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個体定義の象嵌

10区、CMR公認生体調律院。


主幹道路の閉鎖から一ヶ月、物理的な手続きのみが淡々と進み、境界の防護隔壁はCMRの公定巡回車を通すために一時的に開いた。


10区生体調律院の内部は、不自然なほどに乾燥していた。

壁面を覆うのは、煤の付着を拒むために何度も塗り重ねられた漆喰だ。床面には灰色のリノリウムが敷き詰められている。11区の炉心室に満ちていた油と錆の匂いは、ここには存在しない。揮発したアルコールと、高圧で殺菌された真鍮製計器の金属臭が、鼻腔の奥に刺さる。


僕の分を含め、受付のカウンターに置かれた真鍮のトレイに、三枚の受診票が並べられる。窓口の向こう側に座る女性職員の制服は、折り目一つないCMRの公定仕様だった。


「11区、定例、三名。バイパス状態検査及び導体化深度測定は三階の第三走査室です。備え付けの泥除けを靴底に貼付してください」


廊下の随所に配置された指示計のガラスの表面は、均一に磨き上げられていた。僕はなんとなく爪先を作業服で拭った。ハンスは無言で首筋の襟を立て、ニコは半透明の右腕を制服の袖の奥へと深く収め直す。廊下の突き当たりにある扉の隙間から、生体走査スクリーニング機器が放つ、規則的な高周波の駆動音が漏れ聞こえていた。



第三走査室の中央には、鋳鉄製の重い固定座席が三座、等間隔にボルトで固定されていた。座席の背後から伸びる亜鉛メッキ製の走査アームが天井のレールを移動している。


「ハンス・レイグル。前へ」


壁面に埋め込まれたスピーカーから、高低のない音声が発せられた。ハンスは無言で中央の座席に腰を下ろし、制服の両袖を肘まで捲り上げた。彼は両腕を座席の肘掛けに設けられた真鍮の固定台へと置く。上部から下降した走査アームの先端が、ハンスの剥き出しの皮膚から3センチメートルの距離で静止した。


―生体端子、状態

右:第1〜5指 欠損(バイパス伝導率 0.00%)

左:異常無し


医療官の手袋が、卓上のレバーを一段引き下げる。ハンスに向けて、円筒形の照射器が回転を始めた。導体化深度測定の行程へと移行する。指示計の針は、彼の体内を流れる霊子の残響を吸って、規則的な周期で傾き、また戻る。


「導体化深度、3.5」


ハンスは頷き、袖口を戻しながら立ち上がった。彼は屑煙草フィルター・バグを取り出そうとするかのようにポケットに手をやったが、一瞬の静止の後、何も掴まずに襟を触った。医療官がちらりとハンスの侵食痕に視線を当てる。


「―次。ニコ・フィーリ」


ニコが両袖をまくり上げると、医療官はその右腕を見て端末を確認し、何かを記入した。彼が座席に座ると、走査アームは再び同じ速度で下降する。その半透明の右腕に走査光が触れた瞬間、光線は屈折を起こし、床面に不規則な光の斑紋を落とした。


―生体端子、状態

右:走査エラー

左:異常無し


医療官の指先が、コンソールを硬い音を立てて叩いた。画面の輝度が一段上がり、反射光が彼の防護眼鏡のレンズを青白く染める。


「右腕の走査不透過、および構造の不確定性。…ニコ・フィーリ。理由を」


医療官の視線は端末に向いたままだった。ニコは真鍮の固定台に置いた半透明の右腕を、わずかに内側へと捻った。固定リングと皮膚の摩擦が、かすかに擦れる音を立てる。


「事前問診票、通りです。虚白教団ブランク・レジストリとの接触。その際に受けた、虚白の白杭(ホロウ・ステイク)による、右腕局所の白化現象です」


彼の喉が小さく上下する。医療官の指が、ふたたびコンソールを叩く。カチ、という一段高い打鍵音が室内に響いた。


「コード『BR-09』。術式による構造定義情報の部分喪失と断定。測定を再開する」


医療官が卓上の黒いトグルスイッチを反転させると、走査アームが駆動を再開した。円筒形の照射器から走査光が走り、ニコを上から下に走査スキャンする。


―全身導体化深度:1.00(規定値内)

―右上肢局所導体化深度:5.02


「右腕のみ深度5を指している。情報層の変質が物理層に先行して完了」


医療官は淡々と報告書を確定させ、真鍮のトレイからニコの受診票を引き抜く。ニコは台座から腕を引き、小さく息を吐きながら立ち上がった。




その後僕の検査が済み、基礎血液組成分析、霊子圧測定と進んだ。

ノアは検査の間、脳内で僕に話しかけることもなく沈黙している。ニコが心配そうに僕の方を見やった。


―ここまでは問題ない。


(が、問題は次だ)


個人波形測定。


僕は右手の五指をちらりと見た。灰白色の爪の中で、“人差し指”の爪だけが薄青い。

ノアの“背骨”を受肉したのだ。


***


「反対だ」

ハンスは吐き捨てた。11区管理庁舎の炉心室には錆と油の臭いが漂っている。ハンスは短くなった屑煙草フィルター・バグを、サイドボードの灰皿で揉み消した。


「それやって死にかけたのはどこのどいつだ?」


灰皿の底で、圧迫された紙巻の端から細かな火の粉が爆ぜて消えた。壁に這う剥き出しの配管が、心臓炉の排熱を拾って細かく鳴った。


『―非推奨です』


ホログラムのノアの声が静かに告げた。彼女は光の粒子を細かく揺らしながら空中に浮かんでいる。


「ノアまで…」


僕は声を喉の奥で詰まらせ、開いた掌をゆっくりと握り込んだ。指先が作業着の硬い生地を掴む。これしか選択肢がない。“死のコード”により僕自身の波形そのものを変調させ、その内側にノアの全定義セクターを巻き込むようにして上書きする。ノアの存在を偽装するための、唯一の方法。


僕はハンス、ニコ、レイナの顔を順番に見回した。全員が硬い表情で僕の考えを否定する。最後にセイルに視線を当てると、彼はしばらく考えるように首を傾げてから、小さく顎を引いた。


「…あれが使えませんか」


セイルが口を開いた。彼の指先は、作動を停止したコンソールの黒い縁を静かに押さえている。青白いホログラムの残光が、彼の端正な横顔の輪郭を薄く切り取っていた。


「あれ?」

「背骨です」


セイルは、壁際の棚に格納された包みを指し示した。


ハンスの眉間が、不規則に歪んだ。彼は口を開こうとしたが、歯列の隙間から短い息が抜ける音だけが響いた。背後の壁際では、レイナが両腕を胸の前で硬く組み、顎を引いている。ニコは開いた両手を交互に見つめ、指先を小さく震わせながら、視線を僕とハンスの間で何度も往復させていた。


「…使うって?」


僕は棚の包みを見つめたまま呟いた。


空中に静止していたノアのホログラムが、僕の声に同調して細かく明滅した。青白い光波が広がり、コンソールの金属面に冷たい反射光の輪を落とす。


「イレブンさんの爪―右手の一箇所でいい。そこにこの背骨の一部を受肉させる」


セイルの淡々とした声が、炉心室の空気を裂く。彼は棚から包みを取り出し、作業台の上へと置いた。無数の傷の入った天板に、“背骨”が乗せられる。包みが解かれ、青い結晶外殻と、内部で脈動する流体が晒された。青い結晶の列が、薄暗い室内の光を吸って鈍く硬い光沢を放っている。


「生体移植だ」


僕は自分の右手の掌を開いた。僕の指先に並ぶ灰白色の爪が、炉心室の微光を弾いている。


波形の変調―それが起こる条件を、僕は脳から引き摺り出した。


生体組織の移植。あるいは、爪の欠損部へ、新たな義爪を物理的に象嵌した場合だ。

そして、個人波形の測定は、基本的に右腕の波形を計器で走査することで完了する。


『つまり、』


ノアの声が、ホログラムの輪郭を一段と鋭く尖らせた。


『私の構造の一部を、マスターの個体定義の一部として埋め込む。それにより、走査光はあなたの波形を検知する際、私のセクターをも“マスターの部位”として検知します』


ハンスの眉間の皺がさらに深くなった。噛み締められた彼の奥歯が微かに軋む音を立てる。レイナは腕を組んだまま、作業台の青い光を睨みつけた。


「…大丈夫なんですか、それ」


ニコが開いた指先を震わせながらセイルへ視線を投げた。彼の半透明の右腕の輪郭が細かく明滅している。


「可能です」

セイルは作業台の縁から手を離さず、淡々と告げた。彼の表情は変わらない。右袖から結晶痕がわずかに覗く。


『マスターと私は、既に神経および深層においてリンク状態にあります』

空中に浮かぶノアのホログラムが言葉を重ねた。彼女の声が、脳内と鼓膜の両方で響く。


『物理的な定着に伴う初期拒絶反応、および構造定義の破綻が起こる確率は0.3%以下です。計算上、マスターの個体定義が崩壊する危険性は極めて低いと断定します』


「やる」


僕は短く応えた。


開いた右手の掌を見つめる。僕は左手の爪先を、右手の人差し指の爪根へと押し当てた。打ち込まれたコードがその灰白色の爪を分解デコンパイルしていく。爪の先端が崩れ、微細な灰白色の粒子となって指先から剥離した。そこから血と淡い体液が滲み出す。


僕は視線を落としたまま、作業台の“背骨”へと手を伸ばした。


解かれた布の上で、青い結晶外殻が冷たい質量を横たえている。内部で脈動する流体が、不規則に明滅した。僕はその中心、硬い骨節へと、皮膚の剥き出しになった右手の人差し指を押し付けた。


***


「個人波形測定は第一走査室です」

係員が事務的に告げる。


ハンスが足を止めた。ニコは右の袖口を左手で固く握り締め、指先の骨の形を布地に浮き上がらせている。二人の視線が、僕の右手に一瞬だけ落ちて、それからすぐに離れた。

僕は歩きながら、右手の拳を強く握り込んだ。

(大丈夫だ)

掌をさらに強く締め付けると、人差し指の硬さが肉を圧迫し、鈍い痛みが走った。

『マスター』

脳内でノアがそっと囁いた。

『受肉した私の骨節は、完全にあなたの個体定義の一部となっています。…脈動を、一定に』

思考の底で、彼女が僕の神経に寄り添うようにして静かに縮小していく。青い火花を僕の網膜に一瞬だけ散らし、ノアはそれ以上の信号を発するのをやめた。

第一走査室のドアノブを回す。

室内は、先ほどの第三走査室よりも光量が落とされていた。座席の傍らに配置された測定器が、鈍い光を床のリノリウムに落としている。僕は医療官に促され、中央の座席に腰掛けた。

円筒状の測定器に右手を差し込む。


不意に、奥の部屋を仕切る厚い防音カーテンが引かれた。


「こんにちは。イレブン君」


灰色のローブの長駆を従え、深淵蒼アビス・ブルーを纏ったその姿。カウスだった。


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