青の記憶に、爪を立てろ
向かいのニコが心配そうにハンスを見つめている。ハンスが飲み干した琥珀珈琲はすでに6杯目だ。琥珀珈琲は“珈琲”と称されるものの、その成分はカフェインではない。廃霊で変質した根菜を煮出したものだ。摂取により、ごく微量の廃霊成分が思考のノイズを一時的に“麻痺”させる。
「…」
ハンスは無言で立ち上がった。つられて立ち上がろうとするニコを手で制する。
「…まだ休憩時間だろ。外の空気吸ってくるだけだ」
ハンスは休憩室の扉を開け、薄暗い廊下に出た。天井の煤星灯が白い煤を薄く落としている。足元に伝わるのは11区心臓炉の古びた拍動だ。
ハンスは左手首を目の高さまで持ち上げた。
使い古された革バンドの先で、金属針がそれぞれの周期で円盤の上を這っている。文字盤を覆う強化ガラスには、うっすらと細かな網目状の亀裂が走っていた。中心部がわずかに白濁しているのは、“事故”の際に浴びた廃霊の痕跡だ。針が肉眼では捉えきれない速度で小刻みに震え、目盛りを叩いている。その機械音が、鼓膜の奥で耳鳴りのように反復した。
視界の隅に、先ほど網膜に焼きついた“背骨”が浮かんでは消える。架台に固定された青い結晶の列。内部で脈動する水銀のような液体。
ハンスは壁に掌を押し付け、前傾した身体を支えた。指先が触れたのは、塗装が剥げ落ちて赤錆が浮いた配管の継ぎ目だ。
イレブンたちに悪意があったわけではない。好奇心ですらなかっただろう。
彼らはただ、必要に迫られただけだ。余裕も選択肢も限られた環境。問題があるとするなら、亀裂の入った泥鉛線をそのまま使わざるを得ない、この11区の構造そのものだ。潤滑油すら配給が滞り、金属同士が擦れ合う乾いた音が、壁の向こうから絶え間なく響いている。
「クソ…」
ハンスは首筋の侵食痕を左の爪で引っ掻いた。じわり、と瀝甘露の匂いがかすかに立ち上る。47年前、「3区共振実験」、あの時、二人が白い塵となって積もった現場で、ハンスは呆然と座り込んでいた。彼の左手は、恋人の残した指輪を掴んだまま、開くことを忘れていた。
***
ハンスの視線は、白い塵にまみれた床面から動かない。指の隙間からこぼれ落ちた銀色の輪が、硬い床の上で二度跳ねて、乾いた音を立てて静止した。
左右から迫った四本の腕が、ハンスの腋窩に防護手袋に包まれた指を食い込ませる。引きずり上げられる体。膝の関節が噛み合わず、つま先が床の上を不規則に擦った。防護服の覗き窓、その硝子の奥にある二対の眼球は、ただ無機質にハンスを見つめていた。
視界の端で、金属製の吸引管が吸気音を上げ始める。
ノズルの先端が、床の一角に不自然な質量で堆積していた白い塵の山へ向かう。吸い込まれる粒子が、管の透明な樹脂壁を白く擦りながら消えていく。ハンスの喉から、空気の塊が引き千切られるような声が漏れた。拘束を振り払おうと、背中を反らせてもがく。
だが、項に突き立てられた冷たい針が、その運動を止めた。
流体が首筋の皮膚を押し広げ、頸椎に沿って急速に拡散していく。思考の末端から順に、靄が立ち込めるように感覚の輪郭が融解した。
次にハンスが感知したのは、防護服の質感ではなく、湿気を吸って生温くなったシーツの感触だった。どうやら、ベッドの上に寝かされているらしい。背骨を支える鉄製のフレームが、微細な振動を背中に伝えている。左右の側頭部を押さえつけるクランプと、手首足首に取り付けられたクリップ型の端子。頭上で交わされる会話が、途切れ途切れに鼓膜を蹴っていく。
―…導体化深度…異常進行…
――深度2から…、深度3.5相当…
―…原因…廃霊への過剰曝露…あるいはOS不在の接続…
――検体として……しては?
ハンスの意識は、脂が溶けていくように覚束ない。掴みそこねた言葉が、ただ脳の表面を滑っていく。自分が目を開けているのか、それとも閉じているのかすら分からなかった。
「いえ、“保存”としましょう」
コツリ、と靴の鳴る硬質な音がした。誰かがハンスに歩み寄り、彼の顔を覗き込んだ。
「意識が戻ったようですね」
金属めいた、群青の瞳がハンスを見つめていた。黒手袋の先の蒼い疑似爪がハンスの手首に押し当てられる。かすかに散った火花の色は漆黒。灰色の室内を背景に立つ、深淵蒼の三つ揃えを纏った男。
「ハンス君」
男の声はごく穏やかだった。腕時計をサイドボードから取り上げ、それをハンスの左手首の近くに置く。その重みにシーツがかすかに沈んだ。
「直しておきましたよ。まだ、十分使えます」
首を左右から挟み込むクランプの圧力により、首を動かすことは叶わなかった。ハンスは眼窩の底に溜まった瞳を動かし、視線だけを横へと滑らせた。
視界の極限に、男の輪郭が引っかかる。
深淵蒼の三つ揃えは、灰色の室内でひどく目立っていた。男の口元は、ごく自然な弧を描いてわずかに持ち上がっている。その自然さのまま、男は滑らかに発声した。
「成果ある失敗でした」
***
ハンスはまばたきをした。灰色の室内は消え、視界を埋めたのは11区の薄暗い廊下を照らす、煤星灯の橙の明かりだった。左手首を持ち上げたままの姿勢で、彼は自分の呼吸を数えた。
目の前では、使い古された革バンドの先で、金属針がそれぞれの周期を刻み続けている。文字盤の強化ガラスに走った網目状の亀裂は、47年が経過した現在もその形状を変えていない。
ハンス自身も、すでに70歳を迎えるというのに、その肉体は30半ばの姿と機能を維持している。肉体の導体化が進むほど、老化が鈍化するのだ。導体化が“退行”することは無い。後ろには、戻れない。
ハンスは制服の内ポケットを上から押さえた。中には、エミリオの個体定義を重結晶化した正六面体がある。掌を押し返す角の感触が布ごしに皮膚を刺す。
「…は」
呼吸しようとするたび、空気が角を持ったかのように喉を圧迫する。ハンスは制服の胸のあたりをぐしゃりと握りしめた。
「ハンスさん」
僕はハンスに背後から声をかけた。彼が振り返る。ハンスの肩は硬直し、左手はいまだ首筋を引っ掻いたままの形で固定されていた。廊下の剥き出しの配管から、わずかな熱が漏れる。
「何でもない」
ハンスは深く息を吐き出し、胸元に当てていた右手をゆっくりと下ろした。
「報告書、あるんだろ。手伝う」
ハンスは僕をすり抜けて炉心室へと足を向ける。遅れて、僕は、数歩遅れて彼の後を追った。
炉心室の鉄扉を押し開けると、乾燥した潤滑油の臭気と、心臓炉の排熱が肌を刺した。中心部に据えられたコンソールの前では、セイルがホログラム・ウィンドウを見つめている。青白い光が、彼の白い顎のラインを冴え冴えと浮き上がらせていた。
セイルの指先が、コンソールに触れていた。そのウィンドウには、ハンスにとって見覚えのあるであろう単語と、付随する規則的な文字列が無機質に並んでいる。最下段で明滅するカーソルが、次の命令を待っていた。セイルが手首をわずかに傾け、そのログを完全に遮断しようとする。
「…見せてくれ」
割れたガラスが擦れ合うような声だった。ハンスの左手が、セイルの指先の手前でコンソールの縁を掴んでいた。左腕の腕時計の文字盤が、青白い光を反射して細かな亀裂を白く浮き上がらせる。ハンスはセイルの答えを待たず、コンソールに爪を立てた。彼の爪先から青白い火花が散る。
ハンスの左の爪が、コンソールの感応帯を垂直に擦る。ホログラムの光学ウィンドウが、指の動きに追従して凄まじい速度で流れ始めた。白と青の文字列が、ハンスの眉間に刻まれた深い皺の谷を不規則に明滅させる。
セイルの右手がハンスの手首を掴もうと動いたが、その前にスクロールが不自然に停止した。最下段に表示されたのは、文字の羅列ではない。数千行に及ぶデータストリームの底、空白の座標だった。
突然、安定していた青白いウィンドウが、激しい明滅を繰り返した。ハンスの爪の根元から、小さな火花がコンソールへと吸い込まれていく。緑色のシステム発光が三度、網膜を刺すように点滅した。
『登録された波形を確認しました』
警告音は鳴らない。ただ、無機質な文字列がウィンドウの底から浮かび上がり、それまでのログを完全に上書きした。
『被験契約者:ハンス・レイグル』
緑の光が、もう一度点滅した。
『…マスター、通信です』
脳内で、ノアの声が短く告げた。僕は何も言わず、通信機までの乾いた床を三歩歩いた。
「はい。11区管理庁舎です」
僕の声は不思議と落ち着いていた。端末の基部から伸びる泥鉛線が、高周波の振動によって微かに震え、細かな錆の粉を落としている。
『お久しぶりです。イレブン君』
響いたのは、聞き覚えのある、ごく穏やかな男の声だった。




