等価の証明
カウスはノアの提案を受け入れた。
そして、彼は11区への1週間後の来訪を予告した。
約束の1週間が過ぎ、僕は緊張を飲み込みながら、カウスの到着を待っていた。
11区管理庁舎の前に滑り込むようにして一台の車両が停止した。0区仕様の官用車だった。車体を覆う装甲板は、煤の付着を一切拒む鏡面処理が施されている。新型エンジンから排出される熱気は、11区のそれのような油臭さを伴わず、ただ無臭の陽炎となってリノリウム調のフェンダーから立ち上っていた。
後部座席の一方から灰色のローブを纏った長駆が滑り出た。ギルだった。ギルの前腕を覆う藍色の鱗状爪が鈍く光る。彼は運転席側の後部座席のドアノブにその手をかけ、外側へと引いた。
車内から、深淵蒼の三つ揃えを纏ったカウスが降り立つ。右手にはいつもの漆黒の傘を持ち、左手には重い銀の金具が打たれた黒革の鞄を提げている。
「出迎え、恐縮です。皆さん」
カウスは、庁舎のひび割れた石段の前に並ぶ僕たちを一瞥し、ごく滑らかに微笑んだ。彼の声には、移動の疲労も、この区画特有の砂嵐に対する不快感も混じっていない。
ハンスは制服の襟を立て、奥歯を噛み締めたまま動かなかった。彼の首筋の侵食痕が、硬直した筋肉の裏で小さく引き攣れている。その隣で、ニコは半透明の右腕を制服の奥へと隠すようにして、小さく顎を引いた。僕は右手の拳を強く握りしめていた。人差し指の、あの薄青い爪の象嵌部分が、カウスの姿を見た瞬間にちりちりと熱を帯びる。
チリ、と僕の腰の携帯端末から青い火花が散った。光の粒子が乾燥した空気の中で渦を巻き、僕の右斜め後方にノアのホログラムが結像した。彼女の琥珀色の左目と青色の右目が、冷徹な光を放ちながらカウスを捉える。
「こんにちは、ノア。相変わらず安定した固有定義を維持しているようで、何よりだ」
カウスは驚く風もなく、むしろ旧知の同僚にでも会ったかのような調子で、ノアのホログラムに対して平然と片手を上げた。青白い光波がカウスの深淵蒼の裾に触れ、細かな残響となって消えていく。
「セイル君は、どちらに?」
カウスは僕たちの硬直を視線でなぞりながら、ごく自然な音声で尋ねた。ギルが、カウスの手から鞄を受け取る。
「…2階です」
僕は喉の筋肉を引き絞り、乾いた声を返した。カウスは小さく頷くと、ギルを従えて庁舎の古い鉄扉をくぐった。摩耗した床板が、僕たちの靴底とカウスの均一な足音を交互に拾って響く。
2階へと続く階段を上がると、廊下の突き当たりにある一室の扉が、わずかに隙間を開けていた。
部屋の中では、配給服を纏ったリリィが、木製の丸椅子に腰掛けていた。彼女の前に座るセイルは、右の爪の先端から小さな銀の火花を走らせ、卓上に置かれた真鍮の板へと術式を刻み込んでいる。基礎的な術式の構成。セイルの指先が動くたび、金属板の表面に微細な熱が走り、細い溝が彫り込まれていく。
カウスはその光景を、扉の隙間から数秒間だけ無言で凝視した。その後、軽くノックをする。「どうぞ」と言うセイルの声がし、カウスは室内に歩を進めた。
「お久しぶりです。カウス教授」
室内のセイルが僕たちの気配に気づき、手を止めて振り返った。彼は立ち上がり、カウスに一礼する。
「ええ、元気そうで何よりです。セイル君」
カウスはリリィには視線を向けることなく、セイルの右腕に目を当てた。右袖から覗く結晶痕が、室内の煤星灯の橙の光を吸って明滅している。
「右腕の状態は落ち着いているようですね」
「はい。イレブンさんが処置を施してくれました」
「それは結構」
カウスはにこやかに頷く。その物腰はどこまでも穏やかだ。だが、その視線は、再びセイルの結晶痕をなぞるように観察している。
「炉心室へ案内します」
僕は二人の間に割って入るようにして言葉を挟んだ。カウスはセイルから視線を外し、僕へと向けた。
階段を再び下り、炉心室へと続く薄暗い通路へと足を進める。壁に這う剥き出しの配管が不規則に鳴っていた。
「グレイロック警備長は、区内の見回りに向かいました。この時間は不在です」
歩きながら僕が告げると、カウスはただ一度、静かに顎を引いた。背後を歩くギルの衣服の擦れる音が、不規則に僕の鼓膜を叩く。
通路の突き当たりに鉄の扉がある。ハンスが重い音を立てて、その扉を内側へと開いた。
炉心室に満ちる油と錆の匂いが、0区の官用車から連れてこられた無臭の空気を一瞬で塗り替える。無数の傷と痕が残る作業台の天板の上には、灰色の布が解かれていた。
その中央で、ノアの“背骨”が青く横たわっている。
青い結晶外殻が、炉心室の微光を吸って鈍く、硬質な光沢を放っていた。内部を満たす透明な流体が、一定の周期でかすかに明滅し、天板の表面に青い同心円状の光を落とす。
「約束のものです」
僕は作業台の上の結晶を指し示した。カウスの群青の瞳が、その青い脈動を捉えて静止した。
カウスは、作業台へと歩み寄った。彼は傘を作業台に立てかけ、ゆっくりと右手を伸ばす。黒手袋の先の蒼い疑似爪が、結晶の表面に触れる。
漆黒の火花が小さく散った。カウスの群青の網膜が、結晶内部の流体が打つ脈動を映して、細かく明滅する。
「…素晴らしい」
カウスの喉の奥から、低く、微かな震えを帯びた声が漏れた。それは、これまでの滑らかな社交の響きとは異なり、肉体の奥にある熱がそのまま声帯を押し上げたような響きを持っていた。彼の指先が、結晶の輪郭をなぞるようにして柔らかく滑る。
カウスは上体をそのままに、首だけをゆっくりと動かして、僕の斜め後方に浮かぶノアのホログラムを振り返った。
「これが、あなたのものなのですね。ノア?」
ノアの琥珀色と青色の瞳が、カウスの視線を正面から受け止める。
『人間だった頃の私の一部分です。1週間前に説明した通り、12区の遺構より回収しました』
「なるほど」
カウスはごく短く顎を引き、結晶から指先を離した。ギルに合図し、革製の鞄を作業台の上に置かせる。カウスがその真鍮の留め具を外すと、内部からいくつかの小さな金属製の箱が作業台の上へと並べられた。天板の上に、箱の底面がぶつかる硬い音が幾度か重なる。
「全員分用意しました」
カウスは微笑の形を唇に戻し、指先で一番手前にある箱の蓋を押し上げた。
内部には、11区の真鍮製とは明らかに異なる、鈍い黒銀色の光沢を放つ角型のプレートが収められていた。新しいIDタグだった。表面には、0区の公定刻印である精密な幾何学模様が、微細な溝となって刻み込まれている。
「黒都含む大陸全域での移動許可証が内蔵されています」
カウスは箱を僕の方へとわずかに押し出した。ニッケルの表面が、炉心室の煤星灯の橙色の光を鋭角に撥ね返している。
「どうぞ」
その言葉に応じ、僕は自分の作業着の襟元に手をかけた。首に巻かれた細い鉄製のチェーンを引きずり出し、その先端に固定されていた古い真鍮のタグを取り外す。
僕は新しいIDタグを手に取り、チェーンへと通した。
タグが首筋の皮膚に触れ、金属のひややかさが、直接鎖骨の裏へと伝わってきた。カウスは満足したように微笑を深くした。
―1週間前。CMR公認生体調律院でのことだ。
***
「移動許可証?」
カウスがノアの言葉に首を傾げた。
「理由は?」
カウスは黒手袋の手を組み、群青の瞳をノアへと向けた。その声音にはやや楽しむような含みが混じっている。
『私の部分の回収のため』
ノアのホログラムは、青白い光の輪郭を微かに明滅させながら平然と答えた。
『私の一部分は、未だ12区の遺構に遺されていると推測します。しかし、現在のネットワーク走査および導体化パルスの逆算結果によれば、その大部分が外部に流出した可能性がある』
「根拠は?」
カウスの目が細められた。黒手袋の先、蒼い疑似爪が、乾燥した机の天板をチリ、と小さく引っ掻く。
『あなたも知っての通り、廃都となった都市から物資を強奪する者たちは少なくない』
ノアの淡々とした指摘が、室内の冷えた空気に響く。
『12区が封鎖されてから現在に至るまでの空白期間、遺構に侵入した不法回収業者や“炉心強奪者”らが、私の構成要素を「高純度の伝導体」として持ち出した確率は極めて高い』
「なるほど」
カウスは組んだ指をゆっくりと解き、椅子の背に上体を預けた。彼の群青の網膜の奥で、膨大な情報が演算されていくのが分かる。
「CMR管理区だけじゃないかもしれねぇ」
それまで沈黙を守っていたハンスが、低く擦れた声で言葉を重ねた。彼は制服のポケットに手を突っ込んだまま、カウスを睨みつけるように見据えている。
「闇の流通網は上層にも通じてる。公式の走査光が届かない『網の目』は、あんたらの足元にこそ深く広がってんだよ」
ハンスの言葉には、都市の深部を知っている者の、生々しい確信が籠もっていた。
カウスはすぐには答えなかった。室内の時計が刻む不規則な秒針の音だけが、数秒の間、僕たちの沈黙を埋める。背後に立つギルの長駆は、微動だにせず床に影を落としていた。
「考慮しましょう」
カウスは静かに顎を引いた。その声は元の滑らかな輪郭を取り戻していた。
「確かに、公式の手続きだけでは追いきれない情報の空白が存在する。君たちの言う通り、彼女の断片がすでに市場に流れているのであれば、それを回収するためには相応の『足』が必要になる」
僕は机の上で握りしめていた拳を、ゆっくりと開いた。手のひらに滲んだ冷や汗が、乾いた空気に触れて急速に冷えていく。
「…これは、あなたにとっても悪くないとも思います」
僕はカウスの瞳を正面から見据え、喉の奥から声を絞り出した。
「おや?」
カウスの眉が、ごくわずかに持ち上がる。
「どういう意味ですか。イレブン君」
「“公的な”手駒だけでなく、僕らみたいに自由に動ける人間を抱えておくのは、あなた自身の目的のためにも利点があるはずです」
僕は言葉を止めず、一気に続けた。
「CMRや黒都の術師が動けば、必ずログが残る。彼らの行動はすべて都市のシステムに監視されている。でも、11区の僕らなら、公式の記録に一切触れることなく、あなたの『個人的な領域』のために動くことができる」
僕はカウスから目を逸らさないまま、言葉を重ねた。
「移動許可証さえあれば、僕らはあなたの目となり、手足となって、公にできない汚れ仕事を代わりに処理できる」
カウスの群青の網膜が、僕の言葉を吸い込むようにしてふっと静止した。
隣でハンスが微かに息を呑む気配がした。ノアのホログラムも、僕の交渉に対して明滅の周期を変えている。僕は背中に冷たい汗を流しながらも、カウスから視線を逸らさなかった。ここでただ生殺与奪を握られるだけの存在ではないと、彼に証明しなければならなかった。
カウスはしばらく僕の顔を無言で見つめていたが、やがて、その唇の両端がごく緩やかに、整った円弧を描いて持ち上がった。
「ふふ…」
低い、愉しげな笑い声がカウスの喉から漏れた。彼がまとう深淵蒼の空気の圧迫感が、ほんの少しだけ和らぐ。
「君は思ったより交渉上手ですね、イレブン君」
カウスはやや笑みを深くして、組んだ黒手袋の手を滑らかに解いた。
「いいでしょう。その提案、乗ることにします」
***
「―さて」
カウスは丁寧に“背骨”を包み直すと、僕たちに振り返った。
「早速ですが、私の『手足』として動いていただきたい案件があります、イレブン君」
カウスは黒手袋の左手を滑らかに動かし、胸元から極薄の携帯端末を取り出した。疑似爪の先端が端末を叩くと、炉心室の煤けた天井に向かって、ホログラム・ウィンドウが展開される。青白い光の束が11区と12区の境界を示す構造地図を空間に描き出した。
「炉心強奪者です」
カウスの群青の瞳が、光の等高線を冷徹になぞる。
「11区および12区の境界付近、廃棄配管層に潜伏しているとの情報があります」
投影された地図の一角が、赤く点滅した。カウスの背後に立つギルの長駆が、その明滅を浴びて長い影を床に伸ばす。
「彼は12区の遺構周辺から、高純度の伝導体を不法に回収している形跡がある。君たちの目的である『部分の回収』とも、決して無関係ではないはずですよ」
カウスは微笑の形を崩さないまま、端末を収め、視線を僕に移した。
「生死は問いません。彼を処理し、その身柄を確保してください。ただし―」
カウスは背骨を、包みの上からそっと撫で下ろした。
「―肉体の損傷は最低限に留めていただきたい。粗雑に破壊されては、事後の『再利用』に差し障りますから」
カウスの背後で、ギルの前腕を覆う藍色の鱗状爪が、炉心室の微光を小さく撥ね返した。
ここまで読んでいただきありがとうございます。
もし今回の話が刺さったら、ブックマークや評価で応援してもらえるとすごく嬉しいです。
反応があると、11区の予算が増加するかもしれません。




