁を握りしめた。




