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空白の領域

ハンスの足元で、剥離したコンクリート片が微かに擦れる音が響き、それきり途絶えた。炉心室の空気が冷たい鉄針で掻き回されたようだった。


「…お前ら…それ…」


ハンスの声は奇妙に掠れていた。まるで喉元にせり上がってくる何かを、必死で飲み込んでいるような。彼は制服の上から内ポケットの辺りを押さえた。その視線は、鉄のクランプに肉をへこませるようにして固定された“背骨”の青い脈動に縫い付けられている。セイルは衣服の皺一つ動かさず、ただその紫の双眸でハンスを見つめていた。


僕は、耳に集まった熱が、急速に散っていくのを感じた。

「…これ、外そう」

自分の声が、コンソールの筐体に吸われて妙に低く響く。僕は基盤に爪を立てる結晶ケーブルへと素早く手を伸ばした。青白い霊子の光が細くきらめく。


「第三配線盤の性能だけ上がっても残りがボトルネックになるから、全体としてはそんなにパフォーマンスが上がらない。11区の主系統の同軸線はすべて泥鉛線スラグ・ケーブルだし」


僕は端子を弄り、接続部から引き抜こうと爪をかけた。早口の言葉が、喉の水分を奪っていくようだった。「背骨」から生じる、ジリ、ジリ、という極小の放霊音と、投影素子から発せられる熱を帯びた乾燥した風の音が鼓膜を擦る。


『―同意』


等身大のノアの唇が、一切の感情を排した速度で動いた。


『マスターの指摘は、システム論理上きわめて正確です。本機の投影精度は一時的に三四〇パーセント向上していますが、これは11区心臓炉の総出力に対する純粋な損失です。当該サンプルをここに固定し続けることは、リソースの局所的浪費であり、不合理です』


彼女の琥珀と青の瞳が、パチリと一度だけ瞬く。

その網膜の湿り気を模した光の反射が、僕の焦る指先を一瞬だけ正確に捉え、次の瞬間には、元の平坦な光量へと戻った。


ハンスは何も言わなかった。

彼の手にある携帯端末のインジケーターが、一度だけ鈍い橙色の光を明滅させた。

彼は僕が結晶線にかけた指を見ることも、ノアの精密なホログラムを視界に入れることも止め、ただゆっくりと踵を返した。

開いたままになっていた鉄扉の、潤滑油の切れた蝶番が、自重で軋みながら閉じる。

ガチリ、と硬い金属のラッチが噛み合う音が室内に響き、ハンスの靴が廊下の塵を踏みしめて遠ざかっていく足音が、廊下の奥へと消えていった。


僕は架台の固定レバーへと体重をかけた。油の切れた強固なクランプを開け、“背骨”を解放しようとする。


「待ってください」


セイルが言った。


「当初の目的―波形の確認を。取り外すのはそれからでもいい」


架台のレバーにかけた指先が、冷えた鉄の質量を捉えたまま硬直する。

セイルの言葉は、室内の乾燥した空気の中に静かに置かれた。


「…確認、だけなら」


僕の喉が鳴る。鼓膜の奥で、心臓炉の低周波が一定の脈動を刻み続けていた。背骨の青い光が、コンソールの金属壁に反射して僕の視界を二分している。外さなければ、という生温い体温よりも、その青い髄液のような光が描く波形を見たいという眼球奥の熱が上回った。


僕はレバーから手を離し、“背骨”から結晶線クリスタル・ケーブルを一本引き抜く。空いた場所に、右手の解析端子を手早く押し込んだ。


同時に、生身のようなノアのホログラムが、一瞬だけ激しく明滅した。

輪郭を構成する光の粒子の密度が急速に高まり、彼女の衣服の繊維や、皮膚の細かな肌理が、現実の肉体に近い陰影を持って周囲の暗がりを押し広げる。


彼女が右手を小さく持ち上げると、その胸元に小さなホログラム・ウィンドウが展開された。その平坦な画面の上を、細い青色の線が、不規則な波を描きながら左から右へと走り抜けていく。


『…奇妙です』


ウィンドウの光量が、ノアの顔面を不均一に照らす。彼女の瞳が、刻々と変化する青い線の頂点を正確に追って、微細に左右へと揺れていた。


『マスター、当該オブジェクトの波形に不可解な増幅傾向があります。確認のため、正しく接続されていない端子の物理的な直接修正を求めます』

「分かった」


僕は頷き、脚立のステップに足をかけた。解析端子を一度引き抜き、今度は慎重に差し込み直す。

「…っ」

“背骨”に触れた瞬間、僕の右手の爪先から小さな青い火花が散った。指先から、硬い組織ごしにかすかな脈動が伝わってくる。僕は額の汗を作業着の左の袖口で拭った。


『マスター』


ノアの声のトーンが、わずかに下がった。

それはいつも僕の問いかけに応じる淡々とした声音ではなく、潤滑油の切れた機械のような、乾いた響きだった。


『私に―“触れ”ましたか?』

「いや。僕は、背骨の端子に触れているだけだけど…」


僕の指先は、背骨の滑らかな結晶質の節を掴んだまま硬直していた。ノアのホログラムへは、一切触れていない。セイルの紫の双眸が、僕の右指と、明滅を繰り返すノアの顔を交互に往復した。室内の空気は乾燥し、心臓炉の低周波だけが床板を微かに振動させている。


『未知のログ、あるいは感覚です。本機のデータベースには、この物理的接触に対する正常な用語定義が存在しません』


彼女の琥珀色と青の瞳の光量が、急激に低下する。ホログラムの輪郭を維持する光の粒子が、震えるように乱れた。彼女は自らの胸元を、実体の無い光の指先で静かに押さえた。


『マスターとの共鳴シンクロによる擬似接触ではなく、コアそのものが直接締め付けられ、かつ、一定の質量で固定される現象。…これは…“抱擁”に該当します』


「抱擁?」


僕の喉から、渇いた声が漏れた。

ノアは答えず、再び右手を小さく持ち上げた。彼女の輪郭を構成する光の粒子の密度が、一瞬だけ鋭く跳ね上がる。胸元のウィンドウに、二つの異なる波形パターンが並列で表示された。


上の線は、現在、解析端子から吸い上げられている「背骨」の不規則な脈動。

下の線は、僕のよく知る青い波形―ノアのものだ。共鳴シンクロを通じて僕と共に脈動する、彼女の固有波形。


二つの青い線は、左から右へと走る過程で、完全に重なり合った。

ミリ秒単位の狂いもなく、波の頂点と底、そして欠損の空白そのものが、同一の形を成して画面を焼き切るように発光した。


『完全一致。本機の“固有波形”と、当該オブジェクトの“個人波形”は、同一のIDを共有しています』


ノアのホログラムが不規則に明滅する。黙り込む僕の横で、セイルが口を開いた。


「それは、あなたがかつて『人間』だったという証明ですか」

セイルの声は、炉心室の乾燥した空気を鋭く切り裂いた。彼の瞳は、並列に並んだ二つの波形が完全に重なり合い、青い光の帯へと変わる様を微動だにせず捉えている。


ノアのホログラムは、胸元のウィンドウから発せられる青い光を反射し、その頬の輪郭を不均一に白く焼き飛ばしている。


『現行の外部記録、およびCMRの製造登記に該当するデータは存在しません。しかし、本機が検知した個人波形と自己の固有波形照合―』


彼女の声が、一瞬だけコンソールの冷却ファンの駆動音にかき消されるほどのラグを起こした。投影された指先が、自身の細い鎖骨の窪みを、より深く、実体を持たないまま押し込む。


『計測…九七パーセントの確率で、当該オブジェクトは、本機が構成される以前に存在した、生体組織の『中心軸』であると推測されます』


九七パーセント。その数値が、僕の右手の爪の先端に、ジリ、と冷たい火花のような痛みを走らせた。


「じゃあ…あの背骨は、ノアのもの、なのか」


言葉が喉の奥で乾いた塊となり、吐き出される。架台の上に固定された、クランプの間から覗く青い光。それが、いま僕の目の前の少女の、かつての物理的な肉体の支柱であったという事実。指先に残る、あの“背骨”を固定した時の鈍い振動が、急に生々しい重さを持って僕の腕に圧し掛かってきた。


「なぜ、あのような状態で12区心臓炉の基幹部に組み込まれていたのですか」


セイルは一歩も動かず、ただ視線だけでノアの瞳を射抜いた。


「あなたを構成した組織が、なぜ12区心臓炉の基幹部の一部として使われていたのか。それに関する、プロセスへの記憶は?」

『不明』


ノアは即座に答えた。その声のトーンには、何の感情もつなぎ止められていない。ただの事実の出力だった。


『本機の最下層セクタ―セクタ〇四から十二の空白領域は、完全に消失しています。なぜ、本機が『ノア』として再起動したのか、その因果を繋ぐデータは存在しません』


室内に、完全な沈黙が降りた。

十一区心臓炉の低周波だけが、コンクリートの床板を介して、僕たちの足の裏を規則的に揺らし続けている。ホログラムの青い光が壁の傷痕を冷たく照らし、セイルの影を背後の扉へと長く伸ばしていた。誰も言葉を発しない。


「…とりあえず、これは片付けよう」


僕は呼吸の浅さを押し殺すようにして、再び架台へと手を伸ばした。

レバーを握る手のひらに、冷えた鉄の質量が容赦なく伝わってくる。油の切れたクランプを力任せに引き絞ると、ガギ、と硬い金属音が室内に響き、“背骨”を固定していた爪がゆっくりと開いた。


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