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境界の拒絶

―バレた。


直感的に僕はそう思った。今度こそ死刑だ。


(ノア…!)

僕は脳内でノアを呼んだ。ホログラムのノアが僕の口元に耳を寄せる。


共鳴シンクロ開始だ。防護隔壁を殺す)

『了解』


鼓膜の奥で、カウスの声が反響を続けている。その穏やかな音節が完全に消え去る前に、僕の意識は足元の床板を透過し、11区の暗い配管の群れへと滑り落ちた。


網膜が捉える現実の炉心室が急速に彩度を失い、代わりに無数の光の筋が血管のように暗闇を這い回る光景が脳髄に直接焼きついた。心臓炉から伸びる配管の網目。意識の糸を伸ばす。標的は一つ。10区と、11区を物理的に隔てている「境界防護隔壁」のエネルギーラインだ。


あった。


暗黒の底に、ひときわ太く輝く青白い束が見える。あの巨大な防護隔壁の駆動エネルギーそのものは10区側から供給されている。だが、末端区である11区との境界にあるがゆえに、回路の安定を司る「接地アース」は、この11区側の心臓炉を経由して泥鉛線スラグ・ケーブルで物理構築されているのだ。つまり、ここを潰してしまえば回路自体が成立しなくなる。

僕はその回路の結節点ノードへ向けて、11区の心臓炉からパルスを叩き込んだ。


11区の劣悪な配線は、その打撃にあっけなく悲鳴を上げた。端子にこびりついていた煤と不純物が一瞬で赤熱し、火花を散らして融解する。回路を潰された巨大な防護隔壁は、ただの沈黙した鉄塊へと変貌し、10区側からの遠隔操作を完全に拒絶した。


「…っ」

僕はその衝撃を歯の間で噛み潰し、ノアに合図をして共鳴シンクロを瞬時に切断した。視界が急速に炉心室に引き戻される。全身の神経が焼き切れるような感覚に耐えながら、僕は通信機を握る手に力を込めた。


間髪入れず、炉心室の壁に埋め込まれた警告灯が赤く明滅を始めた。コンソールには『境界アースライン消失・完全閉鎖』のエラーが激しく点滅している。彫像のように硬直していたハンスが、アラートに顔を上げる。


僕は、鳴り響くアラートのスピーカーに向けて、手に持った通信機を突き出した。けたたましい警告音がカウスの耳へと直接叩き込まれるようにだ。


「カウス教授! すいません、トラブルです!」


通信機の向こうへ、裏返った声で告げる。息を荒く乱し、喉を絞りながら、僕は11区の劣悪なインフラ仕様を最大限に利用した「ハッタリ」をまくし立てた。


「11区のエネルギーが不安定なせいで、境界隔壁のアース線が焼き切れました。動力が完全に死んでます。 11区側の地下を通ってるパッチワーク配線が融解して物理ロックがかかっちゃったみたいで…!」


心臓の鼓動がうるさい。カウスの反応を待つ数秒が、永遠のように引き延ばされる。僕はカウスが術式で隔壁を強行突破しようとするのを防ぐため、さらに言葉を継ぎ足した。


「下手に10区側から物理的・術式的な衝撃を加えないでください。 今、アースが死んだせいで10区側の高圧エネルギーが隔壁内に滞留チャージしてます」

僕は頭を必死に回転させ、自分の優位性を一気に捲し立てる。ホログラムのノアが僕の耳元に口を寄せ、脳内で囁く。


『無理に触ると、過負荷で10区インフラごと消し飛ぶ可能性有り』

「無理に触ると、過負荷で10区インフラごと消し飛ぶかもしれません」

通信機を持つ僕の指先が、わずかに滑った。古い樹脂の表面に、油膜のような汗が薄く広がる。


「11区の地下導管の配線を知っているのは僕だけです。 僕が今から地下に潜って、手作業でバイパスを繋ぎ直してきます。 それまで絶対に触らないでください、通信一度切ります!」


僕は叩きつける勢いで通信機を置いた。カウスが何か言い返したのかすら記憶にない。


「…おい、イレブン」


炉心室に鳴り響くアラートの中で、ハンスが顔を顰めている。


『11区と10区の主幹道路が封鎖されました。物理的な交通が完全に切断された状態です』

ノアが淡々と告げる。


「輸送パイプは生きているので、物流は問題ありませんが」

セイルがコンソールを操作し、11区のパイプラインを確認しながら言った。セイルの前のウィンドウに映る高圧輸送管は、内部を満たすガス圧が規定値を維持していることを示している。


明滅する警告灯の赤色が、炉心室の温度を上げているように錯覚する。僕はコンソール下部の錆びた点検パネルを、爪先を引っ掛けて力任せに引き剥がした。蝶番の折れた鉄板が、鈍い金属音を立てて外れる。露出した暗がりの奥で、幾重にもねじられた泥鉛線スラグ・ケーブルが、アラートの信号をスピーカーへ送り続けていた。指先を滑り込ませ、粘ついたタールが絡む束を掴み出す。僕の欠けた爪先から散った青い火花が、ケーブルをまとめて焼き潰した。


「切れば解決すると思ってんのか?」

ハンスがため息を吐き出しながら、低く掠れた声を落とした。


「ごめん…」


喉の奥で、空気が擦れるような音がした。僕は指先に残る泥鉛線スラグ・ケーブルの硬い感触を消すように、作業着の太ももに掌を擦りつけた。手のひらの汗が、生地に黒い染みを作っていく。


「目下の問題は?」

「…大規模輸送の不可?」

僕はセイルの問いに答えた。10区以上の管理区であるならば、心臓炉のメンテナンスや拡張に必要となる、物理的に代替不可能な超大型精密部品や結晶伝導体が該当するが、どれも11区には供給された前列がない。


「あとは…医者とかか」

ハンスが付け加える。


「医者…」

僕は繰り返した。確かに、11区にまともな医者など存在しない。しかし、10区の“まともな医者”にかかる余裕のある11区の市民もまた、まず存在しない。


「…」


ハンスとセイルの視線が、項垂れたままの僕の頭に刺さっていた。沈黙が、足元から這い上がってくる。


(あれ、 これ、普段とあんまり変わらないのでは?)


不意に、そんな思考が脳裏をかすめた。主幹道路が閉鎖され、10区からの大規模な物資や医療の供給が完全に途絶えた。だが、そもそも11区の住民にとって、それらは最初から存在しないに等しい「記号」でしかなかった。物資が届かないのも、まともな医療を受けられないのも、この泥と煤に塗れた最下層の日常そのものだ。境界の鉄扉が閉まったところで、僕たちの生活の損耗速度が変わるわけではない。

その思考を断つように、炉心室の鉄扉が軋みながら押し開けられた。


見回りから帰ってきたニコとレイナだった。


「イレブン、アラートが鳴ってたわね。大丈夫なの?」

レイナが端末を示しながら言った。そこには、赤色のアラート表示と『セクター10-11:境界接地アース完全切断』の文字が明滅していた。続いて入ってきたニコも、不安そうに端末を握りしめている。


「10区との主幹道路が物理閉鎖されたって…」

ニコが硬い声で言った。彼の丸い瞳が僕に向けられる。


僕はニコの経歴書を思い出した。


―ニコ・フィーリ。10区出身。


ニコは、月に一度は10区に住む両親のもとに帰っている。僕も何度か、彼から家族の話を聞いたことがあった。


レイナが一歩前に踏み出し、僕が引き剥がした点検パネルと、その奥でタールを滲ませて融解している泥鉛線スラグ・ケーブルの残骸を凝視した。


「…大丈夫なの、これは?」

その問いは、インフラの安全を確かめるためのものではなかった。ここにいる全員の視線が、僕へと収束していく。ホログラムのノアが、僕の隣に一歩体を寄せた。


今更ながら背中に冷たい汗が走り、喉の奥が乾き出した。ハンスとセイル、そしてニコとレイナ。彼らの視線に、僕の肋骨が押し潰されそうだった。耐えきれなかった。


「…僕が、やりました」




事情を告白したところ、誰も声を荒げることはなかった。ハンスは口に咥えた屑煙草フィルター・バグの先端を上下させ、セイルはただ頷いた。レイナはまた僕の鼻をつまみ、ニコは眉を下げて困ったように笑った。


「とりあえず、直せ」


ハンスが口の端に咥えた屑煙草を動かした。その視線は、僕ではなく、融解してタールを滲ませている点検パネルの奥へと向けられている。


『物資申請が必要です。10区の安全にも関わるため、スムーズに受理される可能性が高いと判断します』

ホログラムのノアが僕の隣に立ち、硬質な光の輪郭をコンソールの明かりの中に滲ませながら、淡々とした音声で付け加えた。ウィンドウには、すでに必要となる申請書のフレームワークが青白く展開されている。


「CMR規格のケーブルを申請すればいいわ。余分にね」

レイナが僕の鼻先から指を離し、いたずらっぽく唇の端を吊り上げた。


「手伝います。イレブンさん」

ニコが眉を下げたまま、けれどすっかり慣れた手つきでコンソールを操作する。彼は品名の項目に、「泥鉛線スラグ・ケーブル」ではなく、「標準型瀝銅芯線(CMRケーブル)」と書き込んだ。


僕の喉の奥に張り付いていた冷たい塊が、ようやく肺の奥へと溶け落ちていくような感覚があった。張り詰めていた炉心室の空気が、鉄錆の匂いとともにわずかに緩む。


その空気を切り裂いて、通信機が再び硬質な音を立てて震えた。


全員の視線が通信機に集まる。その液晶画面には、先ほど切断したはずの、カウス教授の識別コードが表示されていた。


僕は再び汗のにじみ始めた掌で、通信機を掴み上げた。


「…はい」

『そうそう、先ほどは言い忘れたのですが…一ヶ月後、定期の健康診断がありますね』


スピーカーの振動板が、カウスの穏やかな声を正確に再現する。炉心室の壁に反射したその音節は、冷水を浴びせられたように僕の背筋を硬直させた。健康診断。それは、CMRに所属する者に義務付けられた、年に一度の生体走査スキャンのことだった。


『規定上はCMR所属者、ということになっていますが、セイル君も受診できるように申請しておきました。用はそれだけです』


そう告げると、通信は一方的に切断され、通信機からは無機質な砂嵐の音だけが残された。


僕は通信機を握ったまま、ゆっくりと首を動かして、周囲に立つ面々を見回した。


ハンスの右腕は、煤蜂の毒によって、黒い血管のような侵食痕が首まで這っている。ニコの右腕は、虚白教団との戦いの結果として、肘から先が光の加減によってすりガラスのように半透明に透けてしまっている。セイルの右腕には、二重波形が宿り、暗銀と銀の結晶痕が今も右袖からのぞいていた。


「…引っかかりそうな奴が多すぎるな」


僕の喉の奥で燻っていた言葉を、ハンスが平然とした声で横から奪い取った。彼はふうっ、とウィンドウに灰白色の煙を吐き出し、首筋の侵食痕を左手で軽く搔いた。


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