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取引の天秤

僕は息を呑んだ。


「譲る、とは」

「そのままの意味ですよ」


「……」


部屋の空気が、さらに一段と希薄になった気がした。譲る。その言葉が持つ物理的な意味が、僕の脳内でうまく像を結ばない。カウスは僕の沈黙を肯定とも拒絶とも受け取らないまま、平然と言葉を続けた。


「誤解しないでほしいのですが、これは強奪でも命令でもありません。純粋な提案です。12区の遺産である彼女の存在確率を、より安定した階層へと移行させるための、ね」


「な、にを言って―」


僕は椅子の肘掛けを両手で強く掴み、上体をわずかに前に乗り出した。喉の奥が引き攣れ、声が不自然に上擦る。


「そんなこと、できるわけがないでしょう。彼女は物じゃない。僕の―」


『不可能です』

ノアが断ち切る。


『アルゼノン・カウス。あなたの提案は、基礎論理の段階で破綻しています。私とマスターは、既に精神層の深層において強固なリンク状態にあります。強制分離は、双方の完全な崩壊―すなわち、精神的死を意味します』


ノアの冷徹な正論が、机の天板に跳ね返る。しかし、カウスはその論理的な拒絶に対しても、ただ目元に微かに細めるだけだった。


「ええ、通常の術式であれば、その通りでしょう」


カウスは椅子の背にゆったりと体重を預け、黒手袋に包まれた右手の指先を動かした。蒼い疑似爪が、乾燥した空気を切り裂くように小さな軌跡を描く。


「ですが、切り離してしまえばいい。リンクそのものをね。私になら可能です」


カウスの蒼い疑似爪の先で漆黒の火花が瞬く。その鋭さは、その言葉が脅しでも虚言でもなく、ただの事実であることを僕に突きつけていた。


「彼女を…ノアを、どうするつもりなんですか」


僕は声を絞り出した。作業着の膝を掴む両指に、血が通わなくなるほどの力がこもる。右手の人差し指の爪が、まるでカウスの言葉に呼応するように、ちりちりと熱を帯びて脈打っていた。0区にノアを引き渡されれば、彼女は分解され、単なるコードへと還元される。だが、目の前のこの男が求めているものは、それとは明らかに異なっていた。


カウスは僕の問いに対して、わずかに顎を引いた。その瞳の奥に、熱のようなものが一瞬だけ仄青く浮かび上がる。


「都市のための研究に協力してもらうのですよ。イレブン君。彼女の構造を解析し、この都市の基盤インフラへと還元する。それが目的です」


カウスの言葉はどこまでも穏やかで、まるで僕に対話の余地を与えているようだった。僕は顔を上げた。


「さあ、選択の時間です。イレブン君。このままCMRの走査に引っかかり、異端として処理されるか。それとも、私の管理下で、彼女の新しい役目を看取るか」


深淵蒼アビス・ブルーの袖口が微かに揺れ、カウスは机の上に、再び両手を静かに組み直した。


背後の扉が乱暴な音を立てて開いた。瞬時にノアのホログラムが霧散する。医療官に引き止められながら入ってきたのはハンスだった。彼は無造作に座席に近づくと、一度カウスを睨みつけ、どっかりと僕の隣に腰を下ろした。


「ハンスさん」

「ニコなら車だ」


医療官が困惑したようにカウスに視線を向ける。カウスは「構いませんよ」と微笑んだ。医療官が振り返りながらも退室する。扉が閉じ、室内には再び沈黙が落ちた。


「聞こえてたぞ」

「ああ、そういえば君は導体化深度3.5でしたね」


カウスがゆったりと頷く。深度3以降に見られる身体機能の超越。ハンスは扉の外で、微かに漏れる僕たちの会話を聞いていたのだろう。


「CMR管理区では、深度3を越える人間はそういませんから」


カウスはハンスに視線を向けた。


「聞こえていたのなら、君からもイレブン君を説得してくれませんか?」


カウスは組んだ指を崩さず、視線だけをハンスへと向けた。その声の輪郭はどこまでも滑らかで、室内の乾燥した空気に染みるように届く。


ハンスの首筋の皮が引き攣った。制服の襟元から覗く侵食痕が、微かに脈動する。


「…本気で言ってんのか?」


低く擦れた声が、机の天板を伝う。ハンスの座る椅子が短い悲鳴を上げて後退し、彼が立ち上がった。靴底が床を短く軋ませる。


「本気ですよ」


カウスの声の端に、冷徹な質量が混じる。


「ふざけるな」


ハンスの手が机の縁を掴んだ。指先が白く変色し、天板の表面が油脂で微かに曇る。彼は机を回り込み、カウスに詰め寄った。カウスは微動だにしない。ハンスがさらに一歩踏み出す。だが、彼の上体は唐突に横から割り込んだ長駆によって遮られた。


ギルだった。


一歩の踏み込み。衣服の擦れる硬い音が響くと同時に、ギルの右腕がハンスの肩を掴んでいた。


「どけ」


ハンスの喉が鳴った。彼はギルの前腕に己の手をかけ、指先を食い込ませて引き剥がそうとする。しかし、ギルの足首から下は、まるで床と一体化しているかのようにわずかも動かない。


「てめえ…」


ハンスの犬歯が擦れ合い、短い呼気が漏れた。掴んでいた手を放すと同時に、ハンスがギルを睨みつける。彼の瞳が微かに見開かれた。


「…お前」

ハンスがギルを見上げる。彼の視線はしばらくギルの顔を上下し、やがて一歩下がってカウスに向けられた。


「こいつ、あの時のガキか」

「…ええ」


気のせいだろうか。カウスの言葉が、一瞬だけ立ち止まったようだった。ギルは何事もなかったように、カウスの背後へと位置を戻す。パラパラと、小さな数片が床の上に落ちた。それはギルの腕を覆う鱗状爪スケールの藍色の破片だった。


「名前、つけたのか」

「そうですね」


カウスは微笑を崩さなかった。だが、その群青の網膜が捉える焦点が、ほんの数ミリメートルだけ動いた。

ハンスの視線は、カウスではなくその足元に落ちていた。床の黒い表面に、先ほど剥落した藍色の結晶片が三つ、冷たい光を撥ね返している。ハンスは上体を低くかがめると、それをつまみ上げた。カサリ、と爪の先が結晶と擦れ合う音が響く。彼の爪先から小さな青白い火花が散った。


「相変わらず“死体”使ってんだな、てめえは」


低く、掠れた声だった。


カウスの笑みが、弧を描いたまま静止する。直後、霧散していた青い光の粒子が再び中央に収束し、ノアのホログラムが硬質な像を結んだ。端末の基盤が小さく鳴る。


「死体…?」


僕の喉から、乾いた掠れ声が漏れた。その言葉は誰に届くこともなく、机の天板の上に跳ね返った。


『把握』


ノアの平坦な声が、室内の静寂を切り裂いた。彼女の指先から走った青い走査光が、カウスの背後に立つギルの長駆を頭頂部から足元まで低速で走査していく。ホログラムの明滅が、ギルの灰色のローブに等高線のような影を描き出した。


『対象の個体―ギルの波形を検知。廃霊バグに近い、無秩序な情報体の集合。複数の波形が、物理的な縫合線に沿って強制固定されています』


ノアの淡々とした報告が、僕の鼓膜を打つ。


『この個体は、導体化した複数の“死体”を基盤とし、それを受肉させて疑似的な一個体として構成されています』


ギルは動かない。カウスの笑みは静止したまま固定されている。


『そして、その構造は、既に臨界点を超えている。崩壊確率、87パーセント』


ノアの言葉が、僕の脳の奥で12区の記憶を強制的に引きずり出した。


あの日、ギルは自身の左腕を迷いなく引き抜き、僕の導管ヒューズとなった。心臓炉の基部に突き立てられた彼の左腕。その腕の断面からは赤黒い血ではなく、青白い火花が溢れだしていた。


僕は両手を握り締め、言葉を失った。


ハンスがちらりとこちらを見た後、カウスに視線を戻した。


「…おい」


ハンスが短く息を吐き、掴んでいた結晶片を机の上に放り出す。カツン、と乾いた音が響いた。


「俺の内臓はどうだ、カウス」


僕は弾かれたようにハンスを見た。


ハンスはカウスを見据えたまま、歪に笑った。


「導体化深度3.5の肉だ。これだけ進んでりゃ、そいつの繋ぎの材料くらいにはなるんじゃねえか?」


「なかなか魅力的な申し出ですが…」


カウスは机の上に落とされた結晶片を一瞥し、それからハンスへと視線を戻した。その唇の両端はごく緩やかに、円弧を描いて固定されている。


「ハンス君。君のその深度3.5の内臓が、それなりに良質な『伝導体』であることは認めましょう。ですがね―」


カウスの群青の瞳が、ふっと室内の光を吸って昏く沈んだ。


「―私が本当にそれを欲したなら、わざわざ君の『了承』を取り付ける手続きを踏むと、本気で思っているのですか?」


僕は息を止めた。カウスの声には一切の波が無い。覆しようのない法則を読み上げるような滑らかさ。だが、その響きの奥から、底知れない質量を持った威圧が染み出し、部屋の空気を圧倒する。


カウスがその気になれば、この部屋の向こうにいる医療官たちを動かし、ハンスを『解体』してその肉体を奪うことなど容易なのだ。僕たちを、いつでも、どうにでもできる。生殺与奪のすべてを握られているのだという事実が、剥き出しの鉄の味となって口内に広がった。


(…こっちに、切れる手札が少なすぎる)


僕は奥歯を激しく噛み締めた。作業着の膝を掴む指先が、無力感で細かく震える。ノアを渡したくない。けれど、ハンスの肉体を身代わりにするような破滅的な取引も、カウスの前にあっては手札たり得ない。僕の思考は完全に空回りし、ただ歯噛みするしかなかった。


『―マスター』


脳内で、ノアの声が響いた。一点の揺らぎもない、冷たい輪郭の響き。僕はノアが次に何を言おうとしているのかを、直感的に察知した。


(待て、ノア。お前、まさか―)


『アルゼノン・カウス』


光の粒子が爆発的に渦巻き、ノアのホログラムが僕とカウスの間に立ちはだかるようにして、一段と鮮明に結像した。彼女の青白い光が、室内の乾燥した空気を鋭く引き裂く。


『私の“背骨”を提案します』


ノアの平坦な声が室内に落ちた。


カウスの眉が、ごくわずかにピクリと動く。


ノアは僕の右手を示した。彼女のホログラムの指先が、僕の右手の人差し指を指し示す。彼女の骨節の一部を受肉させた、薄青い爪の象嵌された指だ。


『現在、マスターの右手人差し指に定着している私の一部。これは私が人間であった頃の“背骨”そのものです。その導体化深度は5.5に達している』


ノアの琥珀と青の視線が、カウスの群青の瞳を正面から射抜いた。


『ハンス・レイグルの深度3.5の内臓と比較しても、代替部品、あるいは解析対象として術式的価値は、こちらの方が遥かに高い。これ以上の素材は現在、他に存在しないはずです』


カウスは動かなかった。ただ、机の上に組まれた黒手袋の指先が、小さく不規則な軌跡を描いて静止する。彼の視線が、ノアの琥珀色の左目、青色の右目へ、そして僕の右手の人差し指へとゆっくりと移動した。カウスは、ノアが提示したその価値を、脳内で冷徹に演算しているようだった。


沈黙を維持するカウスに対し、ノアはさらに言葉を重ねた。その声には一切の感情がない。彼女はカウスに対等の“取引”を持ちかけている。


『あなたの協力次第では、それ以外の部分セクターをも提供できるでしょう』


ノアの爪先から、青い火花が散った。


『答えを。アルゼノン・カウス』


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