余熱のコンソール
何もない。音すらなかった。
上下も、左右も、自分の肉体がどこで途切れているのかすら分からない、均一な白い泥の底。
首を絞めつけていたあの猛烈な熱も、左半身に走っていた熱さも、右目から胸へと突き抜けていた針のような痛みも、すべてが融解して境界を失っている。
(ああ、これが、消去ってやつか)
思考の速度だけが、妙に凪いでいた。12区の“神”だったあの灰白色の結晶塊も、最後にはこんな風に、自分の輪郭を忘れていったのだろうか。心臓炉に繋がれた、使い捨ての契約者。
静かだった。
あまりにも静かで、これなら、あの埃っぽい11区の炉心室で、痛みに耐えることも、神経を削ることも、心臓炉を叩くことも、もうしなくていいのだと、どこか他人事のように納得しかけていた。
――だが。
その泥の底を引き裂くように、ひどく無骨で、乱暴な衝撃が降ってきた。
ドン、と、胸の中央が文字通り「陥没」するような暴力的な圧迫。
肉の塊が、無理やり骨の檻ごと押し潰される感触が、感覚を失っていたはずの神経の端を直接抉った。
(…なんだ、これ)
一度。そして、二度。
規則的だが、容赦のない質量が僕の胸を外側から蹂躙していく。押し込まれた衝撃のあとに、引き剥がされるような圧の解放。そのたびに、肺の奥に残っていた冷え切った空気が、喉の奥からヒュー、と情けない音を立てて強制的に搾り出された。
「―ろ! イレブン、目ぇ開けやがれ!」
鼓膜ではなく、頭蓋の骨に直接響くような、掠れた怒号。
ハンスの声だ。いつも屑煙草の煙と一緒に吐き出される、あの低くて不機嫌な声が、白い泥を激しくかき混ぜている。
「死んだら殺すって言っただろ!こんなところで寝てんじゃねえ!」
ガシ、と、再び両手の平が僕の胸骨の上に重ねられる。
全体重を乗せた、肉と骨の衝突。バキ、と鎖骨のあたりできしむような嫌な音が鳴った。どれほどの力で押し込んでいるのか、僕のどこかが床の結晶塵と擦れ合い、ザリ、ザリと鈍い摩擦音を立てている。
「おい、セイル。こっちの“神様”の波形はどうなってやがる」
「逆位相に転調したままです。心拍は停止状態。12区契約者の個体のラインは…今、完全に切断されています」
セイルの、いつになく足早な声が聞こえる。
胸へ打ち込まれる衝撃は止まらない。三度、四度、五度。ハンスの腕の筋肉が、限界を超えて引き絞られているのが、その振動だけで分かった。
(重い…、な…)
胸郭の芯を直撃する衝撃は、波形となって白い泥を小刻みに震わせる。ハンスの手が胸郭を強引に押し潰すたび、泥の底に沈んだ感覚の残骸が鈍く神経の端に触れた。
(もう、いいだろ…)
思考の底で、生温い拒絶が澱のように沈殿していく。11区の煤けた天井、割れる爪の痛み、喉を焼く血の味。目を覚ませば、またそれらと呼吸を合わせなければならない。それより、このまま感覚の境界を無くしていく方が、はるかに摩擦が少なかった。
(放っておいてくれ。もう、面倒なんだ…)
意識の自律を放棄し、沈降の速度を早めようとした、その時。
『――マスター』
脳を震わせる、擦れるようなノイズ混じりの音。硬質で、輪郭の尖った、彼女の信号。
『生体維持ロジックの停止を非推奨とします。マスター、私の演算を、ここで終了させないでください』
声は、上からではなく、この白い泥の全方位から脳の奥へと直接染み込んできた。
冷徹なトーンは変わらない。しかし、その音節の隙間に、かつてないほどの微細なノイズが混じっていた。曖昧だった僕の輪郭が、その声に触れ、それぞれの場所を思い出していく。
(ノ、ア…)
均一だった白い泥の膜が、中央から垂直に割れた。亀裂の向こうから、半透明の、青白く細い手が一本、真っ直ぐに僕へ向かって伸びてくる。指先から零れ落ちる青い光の粒子が、白い泥を冷たく払い除けていく。
それは、僕の網膜が作り出した、ただの幻覚だったのかもしれない。
だが、その指先が放つ極小の青い火花は、泥の底で解けかけていた僕に、確かにかすかな痛みを残した。
僕は、白い泥の抵抗を押し退けるようにして、その手に向かって意識を伸ばした。解けていた輪郭が結ばれ、形を成す。“右腕”の指先が、床の結晶塵をかすかに弾いた。
「…は…っ」
視界が、一瞬にして青い閃光で塗り潰された。
肺が、引き裂かれるような勢いで周囲の結晶混じりの霧を吸い込み、喉の奥から凝固しかけた黒赤色の血がゴボリと溢れ出す。僕は激しく身をよじり、床の塵を両手で掻きむしった。
視覚が、泥の中から強引に引きずり出される。
目の前にあったのは、灰色の髪を乱したハンスの顔だった。彼の口に咥えられた屑煙草は、完全に中央から折れ曲がり、その灰が彼の顎のラインを汚している。
ハンスが、動きを止めた。僕の胸の上に置かれた彼の両手が、小刻みに震えている。
チリリ、と。
僕の右手の床に置かれていた携帯端末から、これまでにない澄んだ青い火花が弾けた。
空間の白い霧を集めるようにして、光の粒子が急速に収縮していく。現れたホログラムは、先ほどまでの砂嵐のようなノイズを完全に削ぎ落とした、滑らかで無機質な輪郭を取り戻していた。
ノアの琥珀色と青の瞳が、静かに僕とハンスを見下ろす。
『―報告』
ノアの声のピッチは、いつもの、高低のない淡々としたトーンへと完全に回帰していた。
『生体維持ロジックの再起動を確認。…マスターの心拍、回復。システム、正常へ移行します』
ノアが、その細い指先を僕の喉元へ向けた。
僕の首を絞めつけていたはずの頚環が、カチリ、と微かな金属音を立てて元の冷たさを取り戻す。
「あ…なんで…?」
『マスターの心拍数が「0」を記録したため、頚環の基底プログラムは“個体死亡による自動解放シーケンス”を選択』
ノアがふわりと僕の正面に降り立つ。彼女のホログラムを構成する光の粒子は密度を取り戻し、その琥珀色と青の瞳が真っ直ぐに僕を見つめる。
『その処理空白の隙間に、“何者か”が回路の最深部へあらかじめ組み込んでいた、検閲対象外の特権コードが強制展開されました』
「誰だよ、それ」
『不明。しかし、マスターの波形が転調していたために、当該コードは対象を見失いました。その隙に私がコードの書き換えを実行』
「…外せはしないのか?」
『……肯定』
ノアが俯く。僕はハンスに肩をささえられて半身を起こした。その“何者か”とやらは、僕の生死自体に興味はないらしい。
「いてっ」
ハンスがバシリと僕の肩を叩いた。彼は折れた屑煙草を床に吐き捨て、白い塵に汚れた手で乱暴に自分の顔を拭う。
「クソが。寿命が十年は縮んだぞ、イレブン」
「…悪かった、よ」
僕は掠れた声で笑おうとしたが、喉の奥の鉄錆の味が邪魔をして、歪な咳き込みにしかならなかった。セイルが静かに歩み寄り、自身の携帯端末を腰のホルダーに収めた。
「復路を考慮すると、残りは1時間ほどです」
僕が立ち上がるのを見ながらセイルが言った。彼はピンセットで灰白色の結晶塊から数片を削り取る。その後、なおも脈動する“星の核”を検分し始めた。極薄のメスが星の核の繊維を数本切り取り、彼はそれも透明な密閉袋にしまい込む。
「いいのかよ、それ」
ハンスが新しい屑煙草をポケットから出しながら呆れたように言った。セイルは気にした様子もなく作業を続行している。
「貴重な資料です」
セイルが立ち上がり、コンソールに歩み寄る。生きている回路がないか調べているようだ。彼の右手からは銀の火花が、左手からは暗銀の火花が散り、半ば結晶化したコンソールをカタカタと叩く。
「反応ありました」
セイルの声が、結晶の擦れ合う音の向こうから響いた。僕は好奇心を抑えきれず、一歩、前に足を踏み出した。
前方に位置するコンソールは、筐体の三分の一が灰白色の結晶に侵食され、内部の基盤が剥き出しになっている。
その結晶の隙間から、極小のインジケーターが、不規則な明滅を繰り返していた。僕は三歩目の歩を進め、コンソールの縁に左手を置く。
金属の表面は、12区の強制切断の微かな熱を帯びていた。
ガ、ガガ、と、コンソールの中央に位置する矩形の透過スリットが、内部の物理回路の駆動音を立て始める。
投影されたホログラム・ウィンドウは、緑色の走査線が水平方向に激しく歪み、文字情報を認識できないレベルの砂嵐で満たされていた。
表示領域の境界線が波打ち、同期信号の欠落を示す赤色灯が、僕の網膜を一定の周期で刺す。
ノアのホログラムが、僕の右肩から、コンソールへと滑らかに移動した。
彼女の輪郭を構成する青い光の粒子が、携帯端末の出力端子を中心に、一斉に青いパルスを放射し始める。
『―信号減衰率、八十七パーセント。同期ズレを検知』
ノアが半透明の右手の指先をウィンドウの歪みに触れさせると、コンソールの表面プレートがチ、チ、チと高速度の放霊音を刻み込む。走査線の乱れが垂直方向に固定され、砂嵐の粒子が中央から外周へと押し流されていく。
ノイズが、完全に削ぎ落とされる。
鮮明になった画面の光量が、周囲の結晶霧を白く払い除けた。
そこに映し出されていたのは、文字列でも、心臓炉の出力波形でもない。
一つの映像データだった。
背景に映るのは、現在の十二区のような廃墟ではなく、鋼鉄の隔壁と、精密な流体パイプが整然と並ぶ、損耗のない炉心室の光景。
そして、その中央に立つ、一人の少女の姿。
丁寧に整えられた長い髪、白い肌、青の双眸。
しかし、その輪郭は光の粒子に分散されていない。体温を帯びた肌の質感と、衣服の重量、そして呼吸に伴う胸郭の上下。
ホログラムではない、物理的な質量を持った「ノア」 が、そこに記録されていた。




