現象の臨界
11区炉心管理庁舎に帰ると、レイナに鼻をつままれ、ニコに泣きつかれ、ハンスに報告書を積まれた。ノアは携帯端末の中で沈黙している。セイルは“背骨”を持ってどこかに姿を消した。
炉心室の空気は乾燥している。壁面の塗装は白い煤で汚れ、斑に剥離していた。レイナの指先が残していった硬い圧迫感は、鼻梁の皮膚の上に鈍い熱として残っている。ハンスがコンソールへ転送していった報告書の未処理タスクが、画面の隅で緑色の光点を明滅させていた。
「…ノア」
僕は表面が摩耗したコンソールに指を置き、垂直に圧力を加えた。乾いた打鍵音が響く。日付、心臓炉の稼働状況、瀝星の残量、入力されるたびにホログラム・ウィンドウのドットが発光し、冷たい発光が不均等な速度で文字列を伸ばしていく。時折ウィンドウがノイズでちらつく。文字の列はどれも傾き、入力の供給が途切れるたびに画面の走査線が線を分断した。僕がコンソールを叩く速度は天井の換気扇が回る周期よりも遅い。
「ノア」
呼びかける声は、部屋の壁に反射して消えた。携帯端末の画面の黒は、天井の煤星灯の橙を正確に反射しているだけで、発光の兆候を見せない。
「ノーアー」
三度目の呼気は、画面の埃をわずかに移動させるだけの風にしかならなかった。端末のインジケーターは完全に沈下し、何の兆候もない。
「ノアちゃーん?」
「イレブンさん」
錆びた蝶番の音を立て、セイルが炉心室に入ってきた。僕は慌てて口元を引き締める。
『―マスターの、きわめて非合理な音声呼称ログ、ならびに精神波形の乱れは、すべて内部のメモリに記録されました』
不意に、コンソールの脇に転がっていた携帯端末の液晶が鋭く明滅した。
冷たい青色の光が、僕の視界を横から刺す。画面の奥から滑り出てきたノアのホログラムは、輪郭に走査線のノイズを乗せたまま、その琥珀と青の瞳を平坦にこちらへ向けていた。
「…起きてたなら早く言ってよ」
僕は突き出していた指先を引っ込め、耳の裏に集まった熱を誤魔化すように首筋を擦った。
「今のやつ、消して。今すぐ消去して、ノア」
『却下します。本機のログ削除プロトコルには、セキュリティキーの入力、および本機による承認パルスが必要です。マスターの個人的な羞恥心の隠蔽を目的としたデータ改竄は、システム運用規定第十二条に抵触します』
彼女のホログラムの指先が、空中に冷たい警告のポップアップを一つ浮かび上がらせる。
「…」
そのポップアップに向かって火花を飛ばす僕の横で、セイルが上着の包みをコンソール横の金属作業台へと静かに置いた。
擦れた布がめくられると、内部からあの青い結晶の「背骨」が姿を現す。内部を満たす水銀のような流体は、いまだ規則的な重い脈動を繰り返していた。粘り気のある光が、炉心室の床に歪んだ影を落とす。
「これの、より微細な波形解析、および組織の組成調査はこちらの機材で行いたいと思います。11区の予備コンソールでは、入力インターフェースの霊子圧が適合しません」
セイルは淡々と言いながら、自身のベルトから吊り下げた、何本ものきらめく細い線を提示した。端子の先端にある結晶の端子が、室内の煤星灯の橙色を鋭く反射している。
「うわ。これ黒都式の瀝鋼結晶線じゃないの?」
「私物です」
僕の視線が足元のコンソールボックスから這い出ている、くすんだ灰色の束へと落ちる。
11区の不法投棄場から拾い集められて再融解されたケーブル―瀝煤泥鉛線は、太さが不均一で、被覆の有機布から染み出たタールが周囲の埃を巻き込んで灰色の肉塊のように硬化していた。切断面に覗く鉛の芯には気泡の空洞が無数に走っている。
『待機。当該サンプルの物理接続を要求します。受信ポートを開放』
ノアの指先から、細い青色の光線が数本、作業台に向けて照射された。
『解析端子の第一ピンを、結晶椎骨の第三節、神経束の切断面へ直接接触させてください。入力インピーダンスの調整は本機側で自動実行します』
ノアの指示に合わせ、セイルの指先が機械的に動く。彼の手元の瀝鋼結晶線は、半透明の結晶外皮を持ち、内部を走る霊子の脈動が糸のような青白い光の線となって、規則的に明滅している。
『ポート同期確認。接続インピーダンスの最適化を実行します』
ノアの声が響くと同時に、セイルの細い指先が結晶爪を背骨の神経束へと垂直に押し込んだ。結晶線を通じて背骨の内部流体へとパルスが送り込まれると、水銀様の流体は一瞬だけその粘度を失ったように激しく震えた。
作業台上の空中に極細の走査線が等間隔で走り始め、ホログラム・ウィンドウが立ち上がる。そこに、“背骨”の脈動と同調した緑色の細波が描画され、波形が映し出されようとしたときだった。コンソールの底面からパチリ、と乾いた金属の破裂音が響き、その輪郭が完全な曲線を結ぶ前に霧散する。直後、空間を割り裂くようにして濁った灰色の砂嵐が噴出し、ウィンドウそのものを完全に押し潰した。投影素子のスリットから、薄い白煙が立ち上り、炉心室の乾燥した空気に不快な焦げ臭が広がる。
「あー、クソ。またこれだ。最近ホログラム・ウィンドウの調子が悪いんだよな…。いや、全体的にここの心臓炉は最初からポンコツだけどさ」
僕はコンソールボックスの側面を、手のひらの付け根で強く叩いた。鈍い金属音が響くだけで、空間の砂嵐はただ不規則に明滅を繰り返す。
『原因は経年劣化、および入力霊子圧の飽和です。マスター、筐体を物理的に叩く行為は、残存する回路の断線を平均三・二パーセント加速させる以外の効果を持ちません』
ふわふわと空中に浮かぶノアの声だけが平坦に鼓膜を叩く。
『コンソール下部、第三配線盤を開放してください。束ねられている二十四本の泥鉛線のうち、現在も最低限の通霊性を維持しているのは、07番と12番の二本のみです。他はすべて内部の鉛芯が気泡によって炭化しています。07番をサンプリングバスへ繋ぎ直してください』
「どれも大して変わらないって…」
ぶつぶつと言いながら、僕は爪先でよれた配線束を小突いた。合成樹脂の被覆が剥がれ、劣化した鉛の灰色の粉が床に小さく散る。
「イレブンさん、もし必要であれば、俺の瀝鋼結晶線をもう一基、基盤へ直接バイパスさせますが」
セイルが自身のケーブルをコンソールの端子に近づけようとする。半透明の線から漏れる青い光が、灰色の鉄板を冷たく照らした。
「ありがたいけど…。受け止める側のこっちの基盤が泥でできてるんだ。元がダメだから」
僕は手を振ってそれを制し、コンソールの錆びたネジに指をかけた。
だが、その指先が止まる。
視線は、作業台の上で水銀様の流体を脈動させている、あの青い結晶の「背骨」へと向いていた。
「…」
規則正しく並んだ、寸分の狂いもない結晶椎骨の隙間。
そこから漏れ出る、11区の泥鉛線とは比較にならないほど高純度で、かつ黒都の結晶線よりも高密度な、青白い霊子の流れ。
僕はコンソールから手を離し、背骨の切断面をじっと見つめた。
「…ねえ、ノア。わざわざここの腐った泥鉛線を通さなくてもさ。この『背骨』そのものを、配線盤として使えないか?」
『…』
「…」
ノアとセイルが揃って沈黙する。炉心室の空気は、熱を帯びた樹脂の焦げ臭さを吸ってさらに乾燥していた。
セイルの視線は結晶椎骨の切断面に固定されたまま微動だにせず、ノアのホログラムは、空中で微細なパルスを明滅させるのを完全に停止させている。
(あっ、まずい)
僕は顔の熱が急激に引いていくのを感じ、自身の突き出した人差し指の先が、煤けたコンソールボックスの角を小さく削るのをただ見つめた。
「…いや、今のはなし。さすがにないよね、まさかこれを使うとか。うん。忘れて、ノア、セイル君。すぐに泥鉛線を探すから」
僕が取り繕うように声を上げ、床の灰色の束へ無理に手を伸ばそうとしたとき、携帯端末の筐体が小さく駆動音を立てた。
『―待機。マスターの発言に基づく、霊子伝送路の代替シミュレーションを実行します』
ノアの平坦な声と同時に、彼女の手から青いスキャン光が放射された。光線は作業台の上の結晶椎骨を、頭骨側の接続部から尾部にかけて等間隔に刻みながら走査していく。
『スキャン完了。当該サンプル中心軸の流体霊子組織は、二十四対の独立した並列伝送経路を形成しています。これは、11区第三配線盤の全配線を代替する多重霊子バスとして完全に機能します』
ホログラムのノアが、淡々と右手を持ち上げる。その指先から、新たな構造解析図が空間に展開された。
『さらに、流体組織を取り囲む固体結晶の各節は、内部パルスと同調して一定周期の固有振動を発生させます。これは、入力される減衰波形を強制的に均一化し、3.5倍に昇圧する共振ブースターとして利用可能です』
ノアがこくりと頷く。
『―結論。マスターの提案は、本管制系統を維持するための最短かつ最も合理的な選択肢です』
「…配線盤兼、増幅器か」
「合理的です」
セイルは表情を変えないまま、自身の腰のベルトに指をかけた。
短い金属音とともに、セイルがベルトの固定具を外すと、そこから蛇のように絡み合っていた半透明の結晶ケーブルが外れた。彼はそれらをくるりと一本の束にまとめると、僕の前に差し出した。
「使ってください」
「あっ、ありがとう」
僕はセイルからそれを受け取ると、まとめて作業台に置いた。炉心室の隅に行き、そこにある赤錆の浮いた鉄製の脚立をコンソールまで運ぶ。
『マスター。その構造物を基幹部の架台に物理的に密着させてください。筐体アースへ強制クランプすることで物理的振動を抑制します』
「分かった」
僕はガタつく脚立をコンソールの側面へと引き寄せた。鉄のステップを踏みしめるたびに、乾燥した錆の粉が足元で潰れる。基幹部の円盤裏は、煤と劣化した配線の被覆が固まり、泥のようになって基盤の隙間を埋めていた。
「セイル君。背骨を」
「はい」
セイルが両手で背骨を差し出す。僕は、脚立の上で背骨の重い感触を両腕で支え、基幹部の架台の、最も肉厚な鉄板の上へそれを密着させ、クランプで固定した。半透明の骨が、油の浮いた鉄に触れた瞬間、ジリ、と短い放霊音が鼓膜を刺す。
「ノア、同調パルス、いつでもいけるよ」
『了解。第一ゲート、開放。並列バスの同期を開始します』
僕はセイルから次々と手渡される結晶線の先端を、“背骨”の節へと、一本ずつ、垂直に押し込んでいった。僕の爪先から散る青い火花が、半透明の結晶を透過して架台を照らした。
「これで最後です」
セイルの声とともに二十四本目の結晶線が、11区のくすんだ基盤の端子へ垂直に押し込まれる。僕は脚立から降り、額の汗を袖口で拭った。
『―並列多重バス、同期。全霊子伝送経路の構築を完了。本機の投影プロトコルを、11区心臓炉の大型投影素子へ転送します』
コンソール中央の、煤で曇ったガラスレンズが内側から青白く発光する。照射された光線は、もはやこれまでの砂嵐のような砂粒を含んでいない。極細の青い光の糸が数千、数万と空間に織り上げられ、炉心室の床の上に、一人の少女の姿を細やかに描き出した。
等身大のノアが、そこに立っていた。琥珀と青の双眸は、投影光特有の不自然な発光を排し、本物の人間の網膜のような湿り気を持って僕を見つめていた。
彼女が“呼吸”するたびに、胸が上下し、衣服の皺が微かに細波を立てて歪む。
「…すごいな。走査線が、一本も見えない」
僕は脚立の鉄のステップを握ったまま、その場に硬直していた。手の届く距離にいるノアのホログラムは、あまりにも精密で、まるで彼女の皮膚に触れれば、その薄さと冷たさがそのまま指先に伝わるのではないかという錯覚すら抱かせた。
セイルはコンソールの脇に立ったまま、ノアを見つめている。
「これほどの多層投影は、黒都の第一定義室にある心臓炉でさえ、出力の三分の一を割かなければ維持できません。…あの背骨の共振パルスは、こちらの予測を二世代は上回っていますね」
「うん。ほんとにすごいな…11区の泥鉛線じゃ、絶対にこうは行かなかった」
僕は頷き、もう一度ノアを見つめた。僕の視線を追って微かにノアが首を動かす。長い髪がさらりと肩に落ちかかり、彼女の顔に繊細な影が揺れた。
(…生きてる、みたいだ…)
僕が瞬きをすると、ノアの琥珀と青の瞳も瞬いた。ふわふわとした睫毛が風を起こすように上下する。ふっくらと閉じられた小さな唇。それを見て、僕はなんとなく視線をそらした。どういうわけか、耳が熱くなっている。
正面以外からもその姿を確認しようと、脚立から手を離す。
背後の扉が、潤滑油の切れた不快な摩擦音を立てて大きく開いた。
「おい、イレブン。報告書の未処理タスクがまだ山ほど残って―」
入ってきたハンスの言葉が、部屋の中央で唐突に途切れた。彼の靴底が、床の鉛の粉を小さく踏み潰す。
ハンスの視線は、炉心室に佇む高精度なノアのホログラムを通過し、そのまま僕の頭上へと跳ね上がった。心臓炉の基幹架台、赤錆びた鉄板の肉厚な結合部に、無骨な鉄製のクランプで強制的に締め付けられている、あの青い結晶の“背骨”。
ハンスの顔から、表情が消える。彼の手に握られた携帯端末が、指先の微かな震えに合わせてカタリと乾いた音を立てた。




