神の臓腑
コンソールの透過スリットから放射される青色の光が、僕の網膜を均一に照射していた。
水平方向の走査線が静止し、砂嵐が完全にパージされた画面の奥で、少女の像が静かにこちらを見つめている。
ホログラムではない。
僕のひび割れた灰白色の爪が、筐体の冷えた金属の縁に食い込む。
「これ…」
ハンスも屑煙草を咥えたままその映像に視線を固定している。セイルはしゃがみ込み、筐体のむき出しになった配線を調べ始めていた。
「これは…君、なのか?」
僕は、斜め前方に浮遊する半透明の光像へと視線を向けた。ノアのホログラムを構成する青い光の粒子は、携帯端末の出力端子を中心に、一定のクロックを維持して微細に明滅している。
彼女の半透明の指先が、投影された映像データの外周フレームをなぞるように動く。
『―質問の意図を正確に捕捉できません』
ノアの声は乾いた風の中に無機質に響く。彼女の瞳の奥で、高速で文字列が落下する。琥珀と青の瞳が瞬きし、もう一度映像の中の“ノア”を見た。
『本機には「肉体」と呼ばれる有機構造体を保持していた記録、およびそれに伴う五感の感覚記憶が一切存在しません。論理的、かつ物理的な連続性を証明するデータが完全に欠落しています』
ノアの唇の輪郭が機械的な輪郭で動く。
『したがって、当該個体が「私」であるか否かについての回答は―不明』
淡々としたトーンが、崩落した灰白色の結晶塊の残骸にぶつかり、冷たい残響となって消えた。
背後で、ハンスの靴底が床の結晶塵をパキリと踏み砕く音が響く。
ガタリ、と何か重いものが動く音がした。視線を上げてみれば、セイルが天井から崩落した心臓炉の基幹部―“砂時計の上半分”にあたる部分を転がそうとしているところだった。ほとんどが結晶に覆われたそれの、配線がむき出しになっている部分に触れようとしているらしい。ハンスが床の瓦礫を跨ぎながら近づき、セイルに手を貸す。
「重えな、クソ…」
ハンスの低い唸り声と共に、鈍い摩擦音が響く。二人の力で巨大な塊が半ば強引に裏返されると、パラパラと灰白色の結晶が剥がれ落ち、内部の複雑な構造が露わになった。
「こいつは…ひどく焼け焦げてやがる」
ハンスが顔をしかめながら、咥えていた屑煙草を口端に寄せる。
セイルは無言のまましゃがみ込み、むき出しになった配線の束へ左手を差し伸べた。彼の指先から暗銀の火花が散り、切断された太いケーブルの断面に触れる。チリッ、と微かな放霊音が鳴り、セイルの瞳がわずかに細められた。
その様子に、僕はコンソールに映る少女の像から自然と視線を外し、彼らのもとへと歩み寄った。
足元の結晶塵が、僕の歩みに合わせてパキ、パキと軽い音を立てる。
セイルの手元を覗き込むと、そこには現在の11区では見たこともないような、異様に緻密で生体的な配列をしたケーブルが這っていた。まるで本物の血管か神経の束のようだ。
「生きている回路を探しているのか?」
僕が興味を惹かれて尋ねると、セイルは配線から目を離さないまま静かに頷いた。
「ええ。この基幹部は、先ほどの『神』と呼ばれた個体と直接接続されていたはずです。記録スリットを駆動させていた大元の物理ログが、この神経網の深部に焼き付いている可能性があります」
「ノアのことが分かるかもしれないってことか…」
僕は、まるで生き物の腸を探るようなセイルの緻密な指先を、食い入るように見つめた。背後では、ノアのホログラムがコンソールの前で静かに浮遊を続けている。
ジリッ、と。
突然、僕の持つ携帯端末から耳障りなノイズが弾けた。
『―イレブン、生きてるの!?』
鼓膜を叩くような、切羽詰まった声。レイナだ。ノイズ混じりとはいえ、彼女の焦燥しきった声が空間の乾いた空気を震わせた。
「あ、はい…生きてます。すいません、心配かけて」
僕が慌てて喉を震わせると、通信の向こうでレイナが短く息を呑む音が聞こえた。背後からは、ニコの微かな安堵の吐息も漏れ聞こえてくる。しかし、レイナの声の切迫感は消えなかった。
『よかった…! でも、どういうことなの? こっちのコンソール、あなたの生体信号は途絶えたまま固定されてるわよ。再接続のパルスを送っても、完全に―』
「え? 途絶えたままって…」
僕が思わず自分の首元、冷たさを取り戻したはずの頚環に触れようとした、その時だった。
「…個人波形だ」
セイルの低く、鋭い声が、レイナの通信音を遮るように僕の耳に届いた。
視線を落とすと、セイルの指先から散る暗銀の火花が、血管のようなケーブルの奥深くで微かに脈打つ光を捉えていた。
「個人波形…?」
僕は頚環から手を離し、思わずセイルの横へと深くしゃがみ込んだ。
『ちょっと、イレブン? 聞いてる? 今すぐそっちの状況を――』
通信の向こうでレイナが早口で何か言おうとしていたが、今の僕にはそれに耳を傾ける余裕はなかった。死んだはずの“神”の基幹部、そこに遺された生体的な配線と、セイルが見つけ出した異常な波形。それが意味するものを確かめなければならない。
「ごめん、レイナさん! 今ちょっとそれに構ってる余裕がない。後でこっちから繋ぎ直します!」
『えっ、ちょっと待っ―』
僕は携帯端末のスイッチを弾き、強引に通信を切断した。
プツリ、という無機質な霊子音と共にレイナの声が消える。再び静まり返った廃墟の炉心室には、乾いた風の音と、基幹部の放つ微かな駆動音、そしてセイルの指先で弾ける火花の音だけが残された。
僕はセイルのつまみ上げたケーブルに触れる。僕の爪先から青い火花が散った。
無機質なはずの機械の腸から、読み取れるのは、微弱だが確かな鼓動のような波形だ。
「まだ、生きてるシステムがある…」
僕は、焼け焦げたケーブルの束のさらに奥深く、灰白色の結晶に半ば埋もれながらも微かな明滅を繰り返す神経網の深部を覗き込んで呟いた。死んだはずの“神”の臓腑の中で、そこだけが微弱な鼓動を保っている。
「ええ。自己修復ルーチンが残っていますね」
セイルの冷静な声がすぐ横で響く。彼の指先から散る暗銀の火花が、生きている回路の境界線をなぞるように走った。
「おまえら、そのへんでやめとけ」
背後から、ハンスの低くドスを効かせた声が降ってきた。彼は忌々しそうに新しい屑煙草を噛み締め、ホルスターに手を当てている。
「これ以上、得体の知れねえ12区の死体を突っつくのは悪手だ」
ハンスの警告はもっともだ。だが、僕の目はその脈動する回路の先にある「空白」に釘付けになっていた。
「…中核層に、空白領域がある」
僕はハンスの言葉を半ば聞き流し、ひび割れた灰白色の爪先を、結晶化しかけた基盤の隙間へと滑り込ませた。
「自己修復ルーチンがアクセスしようとして弾かれている領域だ。ここを迂回して、残存している回路と繋げば…」
「やめろって言ってんだろ」
ハンスが声を荒らげ、僕の肩を乱暴に掴もうと手を伸ばした。しかし、それよりも早くセイルが動いた。
「迂回の術式構築、合わせます」
セイルの左手から暗銀の火花が爆発的に散り、断線したケーブルの断面を強制的に融解・再結合させていく。僕はその熱に焼かれるのも構わず、己の右腕を深く差し込み、古い神経網の結節点を素手で掴んで引き寄せた。
ズン、と、足元の床全体が、重い低周波の振動に揺れた。結線された回路が青白い光を帯び、脈動が周囲の灰白色の結晶を内側から侵食し始める。パキリ、パキリと硬質な破砕音が連続して鳴り響いた。
表層を覆っていた分厚い硬化結晶がひび割れ、塵となって崩落していく。
内部に秘匿されていた構造物が、青色の走査線に照らされて露わになる。
断裂した配線と結晶の奥底から“それ”は姿を現した。
「なんだ、これ…」
僕の喉から、掠れた息が漏れた。セイルもまた、その手を止めて静かに目を見開いている。
そこにあったのは、機械の部品でも、単なるケーブルの束でもなかった。人間の「背骨」―その一つ一つの椎骨が透明な青色の結晶で構成された、異様で冒涜的な構造物だった。結晶の背骨の内部には、水銀のように鈍く光る流体が満たされ、今この瞬間も、ドクン、ドクンと生物的な脈動を打っている。
『…―解析』
僕の肩口から、ノアの平坦な声が割り込んできた。彼女の琥珀色と青の瞳が、結晶の背骨の表面を走る細い光の波形を冷徹にスキャンしていく。
『残留している神経パルスの伝導効率は九十九パーセント。システムの一部として完全に組み込まれ、心臓炉の中枢として機能していたと推測されます』
ノアが一度言葉を切る。
『…当該構造物は、内部を流動する流体を含め、完全に導体化しています』
「導体化…」
ノアの冷淡な言葉の意味が、僕の脳内で一つの形を結ぶ。喉の奥が急速に干上がっていくような感覚に、僕は自分の胸元を強く掴んだ。
「導体化ってことは…これ、元は人間の…」
言葉の先を紡ぐことができなかった。心臓炉に、最初からパーツとして埋め込まれていた部品じゃない。
「椎体の全体的な寸法からすると、成人のものではありませんね」
セイルは眉ひとつ動かさず、結晶の椎骨に顔を近づけた。彼の指先から散る暗銀の火花が、青い結晶の表面に触れて小さく弾ける。
「これは、おそらく…」
「どけ」
続けようとするセイルに、ハンスが言葉を被せた。いつの間にか近づいていた彼は、咥えていた屑煙草を完全に噛み潰し、その灰を口元から零しながら僕たちの前に踏み込んできた。彼の顔は、影になっていてよく見えない。
ハンスは無言のまま手を伸ばすと、僕とセイルの間から、結晶の配線と繋がっていたその「背骨」を力任せに引き剥がした。ブチブチと生々しい感触を伴って細いケーブルが千切れ、内部の流体が床に数滴滴る。
ハンスはその結晶の塊を片手で乱暴に掴み上げ、そのまま「島」の外の白い霧へと放り投げようと、腕を大きく後ろへ引いた。
その挙動を、青い光の粒子が遮るように回り込んだ。
『待機。当該サンプルの保存を推奨します』
ノアのホログラムが、ハンスの振り上げた腕の目の前で急速に密度を増した。彼女の琥珀と青の瞳が、ハンスの視線を正面から受け止める。
『当該構造物には、旧12区心臓炉の初期起動ログ、および高密度の波形安定化コードが残留しています。本機のデータベース補完、ならびにマスターの神経系に焼き付いた逆位相パルスを中和するための触媒として、極めて高い有用性が認められます』
ハンスの動きが止まった。掴まれた結晶の背骨が、彼の掌の中でドクン、と不気味に跳ね上がる。ハンスはしばらくノアを睨みつけていたが、やがて大きく舌打ちをすると、それをセイルの足元へと置いた
「クソが。好きにしやがれ」
ハンスは背を向け、ネイルガンを乱暴に叩くようにしてホルダーの位置を直した。セイルは何事もなかったかのようにしゃがみ込み、“背骨”を自身の上着で包み始めた。彼は無言で、包み終わったそれを小脇に抱える。
セイルが携帯端末の画面を確認した。
「…そろそろ帰らなくては」
セイルの淡々とした声が、空気を切り替えるように響く。
「復路の時間を考慮すると、遮断膜の維持限界まで残り一時間を切ります」
「分かった…行こう」
僕はコンソールを最後にちらりと見た。青色の光はすでに途絶え、あの少女の映像も砂嵐の彼方へと消え去っていた。そこにあるのは、完全に息の根を止められた、冷たい機械と結晶の死骸だけだった。
僕たちは白い塵に汚れた官用車へと戻った。
ガタガタと不規則な振動が、座席を通じて体に伝わってくる。
ハンスがハンドルを握り、“漆黒の道”を11区へ向かって車を走らせていた。彼は口を開かない。ただ、アクセルを踏み込む靴の硬い音が、車内に規則正しく響く。
助手席の僕が振り返ると、運転席の後ろでは、セイルが隣に置いた“背骨”を見つめていた。セイルの上着にくるまれたまま、それは今もかすかに脈動を続けている。仄かに零れる青い光が、セイルの感情の読めない横顔を鈍く青く染めていた。
ノアは携帯端末の中に姿を消し、炉心室のような駆動音すら響かない。
車内を満たしていたのは、息が詰まるほどの沈黙だった。
誰も何も喋らなかった。
12区で見てしまったもの。あの消え去った街の炉心の底に隠されていた遺産。そして、ノアの過去に繋がる実在の影。
それらの質量が、煤煙の立ち込める狭い車内の空気を、じりじりと低音のノイズのように圧迫し続けていた。僕はただ、窓の外を流れていく、どこまでも均一な灰白色の世界を、言葉もなく見つめ続けるしかなかった。




