規定の空白
ノアがサブモニターを示した。10区管理庁舎からのメッセージ。おそらく、セイル用の受診票が添付されているのだろう。僕を含め、ニコ、ハンス、レイナ宛のものは二ヶ月ほど前に送付されていた。
カウスの意図が読めない。何故この事を自ら連絡してきたのか。教え子であったセイルを案じてのことなのか。それとも他の目的があってのことか。どれほど脳の中を掻き探っても、答えらしい答えが思いつかない。
セイルは顎を一度引き、サブモニターへと視線を移した。
「セイル君」
僕の言葉に、セイルは頷き、サブモニターの前に移動した。メッセージを開き、その内容を確認する。
「イレブンさん、ハンスさん」
セイルは一歩横に動き、サブモニターに表示された受診票を示した。ウィンドウの最上段には、CMRの紋章が、輝度の低いドットで刻まれている。
「確認してください」
僕は通信機を置き、セイルの横へ進んだ。ハンスもまた無言のまま足を動かし、サブモニターへと体を動かす。画面には、事務的な均一のフォントで、見慣れた検査項目が記載されていた。
―――
定期生体走査対象拡張通知
氏名:セイル・ヴァランシエル
測定項目:
・基礎血液組成分析
・爪状態検査
・霊子圧測定
・個人波形測定
・導体化深度測定
・個体定義保存状態
―――
「…CMRの規定通りだ」
僕の言葉にノアが頷いた。彼女は、僕の網膜へ直接、緑色のシステムログをオーバーレイさせた。ハンスはサブモニターを見つめたまま言葉を発さない。
『書式、暗号鍵、および認証コードのいずれも、CMR本部が発行する公定フォーマットと完全に一致。偽造の確率は0.002%未満です』
ノアの言葉に、僕は安心するどころか、ますます得体の知れない不安を感じていた。コンソールの冷たい金属縁に両掌を置き、体重を預ける。指先から、11区心臓炉の、どこか掠れた重低音の振動が伝わってくる。
「…カウス教授の目的は何だ?」
僕は誰に問うでもなく呟いた。モニターに表示された検査項目を一つずつ視線でなぞる。全て規定通りだ。各項目の右側には、まだ数値の入っていない、横線だけの空白のグリッドが用意されている。結果待ちの空白。
『―推測』
ノアのホログラムが、一瞬だけ青い粒子を散らして静止した。彼女の視線は、受診票の最下段、暗号化された拡張領域のバイナリデータへと向けられている。
『カウス教授の目的については、いくつかの可能性が考えられます。1.彼の発言通り。2.データ収集』
ノアが一旦言葉を切る。僕は息を呑んだ。
『3.それら以外』
「それら以外、って…」
僕は思わずコンソールから手を離し、ノアに向き直る。ノアは小さく鼻を鳴らした。
『現時点では判断材料が乏しすぎます』
ノアの言葉に、ハンスが微かに笑った。彼はサブモニターから視線を外し、左の指で自身の首筋を軽く叩く。
「目的が何であれ、“異常無し”の奴の方が少ないだろ。俺も含めてな」
つい最近まで、運動機能すら失っていたハンスの右腕。動くようになった今でも、彼の右手の爪は完全に失われたままだ。
「職務履行不可能、と判断される、とか?」
「ここが11区じゃなかったらそうだろうな」
ニコが自分の半透明の右腕を、不安そうに左手で押さえた。
「僕があの実験のログにアクセスしたのがバレたのかも」
僕は明滅を繰り返すホログラム・ウィンドウに目をやった。『被験契約者:ハンス・レイグル』という文字の列が、緑色の発光とともにウィンドウに固定されている。秘匿データへのアクセス。本当に、今度こそ死刑かもしれない。
「じゃあその場合、一番ヤバいのは俺だろうな」
ハンスは平然と煙を吐き出しながら言った。彼はホログラム・ウィンドウの前に歩み寄り、左手の爪をコンソールに置く。チリ、と青白い火花が散ると同時に、緑色の光が痙攣するように激しく震えた。
「ほら見ろ。俺の波形に反応しやがった」
緑色の光がハンスの瞳に反射し、二つの鈍い点となって映っていた。47年前の波形が、現在のシステムによって完全に捕捉されている
「俺が見ようとすると思ってたんだろうな」と、ハンスは事もなげに言う。
「カウス教授は、俺の右腕について知っています」
セイルが言った。レイナが頷き、「彼はその現場に立ち会わせたわ」と付け加えた。
「…じゃあ」
僕が言い淀むと、セイルはコンソール脇に置かれたままの彼の私用端末に視線を向けた。
「もし実験ログへのアクセスが露見していた場合、最も疑われるのは俺でしょう。エレボスの識別子を利用しました」
「それは」
僕は言葉に詰まった。セイルの申し出のままに彼の端末を利用したことを、今更ながら後悔し始めていた。
「俺のことなら心配はいりません」
セイルは表情を変えないまま続けた。
「俺の“親族”を考慮すると、CMRが介入した場合、政治問題に発展する可能性が高い。彼らは穏便に済ませようとするでしょう」
セイルは僕に視線を向けた。
「おそらく、カウス教授が関心を持つとするならばあなたです。イレブンさん」
「え?」
セイルは、僕の隣に立つノアの方を向いた。
「人格のあるOS,その契約者」
足元から這い出る空気は、地下特有の泥臭さと、凝固しかけたタールの粘ついた臭気を孕んでいた。
作業服の裾が泥水を吸い上げ、その湿り気が大腿部へとしがみついてくる。僕は右膝を地面に突き、指先を狭い導管の隙間へと滑り込ませた。数センチメートル横では、ハンスの制服の袖が、引き回された泥鉛線の束に擦れてざらついた音を立てていた。
僕は届いたばかりのCMRケーブルを右手に取った。ホログラムのノアが、自身を構成する光の粒で僕の手元を照らす。
「ニコ。それ、そのまま保持して。今、こっちのCMRケーブルと噛み合わせるから」
「はい」
ニコの右腕は、肘から先がすりガラスのような質感で周囲の闇を淡く切り取っている。僕はニコの保持したケーブルと、手に持ったケーブルを細かくねじり合わせていく。爪先が触れ合うたび、微弱な霊子の漏洩が、地下の空気に小さな青い火花を散らした。
「ハンスさん、固定お願いします」
僕が頼むと、ハンスは頷き、工具箱の底から厚手の導霊巻帯を取り出した。表面に染み込んだグリスが、地下の熱気に当てられて重い匂いを放っている。
僕が規格違いの金属線をねじり合わせた結合部。そこへハンスが手際よくそのテープを巻き付けていく。一巻き、二巻きと重ねるたび、布の隙間に織り込まれた微細線が、回路から漏れ出る霊子を吸って青白く発光する。
「…ハンスさん。ニコ」
僕はケーブルを持ったまま、声を落とした。導管を流れるノイズが、スピーカーの死んだ通信機のように鼓膜の奥を揺らしている。
「カウス教授の言っていた、健康診断のことなんだけど」
ねじり合わされていた金属線が、小さく爆ぜた。青白い火花が地面に落ち、ジュ、と短い音を立てて消える。ニコは眉を下げたまま、視線を僕の手元へと向けた。ノアも無言で僕を見つめる。
「ノアさんのこと…ですよね」
「うん。僕の波形が完全にスキャンされる。その時、ノアがCMRの端末に引っかからない方法はないかな。このままだと、確実に『人格のあるOS』の存在が本部に送られる」
『生体走査の機械は、あらかじめ登録された「正常な波形」からのズレを測定するだけの均質な計器です。走査の瞬間、マスターを通して逆流パルスを送り込みます。私の定義セクターが読み取られる数秒間だけ、端末の回路を「データ欠損」のエラーで沈黙させます』
ノアのホログラムは、自身を構成する光の粒を静かに明滅させながら、淡々とした声でそう告げた。彼女の硬質な視線は、僕の手元でねじり合わされている金属線の結合部へと向けられている。
「…カウス教授がそれに誤魔化されるかな」
僕は指先に残るグリスの粘り気を意識しながら、声を落とした。暗い導管の奥にあるハンスの顔を見やる。
「無理だろうな」
ハンスは手元に目線を落としたまま、低く掠れた声を落とした。彼の左手が、導霊巻帯をさらに一巻き、力任せに締め上げる。布が擦れ合うざらついた音が、狭い地下の空間に短く響いた。
「…僕、健康診断の日に急病にかかるかも」
『仮病ですか。マスター』
「本当にかかるかもしれないだろ」
ノアのホログラムが、一瞬だけ左右に小さくブレた。不自然に均一な光の粒子が、僕の視界の端で冷たく霧散する。彼女は、僕がねじり合わせていたCMRケーブルの結合部から視線を外し、その平坦な顔のまま、音を立てずにため息をつくような仕草をした。
『およそ、術師とは思えない粗雑な演算モデルです。マスター』
「……あ」
僕は言い訳を並べようとした口を止め、ノアの顔を見つめた。彼女の左目。地下の薄暗がりの中でも、鈍い光を放つ琥珀色。
「おい、まさか」
導霊巻帯を締め上げていたハンスの手が、完全に止まった。ハンスの視線は、僕の顔から、僕が注視しているノアの琥珀色の左目へと移動していた。僕は頷いた。
「もう一度、“死のコード”を僕に使う」




