不連続な波形
「カウス、教授」
「ええ、お久しぶりですね。イレブン君」
カウスは穏やかに微笑んだ。彼は僕の向かいの椅子に腰掛け、計器に手をかける。
この時、僕の脳は「仮病」「拒否」「逃走」と様々な選択肢を提案したものの、結局は一切体に反映されることなくカウスのすることをただ見ていた。
カウスは黒手袋の指を伸ばし、測定器の側面に配された黒いトグルスイッチを押し下げた。パチン、と硬い音が噛み合い、計器の文字盤の針が、微かな金属音を立てて右へと振れた。リノリウムの床に、走査器が発する規則的な駆動振動が伝わる。正面の円形ディスプレイに、一本の光線が走り出し、測定された波形を描き出す。
「おや?」
カウスの喉から、短く平坦な声が漏れた。彼の指先は次のダイヤルに触れたまま、静止している。室内の空気の温度が一段下がったように感じられた。僕の背中を作業着越しに冷たい汗が伝い、座席の革の感触だけが妙に生々しく背骨に伝わる。
しかし、カウスはそれ以上、ディスプレイを凝視することはしなかった。指先を滑らせてダイヤルを右へと回し切る。
「終了です」
駆動音が途絶え、計器の緑色の光が瞬時に消灯した。僕は座席に腰掛けたまま、両肩を硬直させていた。右手の感覚が失われたように鈍い。円筒の冷たい金属壁が指先に触れていることだけが判る。
『…マスター…』
脳内でノアが小さく呼びかける。僕は我に帰ったように瞬きをした。
「手を抜いてください、イレブン君」
カウスの静かな促しに、僕の肉体は遅れて反応した。錆びた機械を動かすようにして右腕を後ろへと引く。カウスは椅子から立ち上がり、スーツの裾を揺らしながら、部屋の奥にある扉へと視線を向けた。
「イレブン君、少し君と話がしたい。向こうの部屋を借りますよ」
その声が室内に響いた瞬間、後ろにいたハンスが踏み込もうとした。彼の硬い靴底が床を鳴らす。
「おい、待て―」
ハンスの言葉は、その先に続かなかった。カウスの背後に控えていたギルが、一歩だけ前に出たからだ。彼の体躯が、薄暗い走査室のわずかな光量を完全に遮り、ハンスとニコの視界を物理的な壁となって塞ぐ。その前腕を外装する藍色の鱗状爪が鈍く光った。ギルの無言の圧力が、二人の足を床に縫い付ける。ハンスの奥歯が軋む音が聞こえ、ニコの半透明の右腕の輪郭が小さく明滅した。
「さあ、行きましょう」
カウスは振り返ることなく、前に立って歩き出した。僕の足は、まるで事前に引かれた線の上をなぞるように、彼の背中を追って動く。脳内の拒絶の思考は一切四肢に伝わらなかった。
背後で扉が閉じた。カウスが席にかけるよう促す。僕はぎこちなく座席に腰を下ろした。ドアノブから手を離したギルが、慣れきった動線でするりとカウスの傍らへと戻る。
「変わりはありませんか。あれから」
カウスは対面の椅子に腰掛け、ごく穏やかに、けれどこちらの皮膚の裏側まで見透かすような口調で尋ねてきた。深淵蒼の袖口から覗く蒼い疑似爪が、部屋の淡い光を吸って静止している。
「ええ、まあ…」
僕はカウスの意図が読めず、曖昧に言葉を返した。自分の声が、調律院の不自然に乾燥した空気に吸い込まれて、ひどく薄っぺらく響く。作業着の膝に置いた両手のひらが、じっとりと汗ばんでいくのが分かった。特に右手の人差し指―ノアの“背骨”を受肉させた薄青い爪のあたりが、小さく脈打っている気がして、僕はそれを隠すように手を握り込んだ。
『マスター、油断しないでください。精神波形が乱れています』
脳内でノアの声が囁く。それは普段の平坦な音声ではあったが、明確な警戒の響きを含んでいた。
「それにしても、この一ヶ月は大変でしたね」
カウスは僕の硬直に気づいていないかのように、軽く手首を傾けながら口を開いた。
「11区の防護隔壁が、アースラインの焼損で物理ロックされたと聞いた時は、さすがに驚きましたよ」
光を照り返す群青の瞳が、僕の内臓を探るかのように視線で貫く。背骨にぞわりと冷たい感覚が走った。皮膚の内側にまで冷や汗をかいているような感覚だ。僕の視線は机の木目に固定されたまま、動かすことができない。
「イレブン君、君が地下に潜って手作業でバイパスを繋ぎ直してくれたのでしょう? 迅速な職務履行、実に見事です」
カウスの語り口は、通信機の向こうで聞いた時と全く同じ摩擦の無い滑らかさだった。攻撃的なところは感じられない。カウスの言葉が進むにつれ、僕の喉の奥に張り付いていた冷たい塊が、わずかに緩みかけるのを感じた。
「ところで―」
カウスは組んでいた指を滑らかにほどき、その疑似爪の先端で、机の木目をコツ、と一度叩いた。
「“彼女”はどうですか?」
その穏やかな音節が室内に落ちた瞬間、僕の全身の血流が完全に逆流した。
「……え」
喉から、空気の塊を引き千切ったような掠れた声が漏れる。心臓の鼓動が跳ね上がった。膝の上で握り込んだ右手の人差し指がギクリと動く。
カウスの口元は、ごく自然な弧を描いてわずかに持ち上がっていた。
「…グレイロック警備長なら、変わりありませんが」
僕の乾いた声での返事に、カウスは「分かっているでしょう?」とばかりに首を振った。胸郭の中で心臓が激しく鼓動を打つ。頚環に汗が溜まるのが分かって、僕は小さく唾を飲み込んだ。
「先ほどの波形。あれは、“あなた”だけではありませんね」
心臓の裏側が、冷たい針で突かれたように収縮した。僕は膝の上で、作業着の灰色の布地を両手で強く掴んだ。右手の人差し指の先端がちりちりと痛む。皮膚の表面に滲んだ汗が、布地を黒く変色させていくのが網膜に映った。
「…事故です」
僕は喉の筋肉を強引に引き絞り、掠れた息とともに言葉を絞り出した。視線は机の木目から動かせない。
「11区の導管をバイパス接続した際、高圧の瀝星が逆流しました。その衝撃で、右手人差し指の爪を破損したんです」
僕は必死で言葉を紡いだ。机の天板の表面に、僕の声が跳ね返される。
「義爪を、応急処置で埋め込んだんです。その…回路の接触不良による、構造的なノイズです。よくある、粗悪品の共鳴現象で―」
「ノア」
言葉の接続が、完全に切断された。
カウスの発したその音は、部屋の空気を押し潰した。僕の喉の奥で、次の言い訳を形成しようとしていた空気の塊が、そのまま凍りつく。思考の底に、空白だけが残される。
「今も、君とリンクしているのでしょう?」
カウスは上体を僅かも動かさず、ただ瞳の奥を僕の網膜へと固定した。彼の背後に立つギルの長駆が、微動だにせず床に黒い影を落としている。
『マスター』
今まで、沈黙を守っていたノアが光の粒子を渦巻かせながらホログラムの像を結んだ。僕の腰に提げた携帯端末からチリリと青い火花が散る。言葉を出し損ねた僕に頷くと、ノアはカウスへと向き直った。
『アルゼノン・カウス。あなたの目的は何ですか』
部屋の乾燥した空気に、ノアの平坦な音声が染み込んでいく。ノアのホログラムは、僕の右隣で青白い光の輪郭を静かに明滅させていた。その視線は凍りついたように冷徹で、カウスの群青の瞳を正面から見据えている。
「ふふ、また会えて嬉しいですよ」
カウスは恐れる風もなく、むしろ懐かしい友人にでも接するかのように、ごく自然な笑みを浮かべた。組み直された黒手袋の先で、蒼い疑似爪が小さく光る。
――あ。
そうだ。カウスは12区でノアと会っている。コンソールにもたれかかる“神”と、ノイズと共に溢れ出した青白い粒子。空中から僕らを見下ろしていた“ノア”。
心臓の狂ったような鼓動が、ほんの少しだけ落ち着きを取り戻していく。
(じゃあ…今まで、そのことを0区に黙っていてくれたってことか?)
カウスが12区での出来事をCMRの最高幹部たちにすべて報告していれば、僕は今頃ここにいない。とっくに異端の術師として捕らえられ、脳を分解されていたはずだ。なのに、彼は今日この瞬間まで、僕とノアの存在を上層部に明かさずに伏せていた。
―ということは、これからも、彼はこの秘密を守ってくれるんじゃないだろうか。
わずかな楽観が頭をもたげる。カウスがCMRという組織の利益とは異なる、彼自身の“意図”で動いているのなら、交渉の余地はあるかもしれない。
「人格のあるOS…」
カウスは椅子の背にもたれかかり、ノアを見つめながら、得体の知れない熱を孕んだ声で呟いた。
「実に対象として興味深い。術師の精神層と完全にリンクする構造体。12区の遺産」
『その興味は、CMRの公的な研究に基づくものですか。それとも、あなたの個人的な領域のものですか』
ノアのホログラムが、一瞬だけ鋭く明滅した。彼女は僕の楽観を完全に否定するように、さらに警戒の度合いを強めている。脳内に流れ込んでくる彼女のパルスは、カウスの真意を暴こうと研ぎ澄まされていた。
カウスは小さく息を吐き、机の上に組んでいた両手をゆっくりと離した。彼は僕に視線を向ける。そして、極めて滑らかに、日常の挨拶でも交わすかのような軽さで言った。
「“彼女”を、私に譲ってくれませんか?」




