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逆位相のフラットライン

切断パージ?」

セイルが聞き返す。ノアから散るノイズが、周囲の空気を震わせている。乾いた星の核が、ピクリ、と収縮した。


「星の核の破壊は推奨しません」


セイルの声は静かだった。彼は足元を指差す。


「星の核は現在この“島”を保持しています。破壊により、現環境が崩壊する恐れがあります」

「分かってる」


僕は作業着の胸の辺りを握りしめた。右目から胸元にかけて脈動する痛みは、鼓動に呼応するように熱を走らせている。


「“死のコード”を使う」

『無意味です』

ノアが否定する。彼女は、残った琥珀色の瞳を灰白色の結晶塊に向けた。


『対象は“肉体的死”を迎えてなお、接続リンクを維持している。“死のコード”を使ったところで―』

「違う」


ノアが僕を見つめる。


「使うのは、僕にだ」


僕の言葉に、ノアの左目―その琥珀色の輪郭がわずかな熱を帯びたようだった。一方で、彼女の他の部分は風に煽られるようにノイズを散らし、乾いた空気のなかにその粒子を撒き散らしていた。ハンスが、僕の肩を食い込むほどに掴む。


「逆位相の打ち込みですね」


セイルの声が、細かく振動する空気の層を割って届いた。彼は、感情の読めない眼差しで僕を見つめた。その右手の爪先から、小さく銀の火花が零れる。


「“死のコード”により、あなたの波形を変調させ、12区契約者の波形そのものを相殺する。論理的には成立します」


セイルが左手で右手を押さえた。そこには、僕が“死のコード”で焼き切った銀の波形の名残がある。袖口から覗く彼の結晶痕が微かに明滅した。


「ですが、あなたの肉体が耐えられる保証はない」


セイルが僕から視線を外す。僕の足元の結晶の塵が、風によって不規則的な同心円を描きながら弾んだ。錆びた鉄の匂いが、急激に狭まる呼吸の隙間に滑り込んでくる。


『拒、否』

ノアが途切れ途切れに言葉を紡いだ。琥珀色の瞳が、ひたと僕を見据える。


『現在の不完全な、システム領域でマスターとの同期を強行した場合―マスターの神経系に対する、汚染確率が計測、不能…』


ノアの声は、途切れる音声の隙間を埋めるように急調子だった。彼女の胸元から散る青い火花が、僕の作業着の裾に届いては音もなく消える。ホログラムの明滅が跳ね上がり、彼女の輪郭そのものが灰白色の背景へ溶けかけ始めていた。


「それでも、やる」

僕は言い返した。ノアの視線を受け止めるように彼女を見つめ返す。


「11区の心臓炉OSである君がここで消滅すれば、繋がったままの僕もどのみち焼き切れる。確率は同じだ」


呼吸のたびに、肺の奥で乾いた砂が擦れ合うような音がした。僕は口角の端だけをわずかに引き上げる。


「こんなところで死ぬなんてつまらないだろう。ノア」


畳み掛ける言葉に、ノアの琥珀色の左目が一瞬だけ演算の停止を示すように静止した。ノアを構成する光の粒子が微かに震える。


「…死んだら、殺すぞ」


ハンスはネイルガンをホルスターに納め、ポケットから屑煙草フィルター・バグを取り出す。火もつけずにそれを咥え、僕の肩を支えて立ち上がらせる。足元の結晶がパキリと鳴った。灰白色の結晶塊まで歩くと、僕はそれに左手を当ててノアに頷いた。


「ノア、同期開始」


僕の言葉が、乾燥した空気に落ちる。ノアのホログラムが激しくぶれ、その光の密度が一瞬だけ安定する。彼女の琥珀色の左目が、とろりと熱を帯びた。


『了解、同期率40%』


彼女の声は、高低のない平坦なトーンへと切り替わっていた。ドクリ、と僕の心臓が跳ね、左目から肩、腕にかけて皮膚を内側から焦がすような熱が走る。


「…っ」


体の左半分からは焼けるような熱が、右半分からは引き裂かれるような痛みが僕を襲う。灰白色の結晶表面に押し当てた左掌から細かな振動が伝わる。指先の皮膚が硬質な突起に吸い付き、表皮の油分が微かに奪われた。


『同期、開始』


ノアの言葉と共に視界の左半分が、細刻みのグリッド線に酷似した黒いノイズで埋まった。網膜の裏側で、煤蜂の羽ばたきのような激しい明滅が起きている。僕は歯を食いしばった。ドクリ、と“死のコード”が脈動する。心臓が収縮するたび、鎖骨の直下を走る血管が硬い針金に変わったかのような異物感を生む。喉の奥から、凝固しかけた血液の鉄錆味がせり上がってきたが、それを飲み込む隙間もない。


『―変調パルス、逆位相へ転調開始』


ノアの口唇が上下に動いたが、出力された音声は人間の声帯を模したものではなかった。複数の高周波ノイズが干渉し合った、平坦な機械共鳴。体の半身をそれぞれ襲う痛みが、体の中央部でぶつかりあい、背骨が引き抜かれるかのような高熱の摩擦が神経を削る。荒い息を吐いた僕の背に、ハンスの手が押し当てられた。


『同期率、45パーセントへ上昇。マスター、の神経末梢における、波形差…通常値の、4倍を検知…』

ノアの言葉の末尾は、金属片をヤスリで削るような摩擦音に掻き消された。彼女から爆ぜる青い火花は、僕の作業着を焦がし、その下の皮膚へ直接到達する。


『警告、生体維持、ロジックとの…競合。相殺完了まで、あと、150秒―』


ノアの視線が、僕の顔面を正確に捉えた。その琥珀色の奥で、膨大な数の文字列が高速で落下している。喉にせり上がる鉄の味が強くなる。僕の欠けた爪の隙間から、粘度の高い血がドロリと滲み出し、結晶塊の表面に垂れ落ちた。


「残り、140秒」

セイルが携帯端末を見ながら小さく呟く。それは、ノアの全てが上書きされるまでの残り時間だ。


「ノ、ア…同期率、上げてくれ」


ノアの琥珀色の左目が、一瞬だけ瞬いた。歪なパッチワークのように噛み合いながら明滅していたノアの右半身の輪郭が、一斉に高周波の不協和音を放ちながら弾ける。


『―同期率、50パーセントへ上昇』


その声はもはや言葉の体をなしていなかった。二枚の金属板を噛み合わせて高速で擦り合わせたような、硬質で平坦な二重の摩擦音が、直接鼓膜の奥を穿つ。


「ぐ、ご、ほ…っ」

僕の口から、胃液混じりの血の塊が吐き出された。左腕全体の質量が数倍に膨れ上がったかのような、強烈な圧迫感がある。骨髄を直接削られるような、熱く冷たい激痛が背骨を突き抜けた。


「イレブン…」

僕の背を支えるハンスの指先が、作業着越しに僕の肋骨の震えを感知してさらに深く食い込む。咥えた屑煙草の先端から、火のついていない乾いた破片が零れ、僕の肩に落ちる。


『…相殺、完了…まで、あと、100秒―』


ノアのホログラムが激しく明滅を繰り返し、彼女の輪郭はもはや光の線の集合体へと分解されつつあった。それでも、その中心に位置する琥珀色の左目だけは、“死”の熱を湛えて僕の網膜を正確に捉え続けている。

足元に吐き出した血の塊は、結晶の塵と混ざり合った瞬間に赤みを失い、灰白色の小さな結晶塊へと変質していく。


「残り、100秒」


セイルの持つ携帯端末の画面が、僕たちの周囲に散る青い火花を鈍く反射している。鼓膜の奥でキィン、という金属的な残響だけが固定され、周囲の空気が細かく均質に歪み始める。


逆位相転調の波形が、ピークへ到達した。


ドクン、と僕の胸部中央が内側から激しく蹴り上げられた。それは心臓の拍動というよりも、肉体の中に閉じ込められた硬質な質量が外へ飛び出そうとする暴力的で不規則な跳ね上がりだった。収縮のたびに鎖骨の直下が異常に膨らみ、次の一瞬で、皮膚が肋骨に張り付くほどに陥没する。


「が、は…っ!」


左半身を走る“死のコード”の焼き付きは、皮膚の損耗を加速させていた。焼けただれた表皮の隙間に細かな亀裂が走り、そこから熱を失った黒赤色の血が、結晶の塵の上へと間欠泉のように零れ落ちる。心臓の跳ね上がりがもたらす高熱の摩擦が体内で完全に飽和し、肉体の中心軸が引き裂かれる感覚が走った。


「残り、60秒」


セイルが刻む。ハンスの指先が、さらに深く、肉を抉るほどの圧力で食い込んだ。不規則に跳ね上がる僕の体を固定するかのように、彼の掌が、僕の肩の肉と骨を上から押し付ける。屑煙草の紙片が、僕の荒い呼吸の風圧で小さく舞い、足元の灰白色の地面へと落ちていった。


「ノ、ア…」


僕の途切れ途切れの声に、ノアが意識を向けたのが分かった。彼女の琥珀色の瞳。僕の左目にも宿っているであろうその熱。網膜の奥の脈動が、彼女の瞬きと重なった気がした。


『マス、ター…』


全ての輪郭がぼやけていく中で、ノアと同期した左の瞳だけが熱い。視界が滲み、もはや痛みすら遠い。ノアのホログラムが、崩れながらも僕に滑り寄る。


「残り、30秒」


セイルの声。ノアを構成していた光の線は、もはや極小の光の粒と化し、僕の周囲に薄青い光の層を形成していた。彼女の足が崩壊し始める。膝から下を霧散させたノアは、音もなく僕に顔を寄せた。


「10秒」


激しく肋骨を蹴る心臓。次の一拍で心臓が破裂する予兆が、胸郭の不自然な震えとなって僕の指先に伝わる。ノアの唇の輪郭が震える。周囲の青い光全体が、僕を包むように重なった。


「…!」


心臓が、爆ぜた。




「嘘…」

レイナの青灰の爪先が、空中の一点で完全に静止した。

滑るように明滅を繰り返していたホログラム・ウィンドウの輝線が、次の一拍を刻むことなく、垂直に折れて一本の平坦な水平線へと固定された。

イレブンの心拍を刻んでいた緑色の数値が、瞬時に「0」へと切り替わり、固定される。イレブンの頚環リングから送信されていた生体信号は、完全に途絶していた。


「イレブン、さん…?」

ニコの喉の奥から、乾いた息が漏れた。

彼の視線はコンソールの最下段、イレブンの心拍を示す数字に釘付けになっている。ニコの指先が、不自然な痙攣を伴ってコンソールの金属縁を強く掴んだ。


「警備長さん、これ、何かの間違いですよね。計器の、不具合か何かで、11区の回路が一時的に遮断されただけで―」


ニコは椅子を大きく引き摺り、立ち上がった。金属製の脚が床板を鋭く引っ掻き、耳障りな摩擦音を立てる。ニコの半透明の右手の爪先から、淡い火花が爆ぜた。


「…違う。頚環リングの霊子信号自体は途絶していない」


「生体反応だけが…」と言うレイナの言葉に、炉心室の空気が質量を増したかのように静まり返った。ホログラム・ウィンドウに映る、11区の配給の列がウィンドウの砂嵐に巻かれ、ノイズの中に紛れていく。床板を揺らす心臓炉の低周波のみが、二人の足元でただ均一に震えを維持していた。


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